私札(松江・雲州・隠岐・石州)


年代 表  裏  解説 
 明治元年(1868)      白潟本町にあった森脇酒店の私札です。
 上部には「玉箒(たまははき)壱斤」と書かれています。
 玉箒とはお酒の意味です。昔「酒は憂いの玉箒」という言葉がありました。「酒は心の憂いを取り除いてくれる箒のようなもの」という意味で使われ、玉箒がそのままお酒の意味になったのです。
 中心には人が唐子壺をのぞき込んでいる図。札にはナンバーがあり、明治2年札には「あの百三十壱」と番号が書かれています。
 江戸の終わりから明治の初めに栄えていた酒店だったのでしょう。上部には「引渡相済」の印と朱で「上印」と押されています。
 明治4年(1871)
出雲国能義郡大塚村 大塚三嶋屋
     能義郡は島根県にあった郡で江戸時代は母里藩、現在は安来市大塚町にあたります。この札は両方とも当時大塚村にあった三嶋屋酒店が発行した私札です。
 大塚村は水木しげる氏の妻、武良布枝さんの出身地といった方がわかるかもしれません。
 札の内容は
     「とし
      上酒壱合預 (壺図、内に)「大塚□嶋」
      代銭三百文也
    辛未(明治4年)十一月 廿八 六十五ノ内」
と書かれています。
 明治15年(1882) 出雲能義郡布部村      布部(ふべ)村は江戸時代の広瀬藩にあった村ですが、明治12年(1879)能義郡の一部となり、昭和42年に広瀬町に編入、平成16年に安来市と合併し能義郡という名前は消滅しました。
 この札は当時、出雲能義郡布部村の濱田氏が発行した私札です。
 増賃三銭預りの札には「明治十五年午九月改 (朱書)三郎
          増賃三銭預り
           (朱書)第七 日光原山内限通用」
と書かれています。
 松江宍道釣銭十五文預      この札の文字は墨書きで 釣銭十五文預とかかれ、印が押してあります。 印にある佐々布(さそう)は宍道にある町名です。「シムチ」は「宍道」のこと。文政元年宍道町町並名前図(お殿様の御成り 近世松江藩主と本陣)に文政時代の宍道町の町並みが掲載され、その中に佐々布屋の名前が何軒か見られます。
 「ハシツメ」は「橋詰」で、ちょうど橋のたもとにある「佐々布屋 権右衛門」が発行した私札かも知れません。この家は回船業を営んでいたと思われますが、現在その跡にはたばこ店が建っています。
 ここでは中世に勢力を誇った国人領主宍道氏の金山要害山の支城であった佐々布要害山城が存在していました。今は遺構が残るだけで案内板などもなく寂れていますが、当時は佐々布氏が中海・宍道湖を内海として活躍する水軍領主としての特徴をもっていたと考えられています。
 安政4年(1857)雲州宇龍浦役所      これは神門郡宇龍浦で発行されていた札です。
 宇龍浦は日御碕から半里と離れていない港で、台風や嵐で船が避難できる日本海側の数少ない天然の良港だったため日本海側の要港となっていました。また、出雲産の鉄の積み出し港で非常に繁栄していたこともあり、戦前は絵葉書も多く発行されていました。
 萩の乱で首謀者とされた前原一誠は、形勢が不利になり東京に向かうべく萩を出港、悪天候でここ宇龍に停泊中捕らえられ、斬首されています。
 ここに書かれている「こやし」とは蝦夷(北海道)より仕入れたニシン肥料のことです。
 松江藩や鳥取藩では江戸時代、肥料、飼料、燃料、屋根葺材料などにするための草を刈る採草地(草刈場)を草山と書いていました。
 
 安政3年(1856) 隠岐蛸木村 地下 薪壱ト半      この札の蛸木村は周吉郡賀茂郷にあった村です。最近まで隠岐郡西郷町加茂という地名でしたが、2004年の市町村合併で隠岐の島町加茂という名前になっています。
札の字は「安政三年辰十二月 蛸木村
     薪壱ト半 地下
     来巳十月限 他村不用六拾文引」
 ここで書かれている「地下」は「じげ」という意味で蛸木村内通用するという意味、「薪壱ト半」はトを〆(しめ)と読みます。
 1〆は長さ1.8尺〜2尺(60cm)の薪木を、高さ2尺5寸(75cm)、幅3尺(90cm)に積んだ量を意味すると記録されていますが、薪を銀に換算し、銀一分半という意味という説もあり、薪を名目に実際には銀札として使用していた可能性もあります。
 この札の期限は「来巳十月限」となっているので、来年(安政4年)の巳年十月までということがわかります。
 また、他村不用なので、蛸木町以外では使用できないと書かれています。
 雲州可部屋鉄山札      この札は島根県仁多郡にあった可部山鉄山で使用されていた札です。
現在の住所は仁多郡奥出雲町(旧仁多町、それ以前は上阿井町)。当時、この地域には奥出雲の4鉄師と呼ばれた家がありました。絲原家・卜蔵家・吉田村の田部家・そしてこの札を発行した上阿井内谷の桜井家です。
 桜井家はたたら製鉄業を営み、屋号を「可部屋」と称し、この札の他に五十五文札、三十五文札を発行していました。
 文化10年(1813)11月22日、伊能忠敬の第8次測量隊が上阿井村可部屋(桜井家)勝太郎宅で宿泊、夜には天体観測(恒星を測定し緯度を観測)もしています。伊能隊が泊まったことからも桜井家は地域でとても有力な家だったことがわかります。
 現在この桜井家の歴史資料は可部屋集成館(島根県仁多郡奥出雲町)に詳しく展示されています。
 奥出雲の4鉄師はその後、大正12年に製鉄業を廃業後も水田地主・山林地主として存続。昭和30年代までたたら用の大炭を家庭用の炭に切り替え商売を続けていました。
 安政5年(1858) 鉱山札 大森銀山 銀壱匁      これは御料所石州銑鉄為替銀融通手形という名称の札です。大森銀山は幕府の直轄地であったため御料所という名前が使われています。
札には「覚 銀壱匁 こうの池 年十月」
 裏面は「手形引替所 たきや三左衛門」と書かれ、「御料所石見銀山」の印が押してあります。
銀山で銀を採掘する鉱夫は一昼夜五交代でした。賃金は一交代に付き銀二匁、この札二枚になります。一交代は約五時間、労働時間は短くても坑内深く入り込むため湿気と毒気により短命の人夫が多かったと伝えられています。当時校内へはサザエの殻に油を入れ、芯に火をつけて手に持って移動していましたが中では風が吹くため火が消え、真の闇になるので缶に入れたマッチも必ず持っていました。
石見銀山で産出した銀は毎年10月頃、大森から3泊4日かけ銀座街道を尾道に輸送、そこから瀬戸内海を通り大坂、そして京都の銀座に運ばれました。ただこの札は、理由はわかりませんが発行されず、この地域で使用していなかったようです。