米子城

↑米子城天守址

現在城は無く、城跡のみになっており、その跡地は“湊山”(みなとやま)

もしくは“城山”(しろやま)と呼ばれている。

標高90メートルの城山は眺望絶景かな、絶景かな。

米子城は“久米城”とも呼ばれていた。

それは、「久米城の人柱伝説」によって語り継がれている。

以下に物語を簡単に紹介しよう。

 

天正19年、出雲の国の富田城に吉川広家という殿様がいた。

殿様は東の守りを固めるため、米子に城をつくることにした。

二の丸・三の丸と工事は順調に進み、いよいよ天守閣の番になったのだが

どういうわけか何回石を積み上げても雨が降ると崩れてしまう。

そこで米子小町といわれる“お久米”を人柱に立てようということになった。

春が過ぎ夏がきて、盆踊りの輪のから“お久米”は捕らえられ、無理矢理

石垣の人柱に立てられた。

それ以後、石垣はどんな嵐がきても決して崩れず、天守閣は完成した。

しかし、石垣に“お久米”の亡霊を見た者が次々に現れ、誰言う無く人柱の事が

町中に広まり城は“久米城”と呼ばれるようになった。

そんな頃、米子城下に河童が出るという噂が広まった。

河童が夜の便所に潜り込み、けむくじゃらの手で尻をなでるというのである。

城下の家々では、夜の便所に行くのを皆怖がった。

ある日、三好五郎という豪傑が河童を退治しようと夜の便所に入った。

噂通り河童が尻をなでにやってきたその瞬間、五郎はけむくじゃらの手を斬り取った。

翌朝、河童が手を返して欲しいと五郎の家へやってきた。

河童の言うことには午(うま)の刻まででないと手がくっつかなくなるとのことだった。

「もう二度と悪さをしない」という約束のもと五郎は河童に手を返す。

河童はそのお礼にと“どんな傷でも治る妙薬”を一袋置いて立ち去った。

その話が城下に広まると、河童お久米の生れ変わりだったのではと噂したのだった。

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