足掛け15年間続けた遺跡発掘調査、2014年春にリタイアしました。2006年春から主として R181のバイパス予定地の発掘調査作業をやってきました。バイパスは米子市八幡から伯耆町吉定までの約4.5kmで伯耆町の山間部を通ります。その内 伯耆町坂長村上地区から吉定までは予備調査、本調査あわせて、丸6年間ぐらいは発掘作業をやりました。作業をリタイアして、健康のため1日1万歩の ウォーキングをやっています。調査作業をやってきた「ブジラ・尻田平地区」から「金廻地区」までは農業用水路の佐野川管理道路がほぼ平行して付けられています。 山道が多く、夏は木陰、冬は風を防いでくれて、絶好のウォーキングコースです。遺跡調査をした場所がどのように道路に成って行くのか興味深々でカメラを持って写真を 撮り捲りました。遺跡作業の時の写真と併せて、表題の「遺跡発掘調査・R181バイパス工事・健康ウォーキング」を自分史としてまとめようと、この欄に 掲載することにしました。画像がすごい量になって、整理が大変でしたが、何とか掲載にこぎつけました。バイパス工事はあと、2年ぐらいは掛りそうなので、 まだまだ続きますが、取り敢えず一区切りを付けましょう。 |
遺跡発掘調査とパイパス造成状況 |
R181バイパスは現在、米子市八幡から伯耆町坂長村上までの1.6kmが部分開通しています。 この部分は私は遺跡発掘作業に参加していません。米子諏訪地区では米子市で発掘調査が行われ、現地説明会が開かれましたので、写真が少々ありますので遺跡のことも紹介できます。 八幡地区、諏訪地区の道路造成の頃は私が未だ遺跡調査作業をやっていましたので、完成の道路の写真だけに成ります。 |
米子八幡地区 道路造成 八幡では一応バイパスが出来ていますが、現在のR181からの接続が未だ充分に整備がされていないようです。 現状の画像と私が想像する接続の様子を紹介します。 |
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1. 向こうの坂長村上側から右にカーブして現在のR181にT字接続。新しい接続は右にカーブせず黄色ラインのようにほぼ直進。左側の黄色ラインは、「3.」の 歩道の縁石に沿って描きました。 | 2. 右にカーブして現国道にT字接続しています。 | 3. 接続が完成したときの歩道がもう、出来ています。重機の置いてあるところが道路に成りそうです。 |
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4. 黄色いラインのように、ほぼまっすぐ道路が付けられるように思います。 | 5. 右にカーブせずに、黄色のラインの方向にほぼまっすぐ行きそうです。 | 6. 永江団地入口交差点側からの状態で、斜め右方向に行き、現在のバイパスに接続しそうです。 |
米子諏訪地区 遺跡調査 遺跡発掘調査は米子市がやりました。以下の画像は2004.10.23に行われた現地説明会のものです。 説明などは米子市埋蔵文化財センターのS調査員がされました。この方にはその後2012年から3年間ぐらいお世話になりました。いろいろ話をしてみると、私の亡妻が伊丹市の中学校を退職した、その2年後に Sさんが同じ中学校に入学されたのです。不思議なご縁でした。今から12年前の画像。当時デジカメが出始めでフロッピーディスクに記録するものだったのですが、画素数も小さく画質も良くなかったですね。 |
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1.出土した土器は測量に備えて、高さをそのままタワーにしてあります。 | 2.竪穴式住居の遺構を説明するS調査員 | 3.掘建て柱建物の柱の遺構が、きちんと配列しているようすです。 |
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4.出土品の土器。手前茶色が土師器、向こうのグレーが硬質土器の須恵器です。 | 5.復元された土師器の壷類。 | 6.結構大型の土師器の壷が出土しています。 |
米子諏訪地区 道路造成 この部分は私が未だ遺跡発掘作業に従事している頃に造成され部分開通しています。 道路造成の様子はわからないのですが、諏訪神社の近くで、かなり山を掘削しているようですね。私が米子に出る時は殆んどこのバイパスを利用しています。 |
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1. 右側のこんもりした森が諏訪神社の森です。 | 2.同じ場所ですが、道路は盛り上げられ、削られています。このあたりが開通しているバイパスでは 一番高い場所かもしれません。 |
坂長村上地区 遺跡調査 遺跡発掘調査は鳥取県によって2006年 H18年に行われ、私もこの「村上地区」で作業に従事しました。 同時進行で、この「村上」と「第7」「第8」の3箇所で発掘作業が行われたものです。人員も3グループに分かれて行われたもので、後で述べる「第7地区」「第8地区」は発掘作業中のことは余り写真を撮っていません。 最後の現地説明会の時に撮影したものです。このときは、デジカメもメモリーカードに記録するものに買い換えて、画質も良くなりました。 |
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1.'06.6.7 初期の段階で、重機が表土を削った後、大ガリなどで少しずつ掘り下げているところです。削った土はベルトコンベアに乗せて、廃土置き場に捨てます。 | 2.'06.6.6 出土した土器群です。位置、高さを測量して取り上げてから又地面を下げていきます。 | 3.'06.6.14 地面を下げて綺麗になりました。調査員が遺構(主として黒い部分)を探します。 |
