山陰地方の鉄道


山陰地方では明治の終わり頃、山陰線の開通という大きな出来事がありました。

 日本の鉄道は明治5年(1872)に新橋駅−横浜駅間で開業しました。しかし山陰地方に来たのはそれから30年後。やっと最初の鉄道が境〜御来屋間に開通(1902)するなどまだまだ近代化が遅れていました。

その10年後、明治45年(1912)山陰線が全線開通します。このことは京都まで座って移動できるだけでなく、物資の運搬や情報などが都会と結ばれ、山陰発展の大きな起点となりました。

  このことは人々の関心が高く、多くの絵葉書にもなっています。当時絵葉書は白黒が中心ですが、この出来事に関しては葉書に色をつけ、エンボス加工をするなどとても凝った作りで制作されました。今回、その時代に発行された山陰地域の絵葉書を中心に紹介します。


 表題 年月 
 絵葉書 解説 
 山陰線鉄道開通式紀念繪葉書  明治45年(1912)  










 これは明治4561日に鳥取市二の丸跡で開かれた山陰鉄道開通式で鳥取協賛会が菓子箸(菓子を取り分ける時に用いる箸)、鳥取案内と共に参加者に配った絵葉書です。

当時、市が絵葉書を発行することはほとんどありませんでしたが、市が制作していることでこの行事がとても大きな催しだった事がわかります。

紀念式典では原(たかし)内務大臣も主催者として参列し、参加者は約2600人にのぼるなど盛大におこなわれましたが、県外からの来賓者を迎える旅館が不足し、市内に分宿や学校を宿泊所にしたり、鳥取にまだ自動車がなく、京都から自動車3台、馬車1台を借りたり準備が大変だったようです。

絵葉書の袋はトンネルを抜けて鉄橋にかかる構図。3枚1組で、1枚目は緑地に稲穂がエンボス加工され宇倍神社と摩尼寺の写真が載った図柄、2枚目は餘部鉄橋のイラストと共に仁風閣と鳥取市役所の写真が載ったデザイン、3枚目は山陰地方の路線と吉方温泉・樗谿(おうちだに)神社の写真が載った絵葉書になっています。

山陰では江戸から明治になると境港から舞鶴まで汽船が開通(13時間)し、舞鶴から京都へ鉄道で移動できる様になりましたが,天候に左右される事もありまだまだ不便でした。

明治40年、皇太子山陰行啓では千代川を越える橋の完成が遅れたため米子〜鳥取(千代川西側まで)しか開通していませんでした。翌41年に千代川の鉄橋が通ったことで米子〜鳥取間が開通します。その後、難工事だった餘部鉄橋が完成し明治4531日京都〜出雲今市間の全線が開通しています。

山陰線開通によって鉄道が陸でつながり、列車に乗っているだけでその日のうちに京都に行けるようになりました。このことは旅行が身近になっただけでなく、物











 山陰鉄道開通式紀念  明治45年(1912)  



山陰鉄道開通紀念絵葉書は官公庁だけでなく民間でも作られていました。

これは31組で民間が発行した絵葉書です。1枚目の絵葉書には原敬鉄道院総裁(内務大臣と兼ねていた)と鳥取市街、難工事だった余部鉄橋が載っています。また写真の周りに飛んでいる蝶は鳥取池田藩の家紋からとられているのでしょう。

2枚目の写真の遠景は中国地方最高峰の伯耆大山。山陰鉄道の経路地図と共に米子と松江大橋の写真が切符型の中に収まっています。

3枚目は京都御所と出雲大社。京都と山陰を結ぶ象徴としてその地域の風景や代表的な建築物が載せられています。山陰鉄道開通式では入口にアーチが飾られ、鳥取市内では小学生の旗行列や提灯行列がおこなわれるなど、地域は祝賀一色でした。 
 山陰鉄道開通記念絵はがき  明治45年(1912)  




 開通記念式典は鳥取で開催されましたが、米子でも開通を記念して米子町役場が絵葉書を発行しています。

一枚目の絵葉書は汽車に見立てた車両の中に弓ヶ浜と大山の絵を入れています。2枚目は切符に当時錦公園にあった鳳翔閣と米子港を入れているデザインとなっています。多色刷りで芸術性の高いデザインを主とし、高級感を出すために山陰鉄道開通記念とエンボス加工(箔押し)しています。

