春の例大祭は4月14日。野田
地区には6月晦日、宮篭りと
茅の輪潜りの風習が残っている。
秋の祭礼は10月14日。
米の収穫が早まったせいか
新嘗祭も早まった訳だ。
境内のイチョウの樹には
特大の銀杏がたわわに実る。
大神輿は百年ぶりに修復した。
しかしいつまでこの重く立派な
神輿をかつぐことができるか。
子供神輿をかつぐものたちは
もういないだろう。
石見神社 本殿の龍は語る
「九州筑前名島の城主の一族なる
名島左馬之助、戦いに利あらず流浪
し、下石見鍛冶屋の地に居を構える。
その子源吾太夫の時、山城国(京都)
の松尾神社より御神霊を勧請して
原の地に松尾神社を創建す。
その時能登(石川県)の相見の荘
より神官を迎え相見の姓を名のる。」
左馬之助殿の没年は元弘元年
(1331年)と一書にある。
時は下り永禄年間(1558−1569)
相見左京、現在の野田河合の地に
新たに大蔵大明神社を建立し神官と
なる。是が河合の代古屋相見宮司家
の始まりである。
享保十九年(1734年)牛頭天王を
末社として祀り文化元年(1804年)
社を創建す。
現在の社殿は大正十年の建立なり。
印賀の地には南朝方を
示す正平十二年(1354年)
の宝篋印塔が建っている。
二百余人の武士たちが
南北朝の戦乱に赴く前の
逆修の記文が残されている。
筑前や能登から、また戦乱
の各地へと人々が移動する
この時代も、今の世と似たり
よったりだ。 ところで
祭神は時々に遷ろうて
今は素戔鳴尊殿である。
大蔵大明神社の祭神は
闇山祇命。「大蔵山の地神
であり麓に鎮まり座して
蒼生を守護せむと宣ふ。」
世の草木どもつゆ知らぬ、
さらに遠い昔のことである。
祀られぬ神は今その哀しみ
を語る。