分国図


 当時、日本図といえば一枚に刷った紙を小さく折り、販売・所持する形が一般的でしたが、寛文6年(1666)京都の吉田太郎兵衛が作った「日本分形図」は1ページに1国あるいは数カ国を描いた形としては日本最初の分国図でした。この分国図は序文に続き奥州・出羽から種子島・屋久島・対馬までの諸国を順に載せ、日本列島を北から南に並べ、ほぼ同縮尺で描かれています。
 後に同じ形で「国郡全図」や「大日本輿地便覧」が出版されました。これらの図は原則的に一国一図で描き、全国を2冊に分けて刊行されています。
 両書は「赤水図」や「国絵図」などを参考に作成したと記されていますが、境界や主要な町村名が入っており、近世の地域の特徴を知る貴重な地図資料で、幕末から明治初めまでこの2つの書物は江戸時代を代表する地図帳として地図出版にも大きな影響を与えていました。
 明治になり廃藩置県(明治4年)が行われますが、その後も都道府県単位ではなく国単位で地図が作成され続けていました。
 1つの理由としては毎年のように府県区域が変わり、数年たつと地図としての役割を果たせなかったことや、庶民の利便を考えて国単位の方が利用しやすかったためと思われます。「府県改正日本全図」などと書かれていても、多くは旧国別に色分けされ欄外に府県名一覧などが載せられていました。
 今まで使っていた藩を県に変えることは、制度上はできていても庶民はなかなか意識が切り替わらず、藩単位の日本地図が使いやすかったのでしょう。
 県名が藩より大きく書かれ出すのは明治も後半になってからでした。


国郡全図



文政11年(1828)、尾張国(名古屋)の永楽堂から「国郡全図」(全二巻)が出版されました。著者の市川東谿(とうけい)は尾張国(現:名古屋大曽根坂上)出身、各藩でまとめた地図帳では江戸時代の最高傑作といわれています。
 安永8年(1779)、長久保赤水が「改正日本輿地路程全図」を発行していましたが集落などがあまり載っていませんでした。
 寛政12年(1800)、伊能忠敬により蝦夷地の測量が始まり文政4年(1821)に「大日本沿海輿地図」が完成します。当時としてはとても精密な測量図でしたが、郡名や村落名の記載はあっても各郡との境界は示されていませんでした。
 また、幕府は江戸時代を通して各国ごとの国絵図を製作していました。その影響で国ごとの地図や街道図、城下町図などが民間でも多数作られていましたが、市川東谿は地方別に一国の大小にかかわらず一枚に表して、上下二冊にまとめたものを企画し出版します。
 この全図はかな文字、逆時、当て字などの地名が入り交じっていますが、当時の姿がよく現され人気があったため天保8年(1837)に再び大坂河内屋喜兵衛、江戸須原屋茂兵衛、名古屋永楽屋東四郎、京都勝村治右衛門などから刊行されています。
 数学者内田観斎は序文で「長久保赤水氏は路程図を著して遠近を晰(あきら)らかにし、伊能忠敬氏は海湾を揣測(しそく)して経緯の度を詳かにす。然し、尚未だその全ての者を得んとして果たさず。余ここに憾みあること久し。」と書いています。ここでも長久保赤水や伊能忠敬が当時からとても有名だったことがわかります。
 著者の市川東谿は薬種商を営み、画を好んで詩歌をたしなんでいましたが、この本が再販された翌年、74歳で亡くなっています。


大日本輿地便覧





大日本輿地便覧は見開き1ページに1つの藩を描き、乾(けん)・坤(こん)の2冊からなっています。乾坤は八卦のこと、天と地を表したり方角を表す事があります。乾は戌(いぬ)亥(い)(北西)の方角、坤は未(ひつじ)申(さる)(南西)の方角です。ここでは、2巻の上巻・下巻を表しています。
 乾では日本輿地全図に続き山城国(京都中・南部)から佐渡国(新潟県)までを描き、坤では播磨国(兵庫県南部)から順に対馬(長崎県)まで、最後は世界図を載せて作られています。
 出版は天保5年(1834)、著者は江戸時代後期に津の藩校で教師を務めた山崎義故(よしふる)(1755-1841)です。
 義故が当時出回っていた様々な地図を参照し編纂した本書は、一枚の地図ごとにひとつの国を割り当て、各地方の地勢を詳細に描いた「分国図」の代表的な1冊ですが、文政11年(1828)に初版が発行された「国郡全図」と記号などの共通点も多く、その増訂版としての性格を持っています。
 義故が大日本輿地便覧を書き上げた時は79歳でした。その後天保12年に亡くなっています、享年86歳でした。