歯形の栗
(米子市福市 安養寺)


↑安養寺

米子から国道181号線を下って法勝寺川を渡ると、ほどなく左手に「安養寺」の道標が立っている。
その「安養寺」には歯形の栗と呼ばれるものがあり、こんな伝説が伝わっている。


↑歯形の栗

鎌倉幕府打倒の兵を挙げ、朝権回復を図って隠岐に流された後鳥羽上皇から100年の後、
元弘二年(1332)三月、後醍醐天皇もまた同じような状況のなかで隠岐へ配流となった。

流人の身となって伯耆の国を日野郡から米子へと着いた天皇の一行に、女童の姿をした
16歳の内親王も付き添っていたが、人数改めで身分を知られ、隠岐までの供を許されず、
天皇も愛姫を残して旅立っていった。この地に留まって厳しい監視の中で秋を迎えた内親王に
栗を献上する者があった。内親王はこの栗に歯形を入れて植え、もし芽が出れば父天皇の
罪は許され、都へ帰ることが出来るだろうと念じた。果たして年がめぐって
春がくると栗は芽生え、この年閏二月、天皇は隠岐を脱出して名和長年を頼った。

天皇脱出後も内親王は留まって、やがて18歳で遊行上安国について得度し、名を安養尼と
改めた。これが安養寺の起こりで、内親王は都へ帰ることなく、延元四年(1339)八月、
23歳で世を去った。内親王の植えた栗の木は成長して実をつけたが、どの実にも歯形の跡が
あり、これを
歯形の栗と呼んでいる。


↑歯形の栗

歯形の栗は、本堂の右手にあるが、二股の古木は枯れて、その脇に根本から
高さ1mくらいの若木が伸び、葉を茂らせている。

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