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4.'06.7.6 四角い竪穴住居跡です。弥生後期か古墳時代でしょう。 | 5.'06.7.26 黒い部分を少しずつ掘って遺構の確認段階でしょうか。 | 6.'06.9.30 かなり広く、黒い部分がはっきり出ています。何かの遺構でしょうか。 |
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7.'06.10.17 もう殆んど終って、明日にでも別の地区へ行こうという時になって、こんなお宝が出てきました。石鏃(石の槍の先)の付け根です。急遽、調査範囲を広げて、石器探しです。引越しは延期。 | 8.'06.10.18 また、石鏃がでました。前日の分の先の方みたいです。ここの黄色い土層は旧石器時代のものだそうです。 | 9. 形から見て、この二つは同じ槍先が割れたものではないかと思い、画像の上で繋いで見ました。どうやら、一つの槍先が割れて、別々のところから出てきたようです。引越しは1ヶ月延びました。 |
坂長村上地区 道路造成 このT字路までがバイパス部分開通しています。 道路に成っているところは比較的平坦な場所でした。まわりの小高いところは田んぼや畑がありました。この場所で県道316号線と交叉します。 |
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1.第6地区側からの撮影。向こう側が部分開通のバイパスで、交差している道路が県道316号線。右へ行くと伯耆町大寺交差点、左が南部町方面です。手前はバラス敷きで、工事車輌しか入れません。 | 2.手前の道路が部分開通しているバイパス。黄色の左右への案内板から50mほどがバラス敷きです。 |
坂長第6地区 遺跡調査 遺跡発掘調査は鳥取県がやりました。この地区の調査は代表的な遺構、出土品がたくさん出ました。 特に、掘建て柱建物跡が牡丹畑に続いているので調査員が私に「この牡丹畑、買ってくれませんか。そしたら、もっと調査が進められるのに!」「この場所の道路目面は6mも下がるのでしょう?そしたら、駐車場もレストランも 造れないのでお断り!」などという会話があったほどです。 |
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1.'07.5.16 綺麗な形の、弥生時代の竪穴住居です。 | 2.'07.6.27 この第6地区で一番の収穫は「鍛冶炉」とそれに関連した遺物でしょう。第6から第7に下がる法面から出ました。 | 3.'07.6.27 その中でも鉄の鍛造に使われる大型の「鉄床石(たたき台)」でしょうか。石には金属の薄片が付着していました。 |
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4.'07.6.27 掘建て柱の建物跡です。かなり大きなもので、調査区域外の牡丹畑にまで伸びています。郡の役所:![]() |
5.'07.6.30 出土、復元された須恵器の土器類。 | 6.'08.1.21 鉄の溶解炉に送風する羽口(はぐち)が大量に出土しています。 |
坂長第6地区 道路造成 この部分は私が未だ遺跡発掘作業に従事している頃に造成されたものです。 道路造成の様子はわからないのですが、全体が小高い畑の部分で、道路面は6mぐらい下げられました。 |
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1. 原風景:これは最近撮ったものですが、農道や畑、田んぼのあった場所でした。 | 2. これは、道路としては完成した’14年にとったものです。遠くに高架橋があり、 その上は町道が走っています。このトンネルの向こうが「村上地区」です。 | 3.これも最近とったものですが、佐野川が分岐した水路がこの道路の上を走っています。橋の下の部分の四角いものが水路です。 |
坂長第7地区 遺跡調査 遺跡発掘調査は鳥取県がやりました。この地区は私は作業しておりません。 時々外から見ていましたが、いつも水が溜まって、ポンプでくみ上げていました。作業員はいつも全身泥まみれで作業していました。大変な地区でした。 |
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1.'06.6.27 水路の多い調査地区です。 | 2.'06.6.27 水路とその縁にある木の杭です。水の中にあったから木が腐らなかったようです。 | 3.'06.6.27 硯や須恵器などの出土品です。 |
坂長第7地区 道路造成 この地区は元、田んぼのようで一段と低い場所です。道路造成は地区全体土盛りで造ったようです。 |
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1.'16.3.4 原風景:既に道路の造成が終った時期に撮ったものですが、調査前にはこんな草原になっていました。 | 2.'14.4.16 一昨年にはもう、舗装も完成していました。これは第6地区の小高いところから撮ったものです。 | 3.'14.5.22 手前は第8地区でまだバラス敷きです。向こう側が第7地区、その向こうの小高くなっているところが第6地区です。 |
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4.'14.5.22 丁度、第7と第8の境目です。バラス面と舗装面では、10cmぐらいの段差があります。 | 5.'16.2.25 第7地区に作られた道路全体です。向こうの小高くなったところが第6地区です。 | 6.'16.2.25 No.2とほぼ同じアングルですが、第6の小高いところから撮ったものです。 |
