「ペパーミント・キャンディー」と「光州事件」

山形文夫

  スクリーンの奥に向かって電車が進んでゆく。トンネルを抜け、いくつもの風景の中を進んでゆく−。現在から過去へとさかのぼって描かれる七つのエピソード、そのつなぎ目ごとに挿入されるこれらの車窓風景。だがしばらくすると、実は電車は前進しているのではなく、フィルムの逆転によって後戻りし続けていることがわかってくる。こうして物語は、ひたすら過去へと向かって引き寄せられてゆく。主人公のヨンホをこうまでに堕落させた事件、80年5月に起こったあの事件に向かって。
  「ペパーミント・キャンディー」が描くのは、79年から99年に至るひとりの男の逆転劇だが、それは同時に韓国がたどった激動の現代史でもある。そしてその発端となるのが80年5月に起こった『光州事件』である。では『光州事件』とはいったい何だったのか?

  韓国をおおざっぱに分けると、東部の大部分が『慶尚(北・南)道』、西部のうちの南部が『全羅(北・南)道』ということになる。両地方は風土、気風等においてかなりの差異があり、かつての新羅(慶尚道)−百済(全羅道)の頃から対立してきたという。その対立が深刻になったのが、61年のクーデターで軍事政権の指導者となった朴大統領の時代である。この時代ーことに70年代、韓国は「漢河(ハンガン)の奇跡」と呼ばれる経済発展を遂げるのだが、大統領が慶尚道出身であったことから工業団地は慶尚道に、製造業も慶尚道や、ソウルのある京畿道に集中することになる。こういった慶尚道重視の近代化政策によって穀倉地帯である全羅道は繁栄から取り残され、失業者は溢れ、小作農たちは職を求めて都市へと流れ出してゆく。必然的に人々は反政府・民主化勢力にならざるを得ない。光州市はこの全羅南道の中心地であった。
 79年秋、韓国は民主化運動の激化で騒然としていたが、ヨンホはまだ純情な働く若者だった。しかしこの直後の10月朴大統領が暗殺され、12月には全斗煥らによる粛軍クーデターが起こる。翌80年になると学生デモは拡大するが、ソウルでは事態を楽観視したこともあって、5・16以降はデモを中断してしまう。一方光州では17日、全羅道の木浦(モッポ)出身の金大中が逮捕されたこともあって運動はますます激化、18日戒厳軍によって大学生たちに暴力がふるわれたことからついに『光州事件』が勃発することになる。21日には市民側が建物に放火、軍が実弾射撃で応じたことで市民側は武器庫を襲って武装し、市街戦の末に戒厳軍は撤収する。こうして22日から26日にかけて市民軍による自治が行われるが、しかし27日明け方、駐韓米軍の許可をうけた韓国軍によって光州は武力鎮圧され、18日から27日にわたる『光州事件』は終息するのである。事件の犠牲者数は、巷では二千人といわれているそうだが、80年の戒厳司令部発表では百八十九人となりはっきりしていない。

 韓国社会では一般的に「全羅道の人間は信用できないーすぐ裏切り、よくだますからだ」という全羅道差別があり、それが就職差別や昇進差別となって顕在化しているという。昔から穀倉地帯だった全羅道では、早くから持てる者と持たざる者との階級差が広がったため、多数の貧民が他地域に流出しそれによって住民との間にもめごとが起こる。これが差別を生み、一方差別された側には反体制の気風が根づく(「陸軍中野学校・光人社」によればー全羅南道は日本統治時代、共産主義者の多い土地柄だったーとある)という過程をたどったようである。『光州事件』における犠牲者も、こういった貧しい労働者や失業者などの都市貧民が多くを占めており、彼らに容赦のない弾圧が加えられたのも、以上のような全羅道差別と無関係ではないように思われる。

                         

 その後『光州事件』はタブー扱いされるようになるが、88年から国会で取り上げられるようになり、96年の全斗煥&盧泰愚(続いて大統領になった金泳三を含めすべて慶尚道出身)の裁判を経て、98年の金大中大統領誕生によってタブーも解かれたようである(しかしこの映画の光州部分の撮影では軍の許可が取れなかったということだ)。その一方では早くから民主化運動家たちによって、毎年5月になると光州に集まって犠牲者を追悼し、事件を追体験する「光州巡礼」が行われていたといい、近年では光州は「民主聖地」と化して「聖地巡礼者」が大挙して訪れる観光地になっているそうである。

  このように『光州事件』は、東西対立、地域差別、軍隊による残虐行為等々、韓国の民主化の歴史と韓国人にとって、重く、大きな問題を残した事件といえる。「ペパーミント・キャンディー」の主人公は徴兵中に光州に出動を命じられ、錯乱状態で女子高生を射殺してしまう。純情な恋する青年にとってその体験は深い心の傷となったに違いなく、以後の彼は恋も諦めて、自己嫌悪に身をさいなまれたことと思われる。その反動だろうか、4年後彼は刑事になり、労組の活動家や学生運動家を弾圧する側に回る(学生運動家を水責めして拷問する話が出てくるが、実際にも87年1月ソウル大学生が水拷問で死亡している)。韓国経済のバブル期には実業家になって大儲けし、バブルがはじけると文無しとなって人生に嫌気がさし「昔に帰りたい」と叫んで自殺してしまう。彼の人生を決定的に狂わせ、人格を崩壊させたもの、それが『光州事件』だったのである。シネマクラブの「映画を語る会」では、ヨンホの人間性に対して理解も共感もできないという人が大半だった。しかしもし『光州事件』の重みを受け止めていたのなら、感想も違っていたはずだ。「ペパーミント・キャンディー」は、主人公の痛ましい生き様を、韓国が辿ったこの20年間に重ね合わせてみせた一種の寓話だからである。
                        

 
 《参考文献》
 ◎光州事件で読む現代韓国 00・5
 ◎韓国民衆史・近現代篇   98・9
 ◎韓国・反日症候群      95・3

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