明和8年(1771)

  浜田藩では元禄7年(1694)に藩札を発行、当時は新田開発が盛んに行われていました。その後、明和4年(1767)2月に銀札通用のお触れが出され9月発行、その4年後、明和8年にこの札が発行されました。この札も2年後、明和の終わりから安永頃には偽札が多量に出回っていたようです。当時、この地域には安芸札という広島藩の銀札が出回り、浜田藩より信用も高かったため浜田藩札は流通が少ないという状況でした。
 浜田城下は浜田側以北に上級武士の武家屋敷を、以南に中級・下級武士の居住区と寺社及び町屋を計画的に配置し「浜田八町」という都市を形成していました。紺屋町(こんやまち)・桧物屋町(ひものやちょう)は職人の居住区、辻町、蛭子町(えびすちょう)などは商人の町、新町には藩札を扱う「銀札引換所・役所」などがありました。
幕末、慶応2年(1866)浜田藩は長州藩の支配下となりました。当分浜田藩札はそのまま使用との通達があったものの、浜田城落の混乱で皆銀札の価値がなくなったと早合点し、市内に銀札が一面に散乱、他方から来た軍夫が持ち帰って一躍大金持ちになったなどという逸話が残っています。昭和40年代に浜田市内で「家の年寄りが昔話で札がいっぱい道ばたに捨ててあった、と話をしていた」との伝聞もあるので、当時の混乱の様子がわかります。
浜田藩札の用紙は自藩に適した産地がなかったため摂津国有馬藩名塩村(西宮市塩瀬町名塩)から購入していました。名塩紙の特徴は紙に耐力があり虫害に強く印刷仕上がりが美しかったといわれていますが、現存する札は痛みが激しく字が読み取りにくくなっています。
 浜田藩も明治2年(1869)版籍奉還により石見銀山領とともに大森県となり、明治4年(1871)浜田県となり、その後島根県に編入されています。

 額面 表  裏 
 銀五匁    
 銀一匁    
 五分    
 三分