坂長第8地区 遺跡調査 遺跡発掘調査は鳥取県で行われました。下門前に上がる山の裾といった場所でした。 この写真は’06.9.30現地説明会のものです。余談ですが、この地区を掘った黒ボクの土が、次の春には落葉が積もっていて、この土を土嚢袋に10個ばかりいただきました。 現在、我が家の一坪農園になり、胡瓜、トマト、レタス等の夏野菜をたくさん収穫させてくれます。 |
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1.'06.9.30 竪穴式住居跡・中央に主柱穴、左側が入口、一番手前に炉があります。 | 2.'06.9.30 現地説明会で展示された土器類です。赤っぽい土師器が多く出たようです。 | 3.'06.9.30 石鍬、縄文土器、黒曜石製の石鏃(槍や矢などの穂先)などが出土しています。 |
坂長第8地区 道路造成 殆んどが盛り土がなされていて、道路の形は’14時点で出来上がっていました。バラス敷きの状態です。 昨年秋になって舗装が始まったところで、現在は予備舗装といった段階です。あと、5cmぐらいは本舗装でかさ上げされるでしょう。歩道が造られ、車道との境目の縁石も設置されました。 |
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1.'16.3.4 原風景:写真は最近のものですが、全体がこんな感じだったと思います。 | 2.'14.4.16 一昨年の時点でかなり高く盛り土がされていて、道路の形は出来上がっています。 | 3.'14.5.22 第7地区から第8を撮ったものです。第7の部分は舗装が完成し、第8の部分はバラス敷きです。 |
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4.'15.11.16 歩道との境目の縁石を設置するための丁張りです。 | 5.'16.2.25 予備舗装が終った第8から第7地区を見た写真です。 | 6.'16.2.25 第7地区と第8との境目です。第8部分は車道の舗装がされています左側に縁石が見えますがNo.4の丁張りの後に設置されたものです。。 |
下門前地区 遺跡調査 この地区は小高い山の中でした。予備調査では細めの樹木は作業員で伐採し、草刈をしてから表面の草や、木、落ち葉などを取り除いて始まります。 本調査では伐採や表土剥ぎは業者がやってくれます。第8地区からかなりの急斜面を歩いて上がって作業が始まります。 |
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1.'06.12.20 浅い段階で畑の畝状の遺構が広範囲に出ています。噂によると太平洋戦争時代に芋を作った畑ではないかということです。60年前の貴重な??遺構ですかね。 | 2.'06.12.20 かなり広い範囲で黒い土層がありそれを深く下げています。柱穴のような遺構が見えますね。ベルコンを急角度で設置しています。 | 3.'06.12.19 こげ茶色の土が下に突き出しています。落とし穴でしょうか。 |
下門前地区 道路造成 殆んどが盛り土がなされていて、道路の形は’14時点で出来上がっていました。バラス敷きの状態です。 昨年秋になって舗装が始まったところで、現在は予備舗装といった段階です。あと、5cmぐらいは本舗装でかさ上げされるでしょう。歩道が造られ、車道との境目の縁石も設置されました。 |
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1.'14.5.22 下門前からブジラ地区方向を撮ったものです。2年前ですが道路造成は終ってバラスが途中まで敷かれています。 | 2.'16.2.25 バラスが下門前地区全体に敷かれました。工事が少し進みました。 | 3.'16.3.12 ブジラ側から下門前の舗装部分を撮ったものです。下門前の半分ぐらい、予備舗装され、歩道との境目の縁石も設置されています。 |
坂長ブジラ・尻田平地区 遺跡調査 遺跡発掘調査は鳥取県、伯耆町、米子市で行われました。 鳥取県と米子市は「埋蔵文化財センター」というような部署、伯耆町は教育委員会で主として予備調査を受け持ちます。伯耆町での調査は1〜2m×5〜10mのトレンチと呼ばれる長方形の穴を掘り、 そこで遺構や遺物が出ると本調査を鳥取県か米子市で行いました。本来は「ブジラ地区」と「尻田平地区」は別々ですが、本調査や道路造成では境目がはっきりしなくて、ここでは一括して扱うことにします。 調査前の地形で言えば「ブジラ地区」は平坦地の草原、「尻田平地区」は斜面の林でした。予備調査でも写真を撮った筈なのですが、消去してしまったのか見当たらず、 米子市の本調査のときの1枚きりでした。 |
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1.'12.10.3 大き目の壷が出土して、それを水拭きしているところです。 |
坂長ブジラ・尻田平地区 道路造成 この地区の造成はこの半年ぐらいで随分進みました。 2箇所のボックス・カルバート(上と下の道路が立体交叉するときに設置するコンクリートの大型建材)が早くから設置してありましたがまだ上の道路部分に殆んど 土盛りがされていないじょうたいから、バラス敷きまでの道路造成が終りました。おまけに坂長水源地の上側にインターチェンジ的なループ道が設置されました。 家から12分ぐらいのところなので、写真撮影方々しょっちゅう見に行っていました。 |
