皇太子山陰行啓

山陰地方では明治40(1907)5月から6月にかけて、皇太子が行啓(訪問)されました。このことはこの地域にとってとても大きな出来事で、県民は歓迎ムードに包まれます。ちょうど時代が絵葉書ブームでもあり、この行事で多くの秀逸な彩色絵葉書が発行されています。ここでは皇太子行啓を当時発行された彩色絵葉書と共に追っていきます。

行啓の経緯

 明治になって天皇や皇族が京都や東京を離れ全国を回るようになりましたが、明治天皇はまだ山陰を訪れていませんでした。このため、鳥取・島根両県では明治27(1894)頃から知事達による行幸(天皇がお見えになる事)の実現を求める運動を本格化させます。ただ、当時の山陰の道路事情などにより幾度も中止となりました。この頃はまだ都会に比べて交通などの都市機能が追いついていなかったのです。

 知事達は行幸を機会として山陰の発展を画策していたのでしょう、天皇行幸が難しいとわかると皇太子行啓を考えます。どちらにせよ皇族が来られると、県内の交通や通信などが整備される事になるからです。



行啓の決定

 山陰両県知事は明治36(1903)に天皇行幸に変わり皇太子行啓を願い出ます。明治37(1904)4月頃をめどにいったん実施が決まりましたが翌年、明治38(1905)に日露戦争が始まり日程は延期されます。

戦争終結後の明治39(1906)、ようやく京都府丹後地方と隠岐を含む山陰地方の行啓が決まりました。当時は山陰地方につながる鉄道がなかったため、舞鶴まで列車で行き,そこから船で境港に渡るコースになったのです。

この絵葉書は行啓一行が訪れる行程を描いた地図が載せられていますが、ここには隠岐の島の行程は記載されていません。これは当初は予定にありませんでしたが皇太子の希望で予定が変更になったためといわれています。

それまで皇太子が旅行する際は東宮職内で決めらたことを各都道府県に通達し、地方の平常の様子を見学することになっていました。しかし、山陰地方が全国で初めて知事の要請に基づき行啓を実現した事は、それ以降の地方行啓に影響を与えました。この成功から皇太子は天皇の名代として全国を視察し始めたのです。

実際に行啓が実施された時、鳥取では鉄道が開通し電灯が初めてともされるなど町に大きな近代化がもたらされました。また、時計もなく時間に曖昧だった時代に列車を時間通りに走らせ、決められた時間を守るといったことが市民に確立していきました。

  
 山陰の受入状況

 受け入れの準備は,当初の目的通り大半が町のインフラ整備に費やされます。

鉄道は当時、境(現:境港)〜青谷間に山陰西線(現:JR山陰本線および境線)が部分開通していましたが,行啓直前の428日、青谷〜鳥取間が開通、鳥取県内では境〜鳥取(現在の鳥取駅近く)が開通しました。

 電気は皇太子が訪問する日に合わせて点灯できる準備が整い、電話も境港・米子・鳥取・安来などで架設されました。また、この時初めて御召列車が運転されるなど山陰地方の近代化が一気に進みました。この時の訪問先に教育機関が多く取り入れられました。当時から教育を重要視していたことがわかります。

行啓の直前、内務大臣原敬(51歳)が山陰視察をおこなっています。それによると道路は島根が大変よく、鳥取は劣っているが汽車の便がある。大田や江津では食事がとても好みに合っていた、これは旧幕時代の直轄領地だったからだろうとか、安来では安来節に大いに盛り上がった、扇邸(仁風閣)は半分ほどしか出来てなく、建築を急ぐ様に注意したなどと報告しています。

ただ、当時旅をするのは今と違ってとても大変だったのでしょう。視察が終わる頃に風邪を引き39度台の熱を出しています。

 原はこの後、首相になりますが、大正10年に東京駅で殺害されてしまいます。享年66歳でした。



表題 日付 明治40年 絵葉書  解説 
 東宮(東京)発 5月10日(金)    皇太子一行は510日午前8時、東宮御所(東京)を出発します。この日はちょうど7年前の明治33年(1900)九条節子(貞明皇后)と結婚した記念日でした。

午前8時半新橋発の臨時汽車に西園寺内閣総理大臣などの奉送を受け出発し名古屋に午後450分到着、そのまま一泊し翌11日午前740分発の汽車で新舞鶴に向かいます。途中、大阪を通りますがちょうどペスト(伝染病で高い致死率)がはやっていたため(第二次流行、958名の患者が発生、860人死亡、致死率89.8%)6分だけ停車し通過しています。

