ここでは、次の2つの問題について考えてみよう。使用する文献は『資料 マンハッタン計画』(大月書店)。米国の原爆計画を網羅的に取り上げた第一級の資料集である。

問題

(1)「京都は、昔からの文化財がたくさんあるので、米軍の爆撃の対象にならなかった」

 こんなせりふ、どこかで聞いたことはないだろうか。私も以前に聞いた記憶があるのだが、誰が言っていたのか思い出せない。何か根拠はあるのだろうか。

(2)「広島が被爆した原因は、広島が軍都だったせいだ」

 私のボツ投稿でも取り上げたテーマ。全国の中学校では最もシェアの大きい、東京書籍の『新しい社会 歴史』では、181ページに次のように書いている。
------------<引用開始>
 最後に、クラス全体の研究問題である「なぜ広島市が被爆都市となってしまったのか」を、みんなで考えました。その原因の一つは、戦前の広島市が軍都として発展してきたことにあるということでした。
------------<引用終了>

 「原因の一つ」という言葉とは裏腹に、これ以外の原因はまったく示されていないから、生徒は、広島が軍都だったから、つまり軍事基地があったから原爆を落とされたんだと理解するだろう。将来は、「非武装中立」「自衛隊反対」などと唱える左翼日本人が増えるような仕組みになっている。歴史教科書は、そのための教則本なのだ。

 まず、ウソはいけない。京都は爆撃されたのだ。昭和20年の1月16日、東山区などが被害を受けている。その後も爆撃は続き、合計で20回を超える空襲により、死者302人、負傷者561人が記録されている。無論、文化財も被害を受けた。

 それでも、東京や大阪に比べれば被害は少なかったと言える。そこで生まれたのが、怪しげな「米国は文明国であり、京都には日本の文化財がたくさん残っているので、それを惜しんだ」というような解説である。そういえば、東京裁判の原告も「文明」であった。連合国は、よほど文明という言葉がお好きなようだ。

 しかし、この分厚い『資料 マンハッタン計画』に目を通しても、文化財の保護などというレベルの話題は出てこない。第一、普通の米国人は、日本の文化財に興味など示さない。「日本人は米国の文化に興味を持っているから、米国人も日本の文化に興味を持っているはずだ」というのは、人のいい日本人の思い込みに過ぎない。彼らの関心は、主に自国と欧州(ロシア含む)なのだ。日本に関心を寄せる米国人は、ごく少数派にすぎない。

 まず、日本が原爆投下の対象になるのは、昭和18年5月5日。つまり、ガダルカナルを撤退し、山本五十六長官が戦死し、アッツ島で日本軍が全滅したころである。

 『資料 マンハッタン計画』にある同日付けの資料135「軍事政策委員会政策会議」には、「最初の爆弾の投下地点について意見が交わされたが、最適の投下地点はトラック港に集結している日本艦隊であろうというのが大方の意見のようであった。スタイアー将軍が東京を挙げた。 <中略> 日本人が選ばれたのは、彼らが、ドイツ人と比較して、この爆弾から知識を得る公算は少ないと見られるからである」と記録されている。

 原爆実験の日が近づき、具体的に原爆投下目標を決めることになった昭和20年4月27日付けの資料146「目標検討委員会初回会議覚書」では、次のように現実的な対象が検討されてくる。

 「広島は、第21爆撃司令部の順位リストには載っていないが、これまで爆撃を受けていない最大の目標である。この都市について検討を行うべきである」「前掲の17地域のうち、すでに破壊された地域を除外すべきである」

 このあたりから京都と広島がクローズアップされてくる。東京などは、すでに瓦礫の山だったから、かえって、原爆投下の目標にはならなかった。

 昭和20年5月12日付けの資料151「目標検討委員会第2回会議の要約」では、次のように京都と広島がAAクラス(最優先)の目標とされる。

 「京都―この目標は、人口100万を有する都市工業地域である。それは、日本のかつての首都であり、他の地域が破壊されていくにつれて、現在では、多くの人々や産業がそこへ移転しつつある。心理的観点から言えば、京都は日本にとって知的中心地であり、そこの住民は、この特殊装置のような兵器の意義を正しく認識する可能性が比較的に大きいという利点がある」