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1.'16.3.4 原風景「尻田平地区」 写真は最近のものですが、全体がこんな感じだったと思います。下から1/3ぐらいのところにグレイの線が 見えますが、それは幅20cmぐらいの水路です。そこから上の斜面が尻田平地区です。 | 2.'14.4.16 原風景「ブジラ地区」 写真は最近のものです。段々になっていますが平坦地です。以前は田んぼか畑だったのでしょうが 調査が始まる前はくさはらでした。 | 3.'14.5.22 普門寺裏のボックス・カルバートで、普門寺からボックスのトンネルを抜けた場所です。上の道路は中央付近だけ土盛りがされた段階です。 右側の大きな土盛りは、後から考えればインターチェンジループ道を造る造成でした。 |
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4.'14.4.16 同じ普門寺裏のボックスです。手前のほうは上の道路の土盛りがされていません。 | 5.'15.8.6 坂長水源地側のボックスの向こう側でICループ道を造る造成が始まったところです。 | 6.'15.8.13 水源地側のボックスです。まだボックスの上に達するほどの土盛りはされていません。 |
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7.'15.3.22 水源地の前からの撮影です。少しずつ土盛りが進んでいます。 | 8.'15.8.27 5日間でかなり土盛りが進んでいます。 | 9.'15.9.2 もう少しでボックスの上まで土盛りが終りそうなぐらい進みました。 |
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10.'15.9.5 ようやくボックスの上に土を乗せるようになりました。でも、No.6の段階からここまで1ヵ月半で進みました。 | 11.'15.9.8 前田側から見たところ。黄色の重機が見えるあたりがボックスの場所です。土の造成はほぼ終わり、バラス敷きが始まっています。 | 12.'15.11.7 ボックスの上から撮ったループ道の上り始めです。 |
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13.'15.11.7 水源地からボックスを抜けた場所のループ道の写真で、手前が昇り方面です。 | 14.'16.3.12 水源地の前からの撮影で、バラスが綺麗に敷かれています。トンネルを抜けると時計方向にループ道が上がります。 | 15.'16.3.12 ループ道のほぼ中間です。右時計回りでT字路でバイパス本線と交叉します。 |
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16.'16.3.12 T字路でバイパス本線に交叉です。右が吉定側、左が米子八幡側です。 | 17.'16.3.12 下門前側から撮った写真です。黄色のラインがループ道の路面レベルで、黄色の〇の場所がT字路です。 | 18.'16.3.15 水源地からボックストンネルを抜けたところ。右回り昇りの始まりで、画面の両側にボックストンネルの壁が写っています。 |
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19.'16.3.15 バイパス本線と左の馬蹄形の土の部分の外側にループ道が付いています。 | 20.'14.3.15 ボックスの上から下門前方面を望む写真です。全面バラスが敷かれ、展圧され、舗装を待つばかりです。 | 21.'15.3.15 ボックスの前田寄りの部分です。 |
前田地区 遺跡調査 予備調査を伯耆町で、本調査を米子市で行いました。本調査後の現地説明会が’09.10.24に行われました。遺構としては全面水路跡のような印象でした。 |
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1.'09.10.24 水路の遺構です。 | 2.'09.10.24 これも水路の遺構です。 | 3.'09.10.24 遺構としては落とし穴が出ています。 |
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4.'09.10.24 黒曜石製の石鏃(槍や矢などの穂先)などが出土しています。 | 5.'09.10.24 土器などの展示です。中央の茶色の土器は縄文時代です。 |
前田地区 道路造成 この地区は元、田んぼのようで一段と低い場所です。道路造成は地区全体土盛りで造ったようです。 道路の土盛り造成は9割がた終っていますが、残りは「ふるさと農道」との交叉の部分です。この交差点は平面交叉という話ですが、バイパスもふるさと農道も一番低いところで交叉しています。 最終的にはどちらの道路も嵩上げすると思われます。2年前に比べて、バラス敷きが少し進んだように思います。 |
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1.'16.3.2 原風景:既に道路の造成が終った時期に撮ったものですが、調査前にはこんな草原になっていました。 | 2.'10.12.2 前田地区にボックス・カルバートを埋めつつあるところです。中央の道路はふるさと農道で左が花回廊方面です。伯楽塚から撮りました。 | 3.'14.4.20 No.2の状態から比べて、道路の造成が進み、ほぼ完了しているようです。 |
