「映画は、スポーツの感動を超えられるか?」
      〜〜競馬の魅力の伝わらない映画「シービスケット」〜〜

 実話に基づいた映画、「シービスケット」は、人生のどん底を味わいながらも、再度復活を遂げようとする、馬主と調教師と騎手、そしてシービスケットという一頭の馬の物語である。
 この手の映画で、最も不安要素のあるのが、競馬シーンとそれを取り巻く人達とのドラマの構成の仕方である。
 残念ながら本作は、競馬の魅力が描かれないまま、「ウソ臭い」ドラマで終わっている。「ウソ臭い」とは、真実か否かではなく、競馬に対する作り手の愛情が伝わってこないということ。
これが、実話という前提のないお話なら、映画館を出る時に、口々に「あんな美味い話はない」という台詞が口をついて出てきそうだからだ。
 作り手の意志は、競馬よりもむしろその時代の民衆の生活やら境遇を描いて見せることと、挫折を味わった登場人物達が、もう一度再生していく姿を描く、癒しの映画にしたかったのだろうと思う。
その意図が成功したのかどうかはともかく、僕としては競馬の魅力をちゃんと描いてくれなかったのはとても残念である。
 レースシーンの迫力の無さもさることながら、競走馬を作っていく過程のプロセスを、曖昧にしか演出出来ない監督は、勉強不足なのか、はたまたそこにはなんの興味も無いのか。
それを露呈しているのが、マッチレースのシーンで、ライバルを悪役として描いて見せたり、レース中に騎手同士が語り合うなどというシーンはあくびの出そうな演出だ。
 競馬は、ギャンブルではある。が、一頭の競走馬を作っていく過程において、陣営のいろいろな人達の様々な苦労のあるドラマでもある。
競馬を見ていると、そういうシーンを垣間見ることがある。残念ながら結局これが、映画がスポーツの感動を超えられない、又は大衆的ではない理由のひとつなのかもしれない。
 昨年、前人未踏の大記録、年間200勝を達成した武豊がこう言った。
「外国では休日になると、子供もお年寄りも草原に寝そべって、くつろいで競馬を観にやって来ています。日本では、まだまだギャンブルという面でしか競馬が捉えられていませんが、僕達がもっと努力してそうした競馬のイメージを変えて行ければと思います」。
 様々な人達の夢を乗せて、名馬達が緑の芝の上を飛翔する今年のビッグレースは、3月28日、高松宮記念で幕を開ける。  


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