鳥取藩の藩札・私札


鳥取藩は藩札発行に際して備前岡山藩に役人を派遣、また米子の町民に命じ出雲松江藩の銀子札遣の方法を調査させました。そして延宝4年(1676)10月15日、札を発行します。
 この時、「今後は金銀の通用禁止」「損じ札(傷札)は判形、銀目の書付けがあるものは取り替えること」などのお触れも出されています。
 その後、宝永4年(1707)幕府は藩札の発行を禁止、しばらく札の発行ができませんでしたが享保15年(1730)再び藩札を解禁します。その際、「20万石以上の藩は25年それ以外は15年を期限とする」というお触れを出しています。
 これによりおおむね鳥取藩は25年を区切りに発行、松江藩は15年を区切って発行する体制がとられました。
 札にある「因伯」の文字は因幡・伯耆が近世同一領主によって支配されてきたため、2か国を総称して読んでいた呼称です。
 また鳥取藩の札には享保16年とすべてに書いてあります。これは、他藩に比べて鳥取藩札の発行が早く、札の価値の維持や重みを持たせるために書いていたという考えが一つ。また、幕府はいったん享保時代札発行の許可をしたものの、その後規制を強め新規発行を抑制し始めました。そのため鳥取藩は享保16年の文字を入れ、難を逃れていた可能性もあります。
 札場(当時の銀行)は当初鳥取市丹後町に置かれていたようですがその後、智頭橋横佐分利屋敷に移されています。


鳥取藩が発行した藩札


 発行年 西 暦  概 要  
延宝4年 1676
鳥取県最初の藩札 鶴屋札  
享保16年
1731  イノシシ札  
宝暦4年  1754  改版の上発行 六角印  
宝暦13年
1763  烏札(からすさつ) 白地に黒のため  
安永7年  1778  宝暦札に色彩をつけ再発行  
天明元年 1781  宝暦札が25年満期になり新たに発行  
文化3年
1806  天明札が25年満期になり改判  
天保2年  1831  25年の満期になり改判  
弘化2年 1845  銀五匁札を追加発行  
安政3年 1856  25年の満期になり改判  
明治元年 1868  軍費が必要となり高額の銀札発行