母里藩



母里藩があった能義郡母里は現在安来市の南、伯太町西母里になり、ここに母里陣屋に藩庁が置かれていました。 藩では文献上、享保年間に最初の札が発行されたと記録がありますが、今のところその札は見つかっていません。
 その後に発行された銀札がこの札です。この札の特徴は亀甲文の透かしが入っていることです。現在のように偽造防止のため入れていたと思われます。

母里藩は一万石の小さな藩で、歴代藩主は参勤交代を行わない「江戸定府」であり、母里には「御館」と呼ばれた陣屋が設けられ、わずかな留守番家臣団が置かれていただけでした。
 この札の特色は使用している紙が着色されていることです。また金額の下には母里の文字が、裏には「大和屋由之助 宇山屋真太郎 富田屋団蔵」と書かれ、亀甲文透かしが入っています。透かしが入っていることでも他藩に比べて進んでいたことがわかります。
 藩は明治3年(1870)、藩士の救済と藩財政困窮のため政府の許可なく札を発行、武士に農地を買い与え帰農させています。許可なく札を発行することは重罪で、藩は相当の覚悟で行ったと考えられますが、その後新政府は明治初期の混乱のためか罰金刑の処分で済ましています。 
 母里藩はその後、明治4年(1871)廃藩置県により母里県となり、後に島根県に編入されました。

額面 表  裏 
 銭五百文預    
 銭百文預    
 銭三十文預    
 銭二十文預  

【母里藩 連番札】
明治2年(1869)7月 銭二貫文預 未完


母里藩には未完成の私札が残されています。印の場所には切り込みが入れられ使用された様子はないので、いずれ連判札にする予定だったものの、何らかの都合で使用されなかったと思われます。
藩札の信用低下に伴い、支障をきたしていた母里藩の人々は私札を発行する必要があったのではないでしょうか。
 明治初期に母里で4大富豪だった方々の名前が残っています(奥野仁兵衛 新屋民助 北垣孫兵衛 木代藤市)。
 この札の裏面に奥野仁兵衛 新屋民助の名前があるように、札の信用を得るため富豪を載せていた、またはその発行に関係していたのだと考えられます。