 要するに、原爆を投下されても、それが、たとえば“天変地異”とか“小惑星の衝突”などと思われてはいけないのである。ちゃんと米軍による新型爆弾であると認識するだけの知的レベルがなくては困るというのだ。

 広島については、次のように分析している。

 「広島―ここは、陸軍の重要補給基地であり、また、都市工業地域の中心に位置する物資積み出し港である。広島はレーダーの格好の目標であり、広い範囲にわたって損害を与えることのできる程度の広さの都市である。隣接して丘陵地があり、それが、爆風被害をかなり大きくする集束作用を生むであろう。川があるので、焼夷弾の目標としては適当ではない」

 たしかに、東京書籍の言う“軍都”に関係しそうな表現もあるが、それよりも、原爆の効果を見るのにちょうどいいというのが選定理由になっている。

 さらに駄目押しが続く。「京都は、住民の知的レベルが高く、したがって、この兵器の意義を正しく認識する能力が比較的に高いという利点がある。広島は、広域にわたって破壊しうる規模の広さをもち、付近に丘陵地があるため、[爆風の]集束作用が得られる可能性があるという利点をもっている」。

 “軍都”は利点とされていない。

 ところで、京都は、それまで空襲が少なかったことが、かえってあだとなり、原爆の第一目標にされてしまった。京都の原爆計画については、立命館国際平和ミュージアムの常設展示案内「京都原爆投下計画」に投下予定の地図が掲載されている。

 そもそも、どういう基準で投下目標が決定されたのか。昭和20年5月31日付けの資料171「暫定委員会会議覚書」には、次のような記録がある。

 「さまざまな目標およびもたらされる効果について大いに議論したあと、長官が次のような結論を下し、これに全員が同意した。日本側に事前の警告を与えることはできない。民間地域を集中攻撃目標にすることはできない。ただし、可能なかぎり多数の住民に深刻な心理的効果を与えるようにすべきである。長官は、コナント博士の提案を受けて、最も望ましい目標は、多数の労働者を雇用し、かつ、労働者住宅にぎっしりと囲まれている基幹軍需工場であろうという点で同意した」

 前半の「民間地域を集中攻撃目標にすることはできない」は建て前で、後半の「最も望ましい目標は、多数の労働者を雇用し、かつ、労働者住宅にぎっしりと囲まれている基幹軍需工場」が本音ということだろう。本音と建て前が、ちゃんと使い分けられている。

 京都を救ったのは、スチムソン陸軍長官であった。スチムソンは、日本に対して、それなりの認識をもっている軍人であった。昭和20年7月2日付けの資料198「スチムソンからトルーマン大統領にあてた覚書」には、次のような記述がある。

 「私の考えでは、日本は、そのような危機にさいしては、米国の現今の新聞、その他の論評が指摘しているよりもはるかに理性に従う国である。われわれとまったく異なった心理をもつ狂信者だけが集まってできている国ではない。それどころか、日本は、きわめて知的な国民をもっていることを過去一世紀足らずで実証したのであり…」

 マスコミの論評に劣悪なものが多いことは、日本も米国も同じである。しかし、スチムソンは、マスコミに影響されることなく、前述のように自分なりの考え方を持っている軍人であった。

 昭和20年6月30日付けの資料209「グローヴズからマーシャル陸軍参謀総長にあてた覚書」には、「京都も選ばれましたが、同市は、陸軍長官の指令により、原子核分裂爆弾のみならず、すべての爆撃の目標候補地から除外されました」と記述されている。6月末の時点で、ようやく京都は投下目標からはずされたのだ。

 ただし、グローヴズらは京都への原爆投下を諦めたわけではなく、別の本で次のように書いている。

 「私はとくに目標としての京都に執着を覚えたのだが、それは既述のように、われわれが原爆諸効果の完全な知識を入手するためにはまたとない広さを持っていたからである。この点、広島のほうはそれほど理想的とはいえなかった。目標委員会の全員が、京都こそは日本のもっとも重要な軍事目標の一つだときめていたように、私もまたそれをきわめて強く感じていた。したがって、その後も機会あるごとに私は京都を目標に包含するよう力説してやまなかった」