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4.'16.3.2 平坦な部分はバラス敷きが進んでいます。 | 5.'16.3.2 2年前のNo.3と比べて、殆んど進展なしです。 | 6.'16.3.3 「ふるさと農道」です。左にカーブする一番低いところがパイパスとの交点で、右が前田地区、左が伯楽塚地区です。 |
伯楽塚地区 遺跡調査 この地区は小高い山の尾根でした。予備調査を伯耆町が行いました。大きい木の伐採は終っていて、調査前は草原状態でした。 前田地区に車を止めて、結構急な坂をジグザグに上がって、尾根の頂上まで一仕事でした。 |
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1.'10.12.2 尾根に掘ったトレンチです。もしや、墓では?と思わせる平たい石と土器が出土しました。 | 2.'10.12.2 同じトレンチの土器の写真です。 | 3.'10.12.2 同じ土器のアップ写真です。 |
伯楽塚地区 道路造成 調査の時に上がったジグザグ道は姿を消して、ふるさと農道との接続部分以外はほぼ、造成が終っているようです。 |
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1.'10.12.2 原風景:調査前の状態で、切り株、丸太、荒らされた地面などです。 | 2.'14.4.20 山は削られ、奥のほうの平坦部は造成されているようですが、手前の下り坂はふるさと農道との接続で大幅に変わるでしょう。 | 3.'16.3.2 2年前とは殆んど代っていません。手前ガードレールの付いたところがふるさと農道、右が花回廊方面です。 |
越城野原1区 遺跡調査 予備調査を伯耆町で行いました。伯楽塚から山のほうへ行く道を迂回して、次の尾根がこの地区です。積雪のある時期にも作業をしました。 うっすら雪のある迂回路を通った時、いのししの足跡がありました。 |
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1.'10.12.2 尾根の東側で、頂上近くに掘ったトレンチです。土器がタワーにして残されています。 | 2.'10.12.2 尾根の西側に掘ったトレンチです。中央付近に溝のようなものと上のほうから縄文式土器と思われるものが出ました。 | 3.'10.12.2 手前左の縄文式土器と思われる模様が見られます。 |
越城野原1区 道路造成 結構早い段階で尾根は掘削されていました。ここの土砂は、主として伯楽塚、前田を通って、 ブジラ・尻田平の造成に使われていたようです。 |
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1.'16.3.17 越城野原3区から撮ったものです。道路の向こう端が伯楽塚のくだりに掛るあたりです。 | 2.'16.3.2 伯楽塚側から撮ったもので、遠くに越城野原3区の造成された土が見えます。 | 3.'16.3.10 右側の山が越城野原1区の尾根になります。 |
越城野原2区 遺跡調査 この地区からは、いろいろなお宝や遺構が出ました。お宝No.1は大きな石棺の中の勾玉でしょうか。 この石棺からは一緒に首飾りにしたのか穴のあいた小さなガラス球も出ました。別の場所から形がそのまま残った刀剣も。遺構としては複数の竪穴住居、古墳の周溝など。 わくわくしながら発掘作業に励みました。 |
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1.'13.2.22 私が掘り初めから柱穴の掘り、仕上げまでずっとかかわった竪穴式住居跡です。 | 2.'13.2.26 右側の黒い遺構状の周りに周溝が。この画面の一番上あたりから次の石棺と勾玉が出ました。 | 3.'13.5.16 大きな石棺で、蓋の石が3枚、そのつなぎ目に粘土が詰められ、更に小さい石でカバーしていました。酸素を遮断する仕掛けでしょう。蓋3枚の全長は210cmありました。 |
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4.'13.5.24 ついに出ました。お宝の勾玉とガラス球。勾玉の材質は瑪瑙(めのう)。長さは27mmぐらいです。二酸化珪素が主成分の硬い鉱物でこのような装飾品だけでなく、現在でも乳鉢などに使われています。 | 5.'13.5.16 多分、古墳時代の刀剣です。すっかり錆びていました。全長88cm。取り上げる時に3つ位に折れてしまいました。 | 6.'13.10.4 この尾根を越城野原3区側に下がった谷部の調査場所です。3方、階段状にしながら掘り進めました。 |
越城野原2区 道路造成 この地区は元、田んぼのようで一段と低い場所です。道路造成は地区全体土盛りで造ったようです。 |
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1.'14.7.21 原風景:この地区の越城野原3区側の斜面で、階段状に調査した谷から撮ったものです。 | 2.'14.4.20 左側が越城野原3区で、造成途中。3区側にまだ壁があります。中央の小高いところから勾玉出土です。 | 3.'16.3.17 もう、道路の造成は終った感じです。 |
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4.'16.3.17 越城野原3区から撮ったものです。左右に山に掛る白い管理道が見えるあたりがこの尾根の場所です。 | 5.'16.3.10 すっかり掘削されて残った尾根の部分です。中央の一番高いところ付近で勾玉が出土しました。 | 6.'16.3.2 階段状に掘った場所が、6m位土盛りされました。手前の黒い部分が元の地山で、調査作業中はここに休憩用のテントを張りました。 |
