大同寺の五輪
所在地:境港市竹内町


↑五輪さん

弓浜(きゅうひん)半島と外浜街道と、JR境港線余子駅のまん中あたりに大同寺という古い寺があります。
その境内の茂みの中に、苔むした五輪がひっそりとたたずんでいます。
これには次のような物語が伝わっています。

560年以上も昔の話。尼子と毛利の戦いは伯耆の国を中心にして長い間続きました。
そのころ島根半島に、鈴垂城(すずたれじょう)という尼子方の城があり、
狩をするのが大好きな亀井能登守安綱(かめいのとのかみやすつな)という人が守っていました。
彼は、しばしば境水道を渡り弓ヶ浜の野山で狩を楽しむので、土地の人ともすっかり仲良くなり、
とりわけ大庄屋の家に立ち寄り酒盛りをしていました。
丁度その頃、毛利勢は尼子の主城であった出雲の富田城を攻め落とそうと機をうかがっていました。
安綱は狩どころではなくなり、合戦の準備に大わらわでした。

そんなある日、弓ヶ浜の庄屋から「大漁だったので酒盛りでもしませんか」と誘われました。
日夜合戦の準備にいささか疲れていた彼は、しばらくうつつをぬかしたいものと、
40人の家来と、2歳になったばかりの息子清若丸(きよわかまる)を乳母とともに連れて出向く事としました。

その情報を知った毛利側の尾高城主・杉原播磨守盛重(すぎはらはりまのかみもりしげ)の軍勢は
酒盛りしていた庄屋の家を取り巻き、ときの声をあげて一気に攻め込んできました。

「おのれ、ひきょうな杉原め、皆の者すぐ城へ引き返せ!」

安綱と家来は必死に応戦しましたが、多勢に無勢、家来は次々と討ち死にしていきました。
安綱は巧みに逃れ、ようやく対岸の鈴垂城の見える所まで逃げ延びましたが、
敵の放った火矢のため火を吹く天守閣を目撃し、残った家来と共に自害して果てました。

一方、乳母に抱かれた清若丸は小磯双四郎(こいそまたしろう)という重臣に守られ、暗闇に紛れて
大同寺まで逃げ延びましたが、敵が境内にまで乱れ込んできたのを見て、
もうこれ以上逃げられないと判断した双四郎は、2人を茂みの中に隠して敵の中へ切り込んでいきました。
僅か2歳の幼子とはいえ、様子の違った気配に気づかぬわけはありません。
突然火がついたように泣き叫んだため、敵に見つかってしまい、乳母と共に切り殺されてしまいました。

「いかに戦乱の世とはいえ武士の情けを知らぬ愚か者め!」

若君たちの死を知った双四郎は烈火のごとく怒り、寺の境内で後を追うように切腹して果てました。

その後悪い病気が流行り、たくさんの人々が死にました。「きっと双四郎の崇りだ」と、
人々は噂しました。双四郎の霊を祀るために五輪を建て、毎年6月25日を彼の命日と決め、
今でもてあつい供養が行われています。

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