 絵葉書は宮城(きゅうじょう)皇居二重橋)と御召輦(馬車、今回御召艦鹿島を金枠に入れ、桜に菊の御紋の旗、行啓紀念とリボンで書かれています。

 新舞鶴 舞鶴水交支社  5月11日(土)    皇太子一行は新舞鶴駅(現:東舞鶴駅)に午後430分到着。降り続いていた雨が上がり,晴れ間がさす中を御召馬車で宿泊先に向かいます。

 絵葉書には舞鶴での宿泊場所である水交社の写真が波と雲、鶴の絵に囲まれて載っています。舞鶴では11日、12日の夜に約4千人が提灯行列を行い、アーク灯数個も照らされ海軍楽隊が演奏をするなど今までにない光景が繰り広げられていました。

 宮津 5月12日(日)     12日は雨模様でしたが、13日には雲もなく晴れ渡ります。午前920分に御召鑑追風(おいて)舞鶴港を発し、1030分天橋立近く千貫松沖合に停泊、水雷艇に移り上陸後天橋立・宮津を見学。この時橋立内には2万人が出迎えていました。この絵葉書は513日宮津の特印が押され、今回皇太子が乗った御召艦三笠と伊地知艦長,東郷大将の写真が掲載されています。また、破れが目立つ日章旗は、日露海戦で旗艦三笠に掲げられていた旗です。この戦艦三笠は現在神奈川県横須賀に記念艦として残されています。
 御召艦鹿島  5月14日(火)    皇太子は14日午前8時に宿泊先である水平社を出門し、9時に新舞鶴から御召艦鹿島に乗って鳥取県境港に向かいます。絵葉書には鹿島が煙を出し、波を分けて進む写真が載せられ、波の中に錨と鎖、菊の御紋がポールになびく絵が載せられています。特印は「山陰道行啓紀年 東宮殿下 40.5」 とあり、明治405月の行啓で特印が押された一枚です。
 米子 鳳翔閣  5月15日(水)  


 

15日は朝から日本晴れで、境港に上陸した一行は馬車で境尋常高等小学校・大篠津村愛労尋常高等小学校を訪れ米子の鳳翔閣に到着します。

当時汽車が開通していましたが、沿道にたくさんの人が押し寄せたため自身の姿がよく見えるように馬車で移動したといわれています。

その日の2時半に鳳翔閣を出られた一行は米子第2中学校(現米子東校)を行啓します。今回の日程では,学校機関を多く入れている事も特徴の一つでした。夜には角盤小学校生徒など3千人ほどが米子裁判所あたりから海まで提灯をもち、整列して歩き歓迎しています。

この絵葉書は県内宿泊場所である鳳翔閣(米子)、仁風閣(鳥取)、飛龍閣(倉吉)が載せられていますが、現在米子の鳳翔閣は取り壊され鳥取県で残っているのは仁風閣と飛龍閣だけになってしまいました。

この時一緒に来られていた東郷大将は、バルチック艦隊を破った日露戦争の英雄として名前が知れ渡っていたため宿泊先をめぐって希望者が続出しました。結局、宿泊場所は抽選で質商後藤快五郎氏宅(米子市内町)に決まっています。後藤氏は山陰鉄道敷設にも尽力し、現在JR後藤駅や後藤総合車両所に名前が残っている地域の名士です。

 16日は天気も良く、米子駅から1030分御召列車で御来屋へ向かい、115分に到着後、後醍醐天皇ゆかりの海岸や名和神社を見学しています。

 この絵葉書には袋が付いており、その袋は数種類あったようです。

 つまり、人気があったため何度も増刷し発行していたと考えられます。

 また、515日特印の米子鳳翔閣や大山を題材にした絵葉書もあります。 実際この時に何枚発行されていたのか、どのような絵柄があったのかは現存している絵葉書から想像するしかありません。

 倉吉飛龍閣  5月17日(金)    

17日の明け方は南風があり、雨が強く降っていましたが午前850分予定通り米子の鳳翔閣を出発します。倉吉では暴風雨に変わりましたが午前1051分に駅に到着。その後風雨が激しく屋根の瓦が飛ぶ大荒れの中、馬車で旅館飛龍閣へ向かい1130分に到着します。