越城野原3区 遺跡調査 ここからも、恐ろしいお宝がでました。頭から足先までの朱塗りの人骨です。このあたり、表土掘りから暫くは掘りの作業をやりましたが、 途中から前述の階段状に掘った場所に移動になったものです。伯耆町でも予備調査をやった場所なのですが、まさか、こんなものが出るとは驚きです。越城野原2区側の階段状に掘った場所に降りる急斜面にトレンチを掘ったのも懐かしいものです。 |
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1.'13.10.7 石棺が出た時点で、階段状に掘っている場所から急坂を上がって見に来ました。この蓋は2枚で、全長は2mぐらいです。 | 2.'13.10.31 人骨の入っていた石棺の内部です。人骨の身長は150cmぐらいでした。 | 3.'13.10.31 この朱の色は他に類を見ないほど真紅です。多くの場合、朱塗りと言っても茶色がかったベンガラを使うことが殆んどですが、 この顔料は「辰砂」という硫化水銀の塗料です。よほど高貴な人のお墓なのでしょうね。 |
越城野原3区 道路造成 この地区の掘削は大したものでした。 10mを越える尾根を削り、土は「ブジラ・尻田平地区」の造成にダンプ3台ぐらいがピストン運転でどんどん運び、1年余りで道路の形を作ってしまいました。 もう、半年ぐらい開店休業で工事は次の段階までお休みみたいです。 |
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1.'14.5.10 原風景:遺跡調査は終ってまだ道路の造成は始まっていない段階です。 | 2.'14.9.20 越城野原2区の小高いところから撮ったもの。真ん中の黒い土の部分が階段状に掘った谷部です。そのあたりを埋め立てているところ。 | 3.'15.3.27 この中央部が谷部を埋め立てたところです。その先が3区の地区です。 |
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4.'15.3.27 谷部の埋め立てがほぼ終わり、3区まで車の通行が可能になりました。 | 5.'15.5.2 1ヶ月で掘削が随分進みました。手前の、落葉が少し積もっているところが人骨の出た場所です。 | 6.'15.7.30 掘削がどんどん進んでいます。ユンボが高いところまで上がって削っています。 |
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7.'16.1.3 道路の造成が殆んど終った段階です。人骨の出た場所は奇跡的に残されています。土の明るい部分です。左の地山のところに平たい石が置き去りです。石棺の材料かも!。 | 8.'16.3.7 現段階では造成はほぼ終了のようです。白っぽい道路上のところは完成道路面か、作業用道路か不明です。左に法面管理道、その右側の一番高いあたりが人骨出土場所です。 | 9.'16.3.7 かなり急な管理道の途中から下を見たところ。一番上の右側に白い管理道が見えますが、このあたりが2区です。 |
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10.'16.3.8 次の地区の芦谷平から谷を隔てて撮ったものです。この谷は埋め立てるのか橋を掛けるのか未だわかりません。伐採もされず、手付かず状態です。 | 11.'16.3.17 この地区の一番奥、芦谷平側は2m余り高いまま残されています。そこから、2区、1区方面を撮ったものです。 |
芦谷平地区 遺跡調査 伯耆町で予備調査をやりました。佐野川より下の急斜面、平坦地、 上の尾根に向かう斜面、尾根筋などかなりのトレンチを掘りました。水路や石敷き詰め場所など、遺構なども検出しました。山の中に小さい石室もありました。 本調査はその4年後ぐらいに米子市で行い、秋に現地説明会が開かれ、見学しました。 |
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1.'11.7.14 山の中にあった石室です。かなり以前から有ったようです。 | 2.'14.3.28 伯耆町で斜面の半分ぐらいを本調査しました。石棺が二つ出ました。中には何も無しです。 | 3.'14.10.20 米子市の本調査で出土した鏡です。国産のものだそうです。この本調査に携わった遺跡仲間がメールで送ってくれた画像です。 |
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4.'14.11.24 米子市の本調査で尾根のほうから出た石棺です。白っぽいものは人骨のようです。 | 5.'14.11.24 現地説明会で展示された鏡2個です。緑青が出ているところを見ると、銅製かな。 | 6.'14.11.24 結構大型の土師器の壷が出土しています。 |
芦谷平地区 道路造成 この地区の造成工事は始まっていません。 掘削の位置を示す「丁張り」が設置してあるだけです。越城野原3区との間にかなり広くて深い谷があり、それをどのように道路を造るのか、興味深々です。 |
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1.'15.12.25 斜面に設置された高さ方向の丁張りです。掘削の目安となるものです。 | 2.'16.2.12 水平方向の丁張りです。 | 3.'16.3.8 斜面に設置された水平方向の丁張りです。斜めの板の角度で掘削されると思われます。 |
