家族のProfile  1923

 移住した地では1917年新たな
 家族として弟が生まれる。
 1918年祖父は増え続ける
 日系移民
相手に、味噌製造業を
 始めることとなる。

 この間に、日本に残った姉は嫁ぎ
 彼の祖母と妹は相次いで病死。
 ついに生家は無人の住み家と
 なってしまった。

 そんな悲しみを振り払うかのように
 家業に没頭した祖父は2年目にして
 軌道に乗せ、3年目には故郷の近く
 から呼び寄せたMatsuと結婚。

 長男、長女に恵まれ、当時繁栄を
 謳歌する象徴フォードTとともに..
 新しいファミリーが誕生する。

 
 長男誕生を機に父母、弟は

 故郷の生家を再興するために
 帰国。上の記念写真は、米国に
 残った祖父達に長女が
生まれた
 1923年のもの。


 1924年カリフォルニア州
 日本人芸術写真協会の設立
 に参加、家族とともに休日は
 フォード車を駆り写真旅行に
 明け暮れる日々となった。
 
 1927年の作品「Evening waves」
 はロンドンサロンに入選。
 爾来ロッキー山脈以西では
 最大の共進会「オレンジ祭」
 を始め、世界各地へ作品を送り
 続けた。1932年第10回
 オリンピック・ロサンゼルス大会
 では朝日新聞の写真班として
 数々の決勝場面を記録する。

Familly1
Familly2

 さて祖父Kが生まれた
のは1895年11・26(明治28)
中国山地のど真ん中。
貧農の9代目として誕生。
尋常小学校を卒業した翌年
父親が移民を決行する。
近隣からも多くの移住が
行われていた時代......
初めてブラジル移民が
実施された時代でもある。

1914年3月 18歳の春
一ヶ月の船旅の末ついに
サンフランシスコに上陸。

五つ違いの弟と、母親も
やがて渡米。加州の
南パサデナ市に居を
構えることとなる。

つづく
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Familly