〜藩札とは〜





江戸時代、我が国では3貨制度〔金・銀・銭(銅)〕といわれる貨幣制度が成り立っていました。金貨は大判・小判で単位は両、銀貨は豆板銀(まめいたぎん)や丁銀(ちょうぎん)で単位は匁(もんめ)や貫、銭は寛永通宝など今の五円玉のように真ん中に穴の開いた硬貨で単位は分(ふん)または貫分でした。
 それとは別に、各藩は自分たち独自の札を幕府の許可を得て作り、使用させていました。これは藩札が正貨(金銀)獲得という目的を持っていたためです。藩内では金貨・銀貨の使用を停止し領民に対してごく少数の銭貨取引以外は藩札の使用を強制、使用区域も原則藩内に限らせ、他国からの商人にも使用させていました。そのため藩札は領民にとって金銀より身近な存在でした。
幕府が許可し藩が発行した最も古い藩札は寛文元年(1661)に発行された越前福井藩札でした。その後、藩札を発行する藩が続出し明治まで続きます。
藩札の形態は時代や地域により異なっていますが、おおむね縦15〜16cm、横4〜5cmの短冊形で厚手の紙が用いられています。表には版元となった商人の名前、裏には発行時期や藩名が書かれ、偽造防止のため七福神などの縁起のよい絵柄や色などを用いられていました。藩札に書かれている金額の単位は分や匁が使われています。1匁は10分、1000匁は1貫目と換算していました。
 藩札の製造方法は大部分は木版刷で、一部に手書きあるいは朱印があります。用紙はほとんどが楮(こうぞ)を原料とし、意匠については七福神など縁起のいい絵柄が好まれていました。また、簡単に真似られないよう版木の文字や図案等を細密に彫刻し印刷したり、一般の人には使えない材料を使用(当時は朱肉は朱座の管理下での使用に限られていたので印章を捺印していた)していました。
 また、当時の経済は東国は金の産出が多く、西国は銀の産出が多かったため江戸を中心とする東国では金札が多く、大坂を中心とする西国では銀札が多く発行されていました。
 ただし、当時は藩札という言葉はなく、ただ単に札(ふだ)や金札、銀札、銭札、切手、端書などと呼ばれていました。

〜私札とは〜

 藩札は藩が発行した公的な札に対し、私札は発行人の信用を背景に自らの商業取引の手段として発行され、特定範囲内で流通していました。私札の歴史は藩札より古く、初期には藩札製作の為私札の運用方法や状況を参考にしていたようです。
 我が国の札の歴史は伊勢国の山田地方で発行された山田羽書(はがき)(室町末期頃1600年前後)が最初といわれています。これは貨幣の用件とされる定額化や様式の統一化が初めてはかられたため、紙幣の源流と考えられているからです。この葉書(私札)は我が国で最も古く、明治初期まで約250年間も使用されました。  
 私札の種類には個人の信用で使用する個人札、町村が地域通貨として発行した町村札、鉱山内で手間賃を出す際に使用した鉱山札、各街道の宿場で使用された宿場札、神社や寺社が修復費用などのために作られた寺社札、宮家や公郷(くごう)が発行していた宮家札・公郷札、その他、酒や食品などを名目とした商品代預かり札が存在しています。
 私札という言葉も当時は使われず、単に札や切手と呼ばれていました。
 明治4年(1871)政府は廃藩置県と同時に私札も通用停止、すべて発行元の責任で処理すべきとしました。
藩札の処理で混乱が生じたように私札の発行元もその対応はまちまちでした。小規模なものは発行元との間で問題も少なく交換されたようですが、信用が高くかなりの範囲で流通していた札はその交換で取付け騒ぎが起こり、発行人は倒産、私札を持っている人も損害を負った例も多くありました。
山陰地方でもたくさん私札が発行されていますが、藩札のように藩の公式な札ではないため当時の史料があまりありません。また、現存している札からしかその内容を読み取れないため、年代や内容に不確かな点も多くあります。
 逆に、今では考えられませんが地域の有力な商店や個人が工夫をして札を発行しているので、その札一枚一枚が特徴的で趣も感じられます。