あごなし地蔵
(所在地:米子市河崎)


↑河崎・御建自治会内の踏切の横に祀られているあごなし地蔵

平安時代の歌人であり役人でもあった小野篁が、遣唐使の副使として唐(現中国)に行くことになっていたが、
上役のわがままに腹を立て、仮病を使って、唐に行くのを止めたのだが、
仮病がばれて承和5年(838)隠岐に流されたが3年後、許されて京に帰った。

隠岐に流された時、

「わたの原八十島かけてこぎいでぬと人にはつげよ海人のつり舟」

と歌い、『古今集』に載った

・・・と、『続日本後紀』に書かれ、史実に残っています。

この小野篁が隠岐に流された間の伝説の中で、米子に関する物を紹介しましょう。

隠岐に流された篁は、初めは島前の豊田にいましたが、後に島後の都万村那久のお寺に住むことになりました。
その村に阿古奈(那)という美しい娘がいました。
篁は娘を見初めて仲良くなり、娘は篁の子を身ごもりました。

しかし、子の誕生を見る前に篁は京に帰ることになったので、
彼は自分で彫った木造の地蔵仏を娘に渡して・・・

子が生まれたならばこの仏を守り本尊にするように、そうすれば必ず幸福になる。と言ったとか。

いや、出産したが幼児は亡くなり、阿古奈があまりに嘆き悲しむので、篁が地蔵を彫って与えたのだ、とか。

いや生まれた子の名が阿古奈で、幼くして死んだこの子の供養に篁が2体の地蔵仏を彫り、
1体は阿古奈の位はいの横に、1体は篁の身代わりに母にやったのだ、とか。

いやいや母親の歯痛を心配する娘阿古奈の孝行ぶりに感激した篁が、
地蔵仏を彫って娘に渡した。その仏を拝んだら母親の歯痛がうそのように治った…。

などなど、いろいろに伝えています。

ともあれ、そのようにして彫られた地蔵は「阿古奈地蔵」と言われていましたが、
その語呂が似ているので、いつのまにか「あごなし地蔵」と言われ、
歯痛止めの地蔵さんとして信仰されるようになり、隠岐から全国に広まりました。

米子には河崎に勧請して、御建地蔵とも言われています。
いつごろ勧請されたかはわかりませんが、古くから歯痛の人が地蔵さんのあごをなでたり、削ったりされたのでしょう。
名実共に「あごなし地蔵」になっておられます。

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