「メルギブソン執念の一作===パッション===
      十字架を背負ったキリストは、その時何を考えたか?」

 会社勤めをしだすと、自分の言動とか想いとかが、上手く相手に伝わらなかったりしてよく衝突したりすることがある。
 学生の頃だと同世代ばかりだし、流行のアンテナも近いものがあるので、「あ、うん」の呼吸で、物事の理解がスムーズに進む。
会社という所は、あらゆる年齢の人が、それぞれのニーズによって働いている所である。
 ゆえに、個人の正義を主張しようとすると、「あんた、何言ってんの?」と、周りや他者とトラブルの原因になるパターンが多い。
出る杭は打たれるであり、郷に入っては郷に従えである。
 学生時代の知り合いにこんな奴がいた。中学時代はおとなしくて、いるのかいないのか判らない空気のようなキャラクターだった奴が、高校1年生になって久しぶりに会ってみたら、暴力的な人間に変わっていた。
 環境の変化が彼をそうさせたのか、彼の抑圧されていた過去が、彼自身を解放させたのか。いずれにせよ、彼はその時点での自分に満足しているようだったので、そのことに関して僕は問いかけはしなかったけれど。
 集団の中にいると、時として不思議なことに、自分の想いとは違っている方向に物事が進んで行く事がある。自分ではそういうつもりがないのに、間違った解釈で人に伝わってしまっていたり、おかしなイメージで誤解されていたり。
 または、自分の予想より、はるかに増幅されて物事が展開していたりと、「私は、そんなつもりでは!」とか、「ええっ、いったいこれからどうなるんだ俺は!」みたいに、運命のいたずらに翻弄されてしまうことがある。
 そんな時に口をついて出てくるのが、「OH!MY GOD!」である。
 役者であるメルギブソンが、第3回監督作品に選んだのは、イエスキリストの最期の12時間を描くもの。
 ゲツセマネの園でユダの裏切りにあい、ゴルゴダの丘で十字架に磔になるまでを27億円の制作費を投じて描く衝撃作である。
 構想に12年、自らが脚本を手掛け、制作費も私財を投入するという思い入れたっぷりのこの作品。
 映画の構成やショット、美術に至るまで入念に演出されていて、さすが前作でオスカーを獲ったことのある監督の仕事だなあとあらためて感心した。
 人にはそれぞれ、いろいろな主義主張があって、誰もが自分の正義や生き方を信じて生きているものだと思う。
 その自分の考え方と、周りの意見とに折り合いをつけるのは、非常にデリケートな判断が必要だし、そういうものには目もくれずに突っ走るのもまた個性というものである。
 イエスキリストの映画というと、宗教系の映画と取られることも多いと思うが、僕的にはこれは、人間関係の意思伝達の映画であると思っている。
 それは、生活して行く上で永遠のテーマであり、死ぬまで答えの得られないものなのかもしれない。
 でも、そうした受難もあると同時に、集団の中にある楽しさや喜びもあるわけで、それを見出すのは日々の自分の努力ではないだろうか?
 十字架を背負って、ゴルゴダの丘に上がるキリスト。この映画の「PASSION」は、同時期に公開された紀里谷和明監督作品「CASSHERN」へとつづく。     


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