羽衣石(うえし)

山陰線の松崎駅から西へ2キロ程行くと、長和田という所につき、そこから羽衣石川にそって
山道をずっと登って行くと、南北朝時代の正平二一年(1366)南条貞宗が築いた羽衣石城址が
見えてくる。南条氏はこの山城を拠点に伯耆の国に勢力を張っていたが、関ヶ原合戦で
徳川側に味方するか、大阪側に加勢するかで、結局西側に味方して没落してしまった。


この城址の天守閣から九十九折の坂を下った山道にある大岩は、羽衣石山の天女
羽衣を干した岩だと伝えられる。羽衣石の天女伝説は全国各地に伝わるものとさほど大差はないが、
“羽衣石(うえし)”という地名はかなり古く、伝説が地名に関連するのも興味深い。

さて、その天女伝説を簡単に紹介しよう。

むかしむかし、若い樵が羽衣石の山で木を切っていた。すると風にのって、なんともいえぬ良い匂いが
ただよってきた。彼は不思議に思い、あたりを見回すと岩の上に美しい着物があった。
その香りは、その着物からただよっていた。

樵は、一体誰の物かと捜していると、谷川の辺で一人の若い女が体を洗っていた。
その女は
天女で、その着物は羽衣だった。樵はつい欲しくなって、それを奪って逃げてしまった。

羽衣を失った天女は、天に帰れず泣いていた。するとそこへ女神が現れ、優しくいたわり、なだめながら
「あなたは樵の所へ行かねばなりません。そして人間のくらしをしているうちに、
きっと羽衣を見つけることが出来るでしょう。この山道を降りた所に井戸があり、そこに樵が
あなたを待っているでしょう」と言った。

天女は山を降りて行った。

それから年月は夢のように過ぎ、天女は樵のもとで幸せに暮らし、二児の母になっていた。

ある年のある春。神社のお祭りの日、彼女は二人の子を連れてお参りに行った。
神輿や屋台を見ていた子が「かあちゃん、私も踊りたいわ。そうそうこれを着ると、上手に踊れるんだって」
と言って、長い袂の中から美しい織物を出して見せた。

「まぁ、羽衣だわ」

それは毎日捜し求めていた羽衣であった。母親は、いきなり我が子の持っている羽衣を奪い取ると
二人を抱き寄せ、自分が
天女であったこと、羽衣が見つかったので天へ帰らねばならないことを話した。

「かぁちゃん、行っちゃ嫌、行かないで」と、二人の子供は彼女に縋りつき泣いた。
しかし
天女は「二人ともお父ちゃんのおっしゃることをよく聞いて仲良く暮らすのよ。お別れに天女の舞を
見せてあげますね」と言って天へ昇って行った。
「かぁちゃん行かないで、帰ってかぁちゃん」二人の子供は手を取り合って泣いたが、
天女の姿は
次第に小さくなっていった。

人々はこの哀れな子供のために山へ登り、笛や太鼓を打ち鳴らし天女を呼び返そうと
したが、
天女は再びこの里へは帰ってこなかった。その山をいまでは打吹山(うつぶきやま)と言う。

打吹山は倉吉市にある実在の山で、伝説に因んだ山の名である。
最後に蛇足ではあるが、もし羽衣石城址に行かれるのであれば涼しい季節になってからが良かろう。
ハイキング気分で行くと結構しんどいので心して行ってください。(これは多くの伝説地にも言えるなぁ。)

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