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4.'16.3.7 越城野原3区から間の谷と斜面を撮ったものです。この急な斜面も伯耆町の予備調査でトレンチを掘りました。 | 掘りました。5.'16.3.7 越城野原3区から谷の深さを撮ったつもりです。結構深くて広いのですが、道路はどのように設置されるのかな。 | 6.'16.3.7 越城野原3区の一番芦谷平よりの高めに整地されたところから撮ったもの。谷の部分はまだ伐採もされていません。 |
金廻地区 遺跡調査 伯耆町で予備調査をやりました。今も残っている一番高い尾根から、下のほうまでトレンチを掘りました。 それなりの遺構や出土品の大型壷などが出ました。本調査は米子市で行いましたが、私はほんの少ししかこの地区の作業はやっていませんでした。 |
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1.'11.2.25 斜面の上のほうに設置したトレンチです。この一番高いところは今も残っています。標高100mの三角点がありました。 | 2.'11.2.25 上から2本目ぐらいのトレンチです。1辺30cmぐらいのコの字の石の囲いが出ています。開放面が大山を向いています。枕石でしょうか。 | 3.'11.6.24 伯耆町チームとしては最大級の土器の壷が出ました。表土から2m位下。トレンチの底です。水拭きで綺麗にしている所です。 |
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4.'11.6.24 出土品の大型土器です。きれいにして出土状態のままにして有ります。 | 5.'12.1.31 復元された土師器の壷です。欠けた所も殆んど無く見事なものです。大きいほうで直径27cm、高さ38cmです。 | 6.'12.5.28 我々が調査したところではありませんがこんな石棺の中に複数の人骨です。多分ベンガラで石壁も頭骨も朱塗りです。石の蓋が余りにも大きくて、アングルを組んで重機でもちあげていました。 |
金廻地区 道路造成 伯耆町吉定から日野川を越えて橋を架けています。従って金廻側の掘削量は膨大なものがあります。 ここで出た廃土は、二部の処理場に運ばれているそうです。昨年になって金廻にも橋脚が作られました。今、橋梁までは川を渡って吉定と金廻が繋がっています。 その上、バイパスの通る部分に佐野川が横たわっていて、その付け替え工事も行われたのです。橋の工期は’16.10.31ということです。 |
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1.'16.3.17 原風景:中腹の佐野川が流れているところ。現在掘削されたところのすぐ横で、急斜度、大きな石がいっぱいです。 | 2.'11.2.25 原風景: 伯耆町の予備調査のときの場所です。わずかな平坦地に休憩用テントを張っています。真下に日野川、向かいに大山。 絶好の景勝地。削ってしまって道路にするのがもったいない!!! | 3.'14.5.3 低いところが佐野川の水路面、高いところは掘削の途中段階です。 |
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4.'11.2.25 日野川を渡る橋の橋脚基礎が施工されてきています。日野川の向こう側の集落が吉定です。 | 5.'15.5.23 吉定から日野川を越えて、金廻にも橋脚が建設中です。 | 6.'15.8.14 金廻の橋脚のコンクリート打ちの直前ですね。 |
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7.'15.11.15 橋脚のコンクリート打ちも終った状態。路面の高さは、石の多い土層のあたりでしょうか。 | 8.'15.12.20 日野川両岸の部分に橋梁が渡され始めました。 | 9.'16.1.11 橋梁の掛った橋が日野川を越えて金廻まで来ました。 |
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10.'16.3.5 橋の工事に備えた防御ネットがはられました。 | 11.'16.3.5 新しい橋と日野川と大山の3点セットです。 | 12.'16.3.17 橋の床面になる部分が取り付けられました。 |
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13.'15.8.14 佐野川付け替えで取り壊される部分の佐野川です。 | 14.'15.10.18 佐野川付け替え工事の準備段階。手前の佐野川が堰のしてあるところで右折して大きく左回りでオレンジ色のユンボの方へ 行っていたのが、丁張りしてある方へ直進して突き当たりユンボのあたりで左へ行く今までの佐野川に接続します。 | 15.'15.10.28 新ルートと旧ルートの接続面のセメント工事です。 |
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16.'15.12.5 芦谷平から見た金廻。急な法面の下に新ルートの佐野川、右中央から左下に行っている白い線が工事車両用道路です。 | 17.'16.2.28 平坦部から工事車両用道路までが、大きく掘られ始めました。 | 18.'16.3.5 掘り込みがどんどん広く深くなっています。 |