絵葉書はちょうど行啓された517日倉吉の特印が押され、皇太子、皇太子妃両名の写真のまわりに三種の神器(鏡・玉・剣)を配置されています。

今回の行啓ではこの日が一番荒れた天候でした。側近達が予定を変更し皇太子に休憩を勧めますが、待っている人たちのためにと日程通り実施するように指示します。

午後230分、激しい風雨の中、馬車で倉吉農業高校に向かったため、皇太子の帽子が飛んだりメガネが風で落ちたりしましたが、笑顔を絶やさず沿道の拝観者も気にされ、無事倉吉農学校を行啓しています。

 その時、校門から学校へと続く道が市民から寄付され(喜久道)、皇太子にちなんで校地を「太子が丘」と称し、皇太子がお手植えされた高野槇の一帯を「清庭」と呼んでいます。これらの学校内の地名は今でも伝わり、倉農生の誇りとなっています。

また、明治37年打吹公園も行啓を記念して造園され、行啓時の宿泊場所として用材を京都から購入し飛龍閣(国の登録有形文化財)も作られています。この建物は平成21年に屋根を全面葺き替えるなど改修工事をおこない、現在でも使用できる状態です。

行啓時、ここに黒松をお手植えされましたが、平成19年秋(100年目)に枯れてしまいました。その為平成24年県立農工の高野槇を挿し木して育て、飛龍閣に植樹しています。

また、倉吉にある造り酒屋の元帥酒造は「旭正宗」という銘柄を作っていましたが、行啓で酒を献上した縁で大正2年に東郷大将が元帥になられた時、酒銘を「元帥」にし現在に至っています

 鳥取 扇邸  5月18日(土)〜20日(月)    

18日も風が強い中、850分に宿泊場所の飛龍閣を出て930分発の御召列車で鳥取に向かい1050分到着、そのまま扇邸に宿泊されます。

鳥取駅は山陰線が難工事だったため間に合わず、急きょ気高郡海徳村古海に仮の鳥取停車場が設置されました。現在の鳥取駅は翌年4月に開業し現在この古海駅はなくなっています。

18日夜には天気も回復し満天の星空の下、山陰で初めて白熱灯が市内に灯され7万から8万の群衆がこれを見に来たと伝えられています。

 19日は第一中学校、鳥取県師範学校、県立高等女学校 20日は鳥取歩兵第40連隊を行啓します。この日も夜8時頃より小中高数十校の生徒達約1万人が提灯行列するなど市内は人で埋め尽くされ、いままでにない混雑になっていたようです。20日の夜は小学校児童約600人が県会議事堂前に集合し、夜8時にイルミネーションの中、唱歌を歌いますが8時半頃雨模様となり解散しています。

 この絵葉書には袋が残っています。当時は絵はがき31セットのようにして袋に入れ販売していました。これは鳥取市が発行、孔雀の飾りに明治四〇年五月の文字と皇太子殿下奉迎紀念繪葉書と書かれています。行啓ではなく奉迎(身分の高い人をお迎えすること)となっているのはこちらがお迎えすることを意識したためかもしれません。

 この絵葉書は2万枚発行され、メダルのように金の枠や、赤いリボンで飾られ、まわりには菊の花がデザインされています。また鳥取市の紀念スタンプも製作して希望者にこの日(518)の特印を押しています。

この時宿泊した仁風閣は大正に入って市の公会堂や県の迎賓館として使用されていましたが、昭和18年の鳥取震災で煙突が落下し、その後屋根はスレート屋根に吹き替えられています。昭和24年から47年までは県立科学館として使用、昭和48年に重要文化財の指定を受け約2億円かけて修理復元、昭和51年から一般に公開されています

 また、この時初めて鳥取に電話が設置されています。鳥取県庁を交換局にして扇邸や停車場、奉迎事務所や電灯会社に1番から6番の電話番号を割り振っていました。

始めは皇太子行啓が滞りなく進むための連絡用として設置されていた事がわかります。

 

 安来 安来尋常高等小学校  5月21日(火)    

20日は夕方より微雨でしたが、翌21日は快晴の中、鳳翔閣を1250分に出門、御召馬車で鳥取駅に向かい午後120分に菊花で飾られた臨時列車が出発しました。

途中、奉迎送者があふれかえり、皇太子の意向で駅では進行を緩やかにするよう指示されながら午後420分米子に到着、馬車に乗り換え安来に向かいます。その後、安来の宿泊所になっていた尋常小学校に午後540分到着しています。