 米国の恐ろしい本音が語られている。彼らにとって、京都はまさに“理想的”な投下目標だったのだ。こんな状況だから、スチムソンはトルーマン大統領の心変わりが心配だったらしく、その後もトルーマンの説得を続けている。

 資料204「スチムソン日記(抄)」には、昭和20年7月24日付けで次の記述がある。

 「S-1計画について、さらにひと言ふた言話し合ったが、私は大統領に対し、提案されている目標のなかの一つを除外すべきであると私が考える理由を再び述べた。大統領は、この問題について大統領自身の賛成の考えを、この上なく力をこめて繰り返し述べた。私が、もし除外しない場合には、そのようなむちゃな行為は反感を招き、戦後、長期にわたってその地域で日本人に、ロシア人に対してではなく、むしろわれわれに対して友好的な感情をもたせることが不可能になるのではないか、と提言したところ、大統領は、とくに力をこめてこれに賛同した」

 スチムソンのきわめて政治的な配慮によって、京都は救われたのである。彼の言うように、天皇に関係の深い、古くからの都を原爆で破壊すれば、日本人の怒りは広島以上に根強く残り、その後の占領政策や日米関係に少なからぬ影響を与えたかもしれない。

 7月24日の時点で、残された原爆投下目標は、広島、小倉、新潟、長崎であった。同日付けの資料221「一般参謀部J.N.ストーン大佐からH.H.アーノルド陸軍航空隊総司令官にあてた覚書」には、次のように記されている。
------------------<引用開始>
b 広島、小倉、新潟および長崎が目標として選ばれている。
(1)広島(人口35万)は、「陸軍」の都市で、主要船積み港である。大規模な兵站・補給施設や、かなりの規模の工業といくつかの小規模な造船所がある。
(2)長崎(人口21万)は、九州の海運・工業の中心地である。
(3)小倉(人口17万8000)には、最大の陸軍兵器廠・軍需品工場の一つがあり、九州で最大の鉄道工場がある。また、南方に大規模な軍需物資保管施設がある。
(4)新潟(人口15万)は、工作機械、ディーゼルエンジン等を製造する重要工業都市であり、本州にとっての主要海運港である。
c 四市いずれにも、破壊された大都市から避難してきた日本の重要な実業家や政治家が多数いると考えられる。
------------------<引用終了>

 この4つの都市の中でも、広島が最優先の投下目標に選ばれた理由は、もう一つある。7月31日付けの資料225「米国陸軍戦略航空隊司令部(グアム)から陸軍参謀総長あて(第1027号)」には、次のように記されている。

 「捕虜の報告によれば、広島は、センターボード作戦の四目標都市のなかで、連合軍捕虜収容所がない唯一の都市である。指図を求める」

 それに対する返答が、同日付けの資料226「一般参謀部H.M.パスコ中佐からスパーツ陸軍戦略航空隊(グアム)総指揮官あて(第3542号)」であり、次のように記されている。

 「しかし、貴官が貴官の情報を信頼しうるものと考えるならば、広島を目標のなかで第一に優先すべきである。当地で入手できる情報によれば、日本のほとんどすべての大都市には捕虜収容所がある模様。挙げられた諸地域における的確な目標の選定にあたっては、捕虜収容所の位置を真剣に検討すること」

 ということで、広島が選ばれた。捕虜収容所の有無こそ、直接的な理由だったのだ。

 原爆が投下された8月6日付けの資料227「L.R.グローヴズ陸軍少将からマーシャル陸軍参謀総長にあてた覚書」には、次の記載がある。

 「選ばれた目標は、捕虜収容所の存在を示す証拠がまったくない都市としてだた一つ指定された広島であった。 <中略> 戦闘機、対空砲火による攻撃ともに認められず、雲量10パーセント、目標の真上には雲のない部分が広く空いていた。高速度撮影によりすばらしい記録が得られた。フィルムはまだ現像されていないが、他の観測機も良好な記録を得たと期待される」

 米軍の関心事は、原爆投下前後の詳細な記録であった。この覚書には「作戦計画では、写真記録機三機を出して、爆弾投下から4時間後の目標を撮影することになっている」と記載されている。

 こうして、民間人を無差別大量に殺戮する悪魔の兵器、原子爆弾が投下されたのだが、民主主義の国、米国の国民にはどう説明されただろうか。8月9日付けの資料235「トルーマン大統領のポツダム会談報告」によれば、トルーマンは米国民に対して次のように説明している。