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19.'16.3.8 橋の延長線とこの掘り込みからの予測ですが、道路の中心線が黄色のラインのあたりに成りそうです。 | 20.'16.3.17 小さい(といっても3m角ぐらい)の穴が2個掘られ始めました。ユンボの右の黄色の四角が、穴の底面です。 | 21.'16.3.31 穴の底にコンクリートが敷かれ、その上に鉄筋のメッシュが置かれました。橋脚の基礎工事ですね。 日野川からの橋か、芦谷平へ橋を掛けるのか不明ですが。 |
吉定地区 道路造成 この地区の遺跡発掘調査はかなり前に伯耆町でやりましたが、 見るべき遺構も出土品も無かったように思います。今、橋を架けるためのアプローチの整備が始まっているところです。 橋の工期が’16.10.31と看板が出ていましたので、それまでにはアプローチも橋も完成するのでしょうね。 |
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1.'14.5.2 原風景:日野川の中に橋脚だけが建っている写真です。対岸の金廻側から撮りました。 | 2.'11.2.25 No.1の一番手前の橋脚を造っている所ですね。 向こうの方の中央やや右に白いボックス・カルバートが有りますが、まだ上に土盛りもされていません。 | 3.'16.3.4 吉定公会堂付近にパイプ・バリケードの仮設歩道があり、その向こうぐらいで現R181とパイパスがなだらかに合流しそうです。 |
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4.'16.3.4 日野川河川敷に建つ新しい橋です。ブルーの防御ネットで覆われています。 | 5.'16.3.4 橋の向こうに川を渡って金廻の造成場所が見えます。 | 6.'16.3.4 橋の真後ろから撮ったものです。橋の方向からみれば、白い線のようにカットされた所よりも左側に道路が出来そうですね。 白い線のカットされた部分は、金廻の道路造成画像、No.7の頃には出来ていました。今のところ意味不明の掘削です。 |
健康ウォーキング 1日1万歩 |
2年前の2014年 平成26年に遺跡発掘調査作業をリタイアしました。2000年 平成12年から 足掛け15年、真夏の暑い時も冬の雪の中でも、雨の中でもやってきましたが、4〜5年前から夏は熱中症、冬は足のしもやけに悩まされてきました。伯耆町の仕事が大幅に減った 一昨年の春、金廻の調査を最後にリタイアしました。遺跡調査作業の仕事は結構きついのですが、それでも体を使い、出土するお宝に喜びを感じる良い仕事でした。 家でごろごろしているのも能がないと、ウォーキングを思い立ったわけです。最も歩いたコースはAコース。家から出て、遺跡調査したところを右手に見ながら、 佐野川沿いの佐野川管理道路を金廻まで行くコースです。 夏は木陰、冬は防風林になってくれる、殆んど山道のウォーキングです。昇りも下りもあり、「となりのトトロ」の歌「さんぽ」の世界です。 「♪歩こう歩こう 私は元気 歩くの大好き どんどん行こう 坂道トンネル 草っ原 一本橋にデコボコジャリ道 蜘蛛の巣くぐって 下り道♪」 まさに、この歌の通りのコースなんです。おまけに遺跡調査で「伯楽塚」から「金廻」まで、ずっとやってきた場所も近くて、道路の造成具合を写真に撮りながらね。 去年の秋ぐらいに自分のホームページに載せる事を思い立ち、ここまでまとめる運びになりました。1日、1万歩。励行しています。 |
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1.佐野川記念碑 ここまでは余り行きません。少し遠いし、佐野川管理道が金廻で造成工事のため通りにくいので。眼下に日野川、向かい側に大山を望める景勝地ですよ。
この記念碑は伯耆町指定文化財になっています。興味のある方は遺跡発掘調査のトップページからご覧下さい。刻まれた文字は不鮮明なので画像処理で修正しました。 |
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2.金廻 新旧佐野川の接続点 ここから先は造成工事が盛んで、工事休みの日曜日しか行けません。この地点で金廻の工事の様子はよくわかります。 |
3.芦谷平 左側に佐野川。前方が下流です。 |
4.羽黒神社 この石碑だけで社殿は有りません。ここから先は上り坂で舗装がされています。 |
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5.佐野川暗渠 暗渠の口が上流側、手前が下流です。 |
5.佐野川暗渠 佐野川は管理道をくぐって向こう側の暗渠へ。 |
6.越城野原2区へ行く山道 軽自動車なら通れます。これを上がれば5分で造成バイパス道路の尾根に出ます。 |
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7.ジャリ道と舗装道の境目 この橋まではジャリ道、橋を渡ると上り坂で舗装道です。佐野川は橋の向こうの黒い暗渠の口からこちらへ流れてきます。 |
8.ふるさと農道との交差点 前方が佐野川下流。一番高いところがふるさと農道で、左が花回廊方向です。 |
8.ふるさと農道との交差点 前方が佐野川上流。高いところがふるさと農道で右が花回廊方向です。 |
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9.自宅から一番近い佐野川地点 道の左下が自宅方向、橋を渡って坂長水源地、ICループ道、普門寺方面です。橋の手前を左に佐野川に沿って行くとふるさと農道です。 |
10.坂長水源地 この水源地のすぐ上がバイパス、ICループ道です。 |
11.普門寺 ループ道を上がって米子八幡方面に行くと、すぐ右下にこのお寺が見えます。 |