文化札 文化3年(1806)



 宝暦札が安永9年(1780)満期になったため幕府の許可を得て改判、天明札が発行されました。天明札は混乱なく流通、文化2年に25年経過したため、文化3年に新しい札を発行します。この年は丙寅(ひのえとら)の年だったため、表面には丙寅の文字が記され、裏は鳳凰の絵も書かれています。ただこの札も初めは安定し、領内に限らず近隣まで流通していたようですが、途中より藩の財政が困難になり信用が下落しました。
 この時代、鳥取藩主が将軍の子どもを養子にすることとなり官位が上がったり、葵の御紋を使用する特権が得られたりし多額の借金が必要となったため、財政が逼迫(ひっぱく)し札の交換に支障がでて信用が下落したのです。
 この事態を憂慮した藩士が民間より米2万5千石を買い上げ、この米を他藩に輸出しその代償として正貨を輸入しようと計画しましたが、失敗に終りました。この買い上げの結果藩内に米が不足し、たちまち米価が上がることとなり、二重三重の苦しみが藩民にふりかかることになりました。


 額 面  表 裏 
 銀拾匁    
 壱匁    
 壱分