鉄道開通前、米子を中心とする物資の輸送はこの絵葉書に載っている米子港が主でしたが、新しく駅が出来た事により次第に中心が現在の米子駅に移っていき、今までの交通手段は姿を消していきました。

米子でも鉄道は初め蒸気機関車の吹き出す煙の火の粉が火事になると問題となり、人家から離れた場所に停車場を作っています。その後、停車場前の広場は新しく明治町と名付けられ街の中心となり、今でも米子市、境港市、倉吉市にその名前が残っています。

 山陰鉄道開通記念  明治45年    この絵葉書は山陰線開通記念で鉄道院米子建設事務所が発行した51組みの一枚です。この背景の文字は「立ち別れ いなばの山の みね(峰)に生ふる まつとしき(聞)かば 今かへり(帰り)来む」と書かれています。 

これは百人一首の中にある中納言(ちゅうなごん)行平(ゆきひら)(在原(ありはらの)行平)の句で、因幡の守に任ぜられ、赴任地に向かう時、送別の宴で詠んだ詩です。「お別れして、因幡の国へ行く私ですが、因幡の稲羽山の峰に生えている松の木のように、私の帰りを待つと言ってくださるなら、すぐに戻ってまいりましょう。」という意味です。

山陰線は明治35年(1902)境港から御来屋まで開業したのが始まりです。

当時、山陰地方への陸路は中国山脈を徒歩か牛馬等で超えるしか手段がなく、冬は雪に閉ざされるなど建設資材を運ぶには実質的に不可能でした。その為、海上輸送に便利な境港から工事が始められたのです。工事は昼夜通しての12時間労働でした。最初に組み立てられた機関車は「一二四号車」で重量二五d。それを大阪から分解して汽車で福知山まで運び、そこから鉄道がなかったため荷馬車で舞鶴まで運搬、船で米子の灘町海岸まで輸送しました。

当時の駅は境、大篠津、後藤、米子、淀江、御来屋の6駅。境〜御来屋間を14往復し、運賃は3等で米子〜境間が20銭、2等が32銭、1等はありませんでした。

一番列車は米子から境に向けて朝615分に発車しています。

当時の所要時間は米子〜境間が36分〜38分、現在は40分〜45分かかっています。米子〜境間では途中駅が2駅から14駅に増え、行き違いなどもあるため単純に比較できませんが、明治時代も意外に早かったことがわかります。

 山陰鉄道開通記念 明治45年     山陰鉄道が開通した記念に鳥取県米子町では米子商工会議社が主催し、510日から610日までの約30日間、全国物産品博覧会を開催しました。鉄道開通を契機に物や人の交流を促進し、この地域の発展に役立てようとしたのです。

絵葉書のデザインは松の間から大山が見える背景に錦海から大山を望む写真が入り、山陰鉄道開通記念、全国特産品博覧会の特印が押してあります。

 右上部の人はこの物産展の審査総長である工学博士平賀義美。下の3人は常務幹事井沢定三郎、常務顧問稲田藤次郎、常務幹事三好熊太郎です。これらの幹部を中心に会場を米子高等女学校(現:米子市福祉保健総合センター)とし、米子商工会の総力を挙げて実施した結果、米子の人口が2万人余りだった当時、会期中に30万人の来場者があり大盛況だったそうです。ただ博覧会期間中、会場となった女学校は授業ができず、近くの義方小学校に教室を移して生徒達は通学していました。

 会場には大阪館・京都館・大演芸館・ドリームランド館・大ビアホールなどがあり、第2会場には蒙古館・沖縄館・大広告塔・大パノラマ館・矢野動物園・大サーカス館などがありました。

他にも山陰で初めて購入されたグランドピアノや錦海で水雷艇での水中爆発実験などもあり大いに盛り上がったと伝えられています。

 山陰鉄道開通記念 明治45年     全国特産品博覧会会場図、会場の建物の写真を背景に4名の人物が載っています。

右上の写真は名誉総裁伯爵大隈重信です。首相を務め政界を引退した後、文化活動を積極的におこなっていました。この時75歳。明治20年伯爵の称号をうけ、早稲田大学も創立。この後大正3年に政界に復帰し首相となっていますが大正1185歳で亡くなっています。

