なぜ投稿するのか


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    ■エネルギー源は“怒り”
    ■投稿は“自己満足”なのか

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■エネルギー源は“怒り”


 この文章を読まれる方は、それぞれ程度に差はあっても、投稿に興味をお持ちの方だろうと思う。「なぜ投稿するのか」と尋ねられたとき、皆さんはどう答えられるだろうか。私の場合、それは“怒り”という言葉に尽きる。

 日常的に、新聞・雑誌を読んだり、テレビのニュースを見たりしていると、何かをきっかけにして、むらむらと怒りがわき上がることがある。「それはないだろう」とか「そんなバカな」といった、ごく普通の怒りである。

 私が新聞に投稿することを知っておられる方からは、たまに「今度はこれこれについて、ぜひ書いてくださいよ」などと、頼まれることもある。「ええ、そのうちに」とか答えるのだが、実際には、なかなか書けないこともある。

 その方のおっしゃることに、私も賛成なのだが、他にもやりたいことは山ほどあるし、どうにも筆が進まない。人から勧められたテーマでは、結局のところ、“怒り”のパワーが足りないからだと、自分では思っている。

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■投稿は“自己満足”なのか


 ある、投稿のベテランの人が、投稿はしょせん、自己満足に過ぎないという趣旨のことを書いておられた。私は、この考え方に賛成しない。この人の書かれた投稿自体も、失礼ながら、あまり読む気はしない。「ヘー、そうだったのか」という新発見は少ないし、「よくぞ書いてくれた」と共感することもない。

 投稿の醍醐味は、社会に与える影響だろう。私の投稿が新聞に載ったりすると、思いがけない人から「この間、出てましたね」と声をかけられることがあるし、電話までいただくこともある。ちゃんと読んでいる人がおられる。

 儒学の一派に陽明学というのがある。詳しくは知らないが、知識と行動の一致を説いたものだという。日本では中江藤樹、大塩平八郎、佐久間象山、佐藤一斎といった面白そうな人たちがこの派に属する。そういえば、司馬遼太郎の『峠』に登場する、越後長岡藩の河井継之助も陽明学に傾倒した一人だった。

 それと対照的なのが、朱子学だろう。明国、清国、朝鮮国の正式な学問であり、科挙と呼ばれる国家公務員試験の受験科目だった。朱子学は日本にも大きな影響を与え、藤原惺窩、林羅山といった有名人の名前が並ぶ。しかし、彼らは、象牙の塔にこもった、優秀だが、面白くも何ともない人たちという印象がある。

 私の投稿が社会に与える影響など、微々たるものであろうことは、私でも容易に想像がつく。第一、日本海新聞にしか投稿していない。読んでいただく人も限定される。しかし、だからといって、主として左翼や中国・韓国の反日外国人たちによって、目に余るような暴論・愚論のたぐいが横行するのを、ただ傍観していいということにはならない。子供たちの教育にもよくない。

 私は、投稿やホームページの作成などを通じて、小なりといえども、朱子学派ではなく、陽明学派のように生きたいと思っている。

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