日本の郵便制度

日本では江戸時代通信手段として飛脚制度があり、その業務は藩からの免許制で家代々行われていました。山陰では安永頃(1772頃)から松江〜大坂間に整備され、毎月3回書状や金銭、荷物を運搬することができました。

経路は松江〜米子、根雨を経て四十曲峠、津山、姫路に入り海路で大坂が基本でしたが、往復に約1ヶ月もかかっていました。

下の書状は美濃国武儀郡上麻生村(現:岐阜県加茂郡)に出された当時の飛脚便です。



郵便制度の始まり

日本の飛脚に代わる郵便制度は明治4(1871)国営で始まります。それまで手紙は巻紙でしたが、初めて封書に切手を貼って郵送するというシステムが開始されたのです。

2年後の明治6年(1873)日本で最初の官製はがきが売り出されます。紙を購入すればそのまま配達されるはがきは全く新しい方式でした。料金も全国均一制を採用し市内用半銭、全国用1銭と庶民にも利用しやすく瞬く間に普及しだしました。ただ、当時は

国内で厚手の洋紙が製造できず薄い紙を2つ折りにして用いていました(二つ折り葉書)。

これは2色刷の凸版印刷で、外側の唐草模様が赤い事から「紅枠はがき」と呼ばれ、二つ折りになっていました。


手彫葉書 明治8年(1875)



二つ折り葉書発行の2年後、国産で厚手の紙が製造できるようになり、現在のはがきの形式と同じ官製葉書が登場しました。

印刷は手彫り凹版で大きさは12.6cm×7.9cm 料金は葉書の半額市内半銭、市外1銭でした。当初は「イ」から「ニ」までの仮名が切手部分に印刷されていました(仮名入り)が発行一月後に仮名は廃止されました。

表には「此表面ニハ宿所姓名ヲ限リ認メ裏面ニ通信文ヲ認ムベキ事」(表には住所氏名のみ、裏面に通信文を書くこと)と書かれています。葉書は封書に比べて用紙の節約、手間の省略、郵便取り扱いの簡便化、郵便料金低減など多くの利点があり急速に普及しました。

 小判葉書 明治9年(1876)

明治9年にイタリア人技師エドアルド・キヨッソーネの指導により、印刷法をそれまでの凹版印刷から凸版印刷に替えて製作された葉書です。 

この葉書は切手の図柄が小判のようなので小判葉書と呼ばれています。

葉書の枠下には始め「大日本帝国政府大蔵省紙幣寮製造」と銘が印刷されていました。これは紙幣や葉書などの発行は財務省紙幣司が明治47月に創設(同年8月に紙幣寮と改称)され、その名前が載せられていたためです。その後、明治11(1878)大蔵省印刷局と改称され、はがきにも印刷されるようになりました。壱銭葉書には「大日本帝国政府大蔵省印刷局製造」と銘が書かれています

菊葉書 明治34年(1901)


明治31(1898)発行された葉書は、切手の位置に菊の紋章が中央にあることから「菊葉書」といわれています。

当初は葉書表面に枠や注意書きが印刷されていましたが、明治39年には枠も注意書きもなくなりました。この頃、葉書は年5億枚も発行され、一般的になっていたからです。

右の葉書は印面や枠が青紫で刷られているため「菊青枠はがき」とよばれています。