 次の赤い枠の中は鳥取県知事岡喜七郎です。岡山県出身で秋田県知事などを経て2年前に鳥取県知事に就任しています。

 下の2名は博覧会長後藤快五郎と協賛会長三好栄次郎です。後藤氏は島根県出身で小学校の先生でしたが後藤家の養子となり、山陰鉄道敷設に尽力します。彼はその記念である全国特産品博覧会で会長となり、米子の近代化に貢献しています。

 鉄道連絡紀念物産共進会  明治45年  




島根県松江市でも開通記念として松江城大手門を中心に物産会が開催されました。

 これはそのとき発行された絵葉書です。

 ここでは松江城の写真と松江市の市章をデザインした絵柄と、宍道湖の周りにチドリが飛んでいる絵柄の絵葉書が作られています。

 共進会の会場となった雑賀小学校では地方歴史館を、松江城内の興雲閣や白潟小学校では出雲地方の秘蔵品や美術品を陳列し好評を得ていました。

 物産共進会でも多数の来場者があり、中では当時珍しかったビアホールや食堂などが会場に設営され、物産大会では全国各地から珍しい物が集まりました。

 
 山陰線名勝絵はがき    


































明治45年の山陰線の全通により鉄道院米子出張所が廃止され、山陰線の運輸営業はこの絵はがきの発行者、西部鉄道管理局(神戸)に移行します。 

それまであった米子出張所は米子建設事務所となり名称が変わっています。この絵葉書には発行年が書いていませんので、明治45年以降のものと思われます。

絵葉書は3枚1セットで作られ、袋は餘部橋脚を汽車が走る構図。道には天秤棒を担いだ人などが描かれています。餘部鉄橋は山陰線でも困難を極めた工区でした。資材の輸送は陸路が険峻な道で運べず、すべて海路で運んでいましたが、冬期は海が荒れ輸送ができず、秋までに必要物資を計画的に運搬する必要がありました。

また、鋼材はアメリカの橋梁制作会社に発注され、門司港から3000トン級の船で香住港に入港、そこから餘部まで運ばれていました。

2年あまりの工期と死者2名、負傷者83名の犠牲を払い完成させています。

始めの絵はがきは満開の桜を見る十二単の女性を背景に鳥取・米子・松江市街の写真です。

2枚目は松並木の海岸で牛をつれて歩く農夫を背景に岩井・城崎・東郷温泉の写真を載せています。最後は合戦の風景をデザインし出雲大社、美保神社、名和神社の写真が載せられています。

絵はがきの印刷所は神戸光村印刷株式会社印行。光村印刷は明治34(1901)に神戸で関西写真製版印刷合資会社として発足し、現在も東京に本社を移し営業を続けています。

 浜坂石見間鉄道開通記念  明治44年    山陰線全線開通の前年、濱坂〜石見間が開通したとき発行された絵葉書です

現在の高速道路と同じように山陰鉄道は一気に開通したわけではなく、工区を区切りながら通していました。

当時、鉄道は軍事の面でも大きな必要性がありました。日清戦争後ロシアとの関係が悪化、明治29年(1896)岩美郡宇倍野村(現:鳥取市国府町)に陸軍歩兵第40連隊が、明治38(1905)には島根県八束郡津田村古志原(現:松江市古志原)に歩兵第63連隊が新設され、連隊は姫路歩兵第10師団に属していたため兵隊や物資の連携を取る必要がありました。また、鳥取県境港は特に朝鮮半島との玄関口であり、ここから半島への輸送はとても重要視されていました。

絵葉書には蒸気機関車の写真とともにレールのイラストを配置し、切符の縁にかたどられた駅舎には着物姿の男性や子供も見ることができます。

これより東の区間、鎧〜久谷間は桃観隧(とうかんずい)(どう)(全長当初1841m)、餘部橋脚があったため山陰線最大の難所でした。最後にこの場所が開通し、着工から12年あまりして山陰線が全線開通となったのです。