絵葉書には安来御旅館と書かれていますが場所は小学校です。この行啓中,大田町郡立農学校や大村村尋常高等小学校など多くの学校に宿泊されています。適当な宿泊場所がなかったわけではなく、できるだけ質素にという皇室側の配慮と、増築などしてもその後に生徒たちが使用できるからという考えだったと思われます。

実際、この小学校は明治278年頃の建築でしたが皇太子行啓のため急きょ増築し2月に完成しています。小学校入口広間には能義郡の物産(精米、鋸、線香、饂飩、菓子、銑鉄、椀、紙など)や小学生の作品を並べていました。

宿に到着しても皇太子は連日忙しい日々を過ごしています。例えば、この日は拝謁として知事や宮司軍関係者などのべ18名が訪れ、安来町に金200御下賜(ごかし)されています。また、能義郡長に酒饌料(しゅせんりょう)若干(じゃっかん)と袴地一反、小学校にはお写真と金若干なども下賜されています。これはどこでも宿に着くと同じような行事が待っていました。この小学校は後に焼失、皇太子が旅館庭前に植えた御手植えの松は安来市民会館前に移植されましたが、立て替え移転でなくなってしまったようです。

 松江 興雲閣  5月22日(水)〜25日(土)  

 

曇天の中、午前8時に予定通り安来を出発。次第に晴れ間がのぞき始める中、騎兵4騎が先頭で馬車を先導していました。その後粟島村尋常小学校、揖屋村尋常高等小学校、津田村尋常高等小学校で休憩し松江には1150分に到着、興雲閣に宿泊されました。

 絵葉書は松葉をデザインした縁取りに城山から見た松江市街と御宿泊所の興雲閣の写真が入っています。この2枚を見比べると写真の左右が逆になっていることがわかります。

ガラスの板に写っている写真を絵葉書にする時、間違って裏表逆に印刷してしまったためこのような絵葉書ができたものと思われます。正しいのは上の写真です。           

この興雲閣は明治36年(1903)明治天皇の行在所として建てられていましたが日露戦争のため行幸が中止となり、皇太子行啓での御宿泊所となっています。

写真下には明治21年に市民の寄付で建てられた西南戦争記念碑があります。明治10年に起こった西南の役で亡くなった島根県民114名の戦死者を祀ったものですが現在は失われています。また、興雲閣や城山公園一体は明治から昭和初年にかけて島根県子供博覧会、鉄道連絡記念物産共進会、全国菓子共進会など松江市の中心として活用されています。 

23日は940分より島根県立師範学校を行啓。午後は島根県立松江中学(現:島根県立松江北高等学校)島根県立松江高等女学校(現:島根県立松江南高等学校)を行啓します。松江高等女学校では割烹科教授嘱託の士族加田氏(71歳)が家伝来の包丁で鯛の水切りを披露したりしています。

24日には雲一つない天気のなか、午前は県立農林学校、午後には県立商業学校、師範学校附属幼稚園などを行啓され、

25日午前には城山の庭で武術見学をされました。ただ、出場者の年齢は皆50歳以上でした。演技披露者は明治維新の頃10代から30代だったので、実戦を経験している方々も多くいたと思われます。皇太子は、女子の武芸や白髪の老人が掛け声勇ましく身構えたりするのを見学され、大変楽しまれたようです。

江戸時代の伝統も次世代に伝えられることなく、このような機会に披露できるのは老人ばかりになっていたのではないでしょうか。また、戦争(奉天戦)で負傷した兵士に対して「痛くはないか、椅子を使うように」と言葉をかけるなど、まわりにも気を配っておられます。

午後は船で宍道湖に出かけ投錨の様子などを見学されたり、嫁ヶ島に上陸して皇太子御自身がカメラで風景を撮影されたりしています。

また、松江市内でも様々な歓迎がされました。松江大橋では欄干を杉の葉で飾り数千の小国旗を立てていました。松江銀行(山陰合銀の前身)では店頭に杉の葉を結び、その中に火屋(ほや)(かさ)のついた電灯で花型を作っています。また、原田時計店では置時計などを用いて奉迎門を作っていました。

