日本地図

江戸時代

年号  表題  日本地図  解 説
 1837(天保8年)  天保再鐫(さいせん)改正日本図    文化8年(1811)発行、天保8年(1837)再刻の日本図です。緯線は数値を記入していますが経線の数値は書かれていません。
この地図が発行される以前、伊能忠敬が第1次測量〔寛政12年 (1800)〕で蝦(え)夷(ぞ)地(ち)南部を訪れ経度を測っていましたが、一般にはまだ公にされていませんでした。
 この図の奥付には初版文化8年、浪華書舗 浅野彌兵衛の名前があります(図1)。長久保赤水第3版の奥付にも文化8年浪華 浅野彌兵衛の名前があり(図2)、同じ年、発行人のため赤水図を参考にこの地図を作成したと思われます。
 1849年(嘉永2年)  大日本国郡輿地全図     これは、国ごとに色分けされた美しい地図です。
 東西方向の緯線、南北方向の方角線、図中4カ所に方位盤を置き「赤水図」の基本形を踏(とう)襲(しゆう)していますが、赤水図と比べると列島の形状の歪み(特に四国・九州)が大きく、緯線も北へ1度分ずれています。地図の上部には江戸から全国各地までの里程の一覧表を載せています。
 この地図の作者、高橋英三雄は高橋三雄という名で様々な絵図を編集・改訂していた地図編集者です。彼は江戸麻布飯倉町四丁目(現在の港区、東京タワーの西側あたり)に住んでいました。
 1862年(文久2年)  日本国郡一覧改正    地図の序文には「全国不過二尺而、寰海(かんかい)之内、城・邑・山・川、歴々可観、謂精且便者・・・」と書かれています。
「全国は二尺(約60cm、この地図の大きさ)に過ぎずして、寰海(世界・陸・海)の内、城・邑(村)・山川・歴々として観(み)る可(べ)し、謂(い)うべきは精にして且(か)つ便なる者なり。・・・」と読み「日本全国を一枚の地図に納め、便利に見やすくしています」という意味です。
 序文の年号、天保甲辰は天保15年(1844)。
 この年は 12月2日に改元されていて弘化元年にあたります。
 1867年(慶応3年)
 銅版 大日本全図    この年、大政奉還がなされ、江戸幕府が終わりを告げます。この地図はその時に銅版で作られたものです。
 地図下には「諸国海路里数大略」が記され、大坂より東廻りでの距離が載せられています。これによると、大坂から紀伊加田(現:和歌山県加太)まで16里、新宮まで65里と書かれています。
 また地図では本州、四国、九州が載せられているものの蝦夷(北海道)は南の一部しかなく、まだ一般には未開の地だったことがわかります。
 地図の題言(序文)は佐藤政(まさ)養(やす)によって書かれました。彼は江戸時代末期から明治初頭活躍した蘭学者と同時に鉄道技術者でもあり、現在山形県吹浦駅前には銅像が建てられています。