 大社鉄道開通祝賀記念  明治45年  


 山陰線が3月1日に全線開通し、米子市や松江市で物産展が盛大に行われている6月1日、大社線も開業しています。

絵葉書には大社鉄道開通祝賀紀念、明治4563日の特印があり、きづきと平仮名で地名が載っています。

開通式はこの印の63日、大社駅前広場で盛大に挙行され、その時に配られたか販売された絵葉書です。

老松の絵柄に出雲大社松の馬場などの写真、もう一枚は稲穂の絵柄に出雲大社本殿などの写真が載せられています。

大社駅の位置は地域の意見が分かれなかなか決まりませんでしたが、鉄道院総裁後藤新平が大社参拝の時、高所から「あの辺りはどうかね」と現在の位置を指さし決定したと伝えられています。大社線が開通すると大社駅の乗降客は急激に増え、運送店や旅館、茶店が並び参拝客や観光客でにぎわいを見せました。開業前、出雲大社の参拝客は15千人したが開業後は5万人に急増しています。ただ、その後乗降客が減少、平成2年に大社線は廃止となり地図から姿を消しました。

 阪鶴鉄道連絡汽船舞鶴境間運行  明治40年    

山陰鉄道が開通する以前、山陰地域の人々が京都や大阪に行くためには徒歩で峠を超え、岡山県津山で中国鉄道を利用する方法でしたが、山陰地方から舞鶴まで(はん)(かく)丸が運行したため多くの人が船を利用するようになりました。

これはその阪鶴鉄道が、舞鶴から境まで運航していた阪鶴丸を紹介する絵葉書です。明治40年に行啓を行った皇太子も利用した同じ航路(御召艦使用)で、「皇太子殿下山陰道行啓紀年 明治40527日」の特印が押してあります。

行程は、舞鶴・境両方から午後5時に出航して翌朝6時に到着、運賃は2等で280銭でした。絵葉書に載っている阪鶴丸は760トン、明治39(1907)に就航した最新式の船でした。写真は波間に浮かぶ阪鶴丸と船内の様子。喫煙室には高級な家具がならび、まだ空調がない時代だったので扇風機が備え付けてあります。船内には1等食堂、2等食堂、喫煙室があり設備がよく運賃も安いため利用者が増加していました。

 この航路の開業は明治38年(1905)ですが、明治40年(1907)、この絵葉書に押されている日付の約2ヶ月後、81日に国鉄が買収します。その後、明治41年(1908)には第2阪鶴丸が竣工し、毎日運行になるなど海上交通の花形となっていましたが、山陰線開通にともなって人の流れは鉄道に移り利用者が減少、廃止されています。この2隻はその後、宇野〜高松間の連絡船として再出発しています。 

 阪鶴鉄道連絡航路之勝區      勝區(しょうく)の區は、区の異体字です。勝区とは景色の優れた場所のこと。阪鶴鉄道が連絡している航路で出雲大社まで松江より4時間で行けるという宣伝も兼ねた絵葉書です。

絵葉書には新舞鶴で皇太子殿下山陰行啓の特印が押されています、日付は明治40514日。皇太子殿下一行が新舞鶴を出航し境港に向かっている時に押されたものです。   

この阪鶴鉄道は伊丹の酒造会社が中心に明治26年(1893)に設立。明治32(1899)京都府福知山市まで延長しています。当時レールは1896年のアメリカカーネギー社製、機関車はアメリカピッツバーグ社製でした。

 定期船が運航する以前、鳥取県西部地区では明治時代初頭まで米子港周辺の灘町、立町あたりを中心に物資の流通は船舶による海運、人馬・荷車による陸運によっておこなわれていました。

明治11(1878)鳥取県内で初めて定期汽船が境港に寄港。明治16(1853)境港は全国主要湾港に指定され、翌年大阪商船が安来、米子、境、大阪間の山陰専用航路を開きます。ただ、冬期は日本海が荒れるたびに船が欠航していました。

その時代に関西方面から汽車で舞鶴まで行き船に乗れば、今まで参詣するのが難しかった出雲大社に行けることは当時の人々にとって画期的であり、絵葉書もその宣伝の役割を果たしています。