 宍道 昼食  5月26日(日)    26日は雲行きも怪しく霧雨が降る中、一行は松江を馬車で発ち、正午に宍道町到着。昼食に富豪木幡久右衛門邸を使用します。木幡家は歴代松江藩主の本陣宿を勤めており、この行啓でも昼食を出すため当主の第13代久右衛門(絵葉書写真)が屋敷の用材や調度品を関東や関西まで自ら調達し新築しています。ここは和風建築ですが、皇太子はテーブルといすという様式で昼食を取ったと記録に残っています。

木幡氏は東宮殿下宍道御駐駕記念繪葉書の題で絵葉書を製作していました。当主の写真や建物の様子、東郷大将御手裁記念松が写真で載せられ、袋に主人の名前が載っています。

 今市 5月26日(日)     午後430分、馬車で今市に到着。町の両側に女子師範学校高等尋常、各小学校生徒達などが並び歓迎します。

今市では遠藤嘉右衛門邸に宿泊します。絵葉書では526日今市の特印と、写真は浜田市街と宿泊所の御便殿です。背景に書いてある言葉は万葉集第2135番の歌の一部、相聞歌です、反歌もありますがここには載っていません。

「石見の海の(こと)さへく、(から)の崎なる()(くり)にそ、深海(ふかみ)()生ふる、荒磯(ありそ)にそ、玉藻は生ふる」柿本朝臣人麻呂が石見から上京する時に、国に妻を残して詠んだ歌です。

訳は「石見の海の辛の崎にある海石(海中の岩)には、海松(海草)が
 出雲大社 5月27日(月)     快晴の中、午前9時馬車で出発し県立女子師範学校を行啓した後出雲大社を参拝、千家邸で休憩されています。ここで島根県知事が東郷氏に「2年前の同じ日にバルチック艦隊を破ったことは有名で、この地域でも海戦の砲弾音が聞こえた」と話を振ると、東郷氏はポケットから時計を出して「ちょうど午後2時の今頃、敵の戦艦2隻を撃沈したので勝利を確信した」と話した事が伝えられています。その後、天気快晴のなか杵築中学を行啓します。絵葉書は赤を基調としたイラストに出雲大社の写真を入れ、皇太子行啓の特印が押されています。
 大森町 大家尋常小学校  5月29日(水)    この日は強い西風が吹き荒れる中、10時に旅館を出発。路上は砂塵を巻き上げるも御馬車は幌をかぶせず、沿道の人々の敬礼に返礼しながら正午に大森(現:大田町)に到着し昼食を取られます。

絵葉書はその昼食場所(現:石見銀山史料館)。この大森町御晝餐(昼食)内御正室は、当時の邇摩郡役所を新築し使用しました。

その後、午後2時に出発、320分邑智郡祖式尋常高等小学校で休憩、3分後に出発しているので形だけの休憩だったのでしょう。大雨の中450分、宿泊所である大家尋常高等小学校に到着、そのまま宿泊されます。

 江津 江津尋常小学校 5月30日(木)     風も止み落ち着いた朝、予定通り10時に出発。この頃の道はまだ整備が十分でなく国道が曲がりくねり、急な坂や険路も多く馬車での移動も大変でしたが邇摩郡(現:大田市)波積村で昼食、1時半に出発し午後340分旅館になっていた江津村尋常高等小学校に着いています。

 この絵葉書は行啓記念に石見浜田 竹田呉服店謹製で発行された物です。

写真は東郷大将と戦艦石見、写真中の戦利艦アリヨールというのは、この船は元々ロシア海軍バルチック艦隊の主力艦でしたが、日本海海戦で連合艦隊と対戦し大破、日本海軍に鹵獲(接収)され、呉で改装をおこない石見と名前がつけられたためです。戦艦石見はその後大正11年に除籍、翌年航空攻撃の実艦的になり城ヶ島(三浦半島)近海で沈没しています。

はがきには江津で特印を押されたのでしょう530日江津の印がわかります。

 濱田 御便殿  5月31日(金)〜6月3日(月)    日本晴れのこの日は8時に出発、途中鮎の網打ちなどを見学し浜田に到着します。翌日61日に浜田中学校を訪れ、中学生の柔道試合も見学し、白熱した試合に打ち解けていたと記録に残っています。その後、浜田高等女学校を行啓、午後には城山に上られています。2日には予定通り朝9時より歩兵第21連隊を行啓、演習を見学されました。

 この行啓とは別に、各地で待従武官などを地域の施設に巡視させています。浜田では7歳から15歳迄の孤児8名、貧児6名が暮らす孤児院を巡視、状況を視察しお菓子を渡したりしていました。