 「世界の人々は、最初の原爆が軍事基地の広島に投下されたことに注目するでしょう。それは、この最初の攻撃において、可能なかぎり民間人の殺戮を避けたいと思ったからであります。しかし、その攻撃は、このあとに起こる事態を警告するものにすぎません。もし日本が降伏しなければ、軍需産業施設に爆弾を投下せざるをえず、不幸なことながら、何千もの民間人の生命が失われることになるでしょう。私は、日本の民間人に、ただちに工業都市から脱出し、破壊から身を守るよう強く勧めます」

 偽善者、鉄面皮とは、まさにトルーマンのような人間を指して言うのだろう。自国民であろうと、平気で欺いている。「可能なかぎり民間人の殺戮を避けたい」などと思う人間が、原爆の投下を命じるものか。トルーマンの言い訳はまだ続く。

 「われわれは、予告なしにパールハーバーでわれわれを攻撃した者たちに対して、また、米国人捕虜を餓死させ、殴打し、処刑した者たちや、戦争に関する国際法規に従うふりをする態度すらもかなぐり捨てた者たちに対して原爆を使用したのであります。われわれは、戦争の苦悶を早く終わらせるために、何千何万もの米国青年の生命を救うためにそれを使用したのであります」

 当然ながら、トルーマンは心ある米国人からは非難された。その一つが、米国キリスト教会全国評議会事務局長のサミュエル・マクリア・カヴァート氏からの非難の手紙である。

 8月11日付けの資料239「トルーマン大統領からS.M.カヴァート米国キリスト教会全国評議会事務局長にあてた書簡」では、トルーマンは次のように弁明した。

 「私は、原子爆弾の使用のことで、だれにもまして心乱れる思いをしていますが、しかし、日本人による許しがたいパールハーバー攻撃と米国人捕虜の殺害のことで痛く心を傷つけられました。彼らが理解していると思われる唯一のことばは、われわれが、彼らを攻撃するために用いてきたことばです。

 畜生を相手にしなければならないときには、相手を畜生として扱わなければなりません。それはまことに悲しむべきことではありますが、にもかかわらず、真実なのです」

 予定では、真珠湾攻撃の30分前に手渡すことになっていた宣戦布告の通知。その通知は、日本の外務省と大使館員の怠慢によって、真珠湾攻撃に間に合わなかった。そのことをいつまでも利用される。思うに、日本の役人というのは、つくづく“善人”である。その“善人”が、トルーマンやルーズベルトのような“悪人”に手玉に取られる。そんな情景を思い浮かべてしまう。

 トルーマンが「軍事基地の広島」と呼んだ一方で、昭和21年に公刊された英国調査団報告書『広島および長崎に投下された原子爆弾の効果』では、広島は次のように紹介されている。

 「1945年8月6日午前8時少し過ぎ、高度3万フィートで飛行する米国のスーパーフォレスト[B-29]一機が日本の商業都市広島の上空で原子爆弾を一発投下した」

 英国は広島を「商業都市」と表現している。東京書籍とトルーマンは「軍都」「軍事基地」と表現した。要は、表現上のことだから、その立場に応じて、なんとでも言えるのだ。

 ― 悲運の長崎 ―

 いくら東京書籍やトルーマンでも、長崎までは“軍都”と呼ばないだろう。原爆投下目標に長崎が浮上してきた理由は定かではない。『資料 マンハッタン計画』には、次のようなファレル将軍の回想を掲載している。

 「私はグローヴズに代わって長崎は大きな爆弾のための大きさがないからまずいと反対した。その都市は細長くて二つの山の間にあり、爆弾の爆発効果が発揮されないと言った。またここはこれまでに数回にわたってひどく爆撃が行われており、原爆の効果測定のためにもまずいと言った」

 実際の原爆投下でも、本来の目標は小倉であった。ただ、現地が曇り空であったため、爆撃機は投下を諦めて長崎に向かった。長崎上空も曇り空であったが、たまたま雲の切れ目があったので投下されてしまった。その爆撃機は、もう少しで燃料切れを心配して引き返すところだったという。痛恨の「雲の切れ目」であった。

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