皇太子一行は63日午後2時半に旅館を出発、御召艦鹿島に乗船、假伯されます。

絵葉書には宿泊場所の御便殿や中庭、浜田市街の様子が写真に載っています。この建物はその後個人や法人の所有となっていましたが、平成185月に浜田市は御便殿とその移転先となる土地の寄附を受け、同年7月から11月にかけて曳き移転及び保存工事を行い、平成19年には移転完了式を行いました。
 濱田 6月3日(月)   



 行啓時、皇太子には3人の子どもがありました。その絵葉書も多数発行されています。明治4063日濱田特印のあるこの絵葉書は、31組。長男、後の昭和天皇である迪宮(みちのみや)(ひろ)(ひと)親王(しんのう)の絵葉書は海から日が昇り、桜が舞っている図の中に写真が載っています。次男は淳宮(あつのみや)雍仁(やすひと)親王(しんのう)、後の秩父宮さまです、三男は光宮(てるのみや)宣仁(のぶひと)親王(しんのう)、後の高松宮様です。大正天皇は貞明皇后との間に4皇子をもうけていますが、行啓当時はまだ4人目は生まれていなかったので3皇子司の絵葉書がセットで多数発行されていました。
 隠岐 6月4日(火)      63日午後230分旅館を出て御召艦鹿島に乗船し假泊します。

4日午前6時、停泊中の艦が発した祝砲は港の山々に響き渡り、御召艦鹿島を始め香取、白雲、朝汐、朝露、追風は快晴無風の中、煙を吐きながら隠岐に向け出港していきます。午後150分隠岐の島別府湾に投錨、午後3時に水雷艇で上陸し後醍醐天皇遺跡、黒木山や海土村などを行啓し午後5時に帰艦します。夜8時前より戦艦香取や鹿島はイルミネーションを灯し行啓を祝していました。

隠岐の島にはこの時初めて電信取扱所が開設されます。場所は臨時に旅館を使い松江より2名、島内より2名が出張し取扱いしました。

絵葉書は隠岐の島西郷港の景観と御召館「鹿島」の写真です。

5日、雨が今にも降り出しそうな天候の中、午前530分隠岐の島を出発し舞鶴に向かいます。

隠岐の島は始めの計画にはなく、美保関で宿泊の後、舞鶴に向かう予定でしたが、皇太子の意向で行啓が決定したようです。降りしきる雨の中、午後520分舞鶴に入港し、戦艦鹿島で假泊しています。

 福知山 6月6日(木)     66日午前850分、祝砲と共に水雷艇で上陸し、西舞鶴駅から福知山に向かいます。この時もまだ雨が降り続いていました。その雨の中、歩兵第20連隊を行啓します。

66日舞鶴の特印がある1枚目の絵葉書は天橋立のイラストに住吉入江の写真が載せられています。明治の頃はここから汽船や船便が発着していたためです。

2枚目の絵葉書には地名が載っていませんが、特印に福知山の文字と40-6-6の日付が押されています。たわわに実った稲穂のイラストの中に写真が納められています。この風景は福知山城から北を眺めたものです。写真右下の寺は明覚寺、その先に由良川が写っています。

 

 東宮帰郷      皇太子一行は雨が降りしきる中、福知山を行啓し京都の二条離宮で宿泊、9日に東京に帰郷します。

5月から6月にかけて約4週間の行啓は、山陰地方にとって鉄道や電話電信電灯などのインフラだけでなく、その後何十年も人々の語りぐさになる出来事でした。

 現在でもその時宿泊された仁風閣などは大切に保存され、境港のお台場公園には記念に植樹された黒松なども時代を超えて残されています。米子の湊山公園、倉吉の打吹公園などはこの時の記念に作られ今でも市民に親しまれています。

この行啓の終盤、松江を行啓の折、周吉郡村長は自身が育てていた隠岐馬の献上を願い出ていました。隠岐馬は小さく従順でしたが年は20才を超え老馬であったため県知事などは不必要と考えましたが、この馬を見た皇太子は大変気に入られました。皇太子は、落ち着いた小さな馬は子どもが乗るにはとても適しているので皇孫(こうそん)陛下(子ども達)へのお土産にと考えられたのです。そして、自分が帰京した後に馬が到着するよう命じます、自ら子ども達へ渡したいとの想いからでした。その他にも、この旅行中人形などを子どものために多数お買いになっていたことがわかっています。