その2
小学校4年の頃の僕は本当にすべてが最悪でした。
親父は3交代といって昼に帰って来て、翌日の朝出勤して、その翌日
の昼に帰って来るという労基法も糞も無いような勤務形態でしたので
いつも家にいませんでした。僕は親父が帰って来るのが楽しみで、あ
る夏の日にお絞りを冷蔵庫で冷やして出してあげたら、とても嬉しそ
うな顔をしたので、それからずっと夏休み中、おしぼりサービスをし
てたのですが、ある日、うっかり忘れていて、慌ててお絞りを絞って
冷凍室に入れようとしたら、母親がなんと冷蔵庫の扉の上にお供えの
豆腐を置いており、僕が冷蔵庫の蓋を開けた瞬間に床に落ちてしまっ
たのです。母親は逆上して「この、ごますりのできそこない、おまえ
みたいな奴は生まれて来んかったら良かったんじゃ」と喚いたのです。
僕は、そのまま家を飛び出して、ずっと武庫川の河原でぼんやり川面
を眺めていましたが。1時間ほどして、ふと。。死のう。
ポツリとそう思いました。
”僕なんか生まれて来け〜へんかったら、よかったんや”
実際その頃の僕は本当に出来損ないのような奴でした。もちろん宿題
などした事はありませんし、しょっちゅう喧嘩はするし、気に入らな
い事があると、授業中に先生に食って掛かるし、4年から5年に進級
の時は僕だけ名前を呼ばれなかったくらい、学校中の嫌われ者でした。
どうやって死のうか考えながら、薄暗くなった国道沿いにしばらく歩
いていると、オート三輪が路面電車の線路の上に荷物を落として行く
のが見えました。やっぱ僕は頭が悪かったのでしょう、そのままに、
しておくと電車が脱線してしまうと思ったら何と電車が来るでは有り
ませんか、「どうせ死ぬなら少しは人の役に立つ事をしよう」なんて
変な気を起こしてしまったあの時の僕は、車がどんどん走りぬける
国道2号線の真ん中目指して、飛び出して行ったのです。
荷物も取れたし、電車もなんとも無かったし僕も怪我ひとつ無しで、
めでたしめでたし。「僕みたいな出来損ないでも、役に立つ事もある」
そう思うとなんだか心が晴れ晴れとして来て、意気揚々と家に引き揚
げて帰った時はもう真っ暗で、皆で飯食ってましたが、姉が一人泣い
て食事をしていませんでした。親父は「どこ行っとったんじゃ、この
どあほ。おまえみたいな奴は死んでまえっ」と怒鳴って「わしゃ、お
まえみたいな出来損ないが死んでも何とも無いけどこいつが泣いて
飯食いよらん」と言って顎でくいっと指したのを覚えています。
僕はボロボロと涙をこぼしながら物も言わずに飯を口の中に
ほおばりました。
と、ここまでがゲバラに書いた私信のうち、今残ってるものの全部
です。こんなの発表するにはよそうと思っていたのですが、世間には
ほんのちょっとした心の行き違いが子供の頃の悲しい記憶の残像とし
て心に張り付いたまま、苦しんでいる人がたくさんいるんだと思って。
はずかしながら発表する事にしました。
もちろん、僕のような軽いのじゃ無くもっともっと重い傷を抱えてい
る人も沢山いると思います。でも、僕はこの手紙をゲバラに出した事
で随分と心が軽くなりました。
中学一年の夏には。。僕は本当に阿呆になってるんじゃ無いかと心配
で思わず”一足す一は、二。二足す二は四。。。。”と暗算して出来るか
どうか心配な程になってましたが、中学の頃のお話は止めにします。
おきまりの不良コースをたどったけど、それ程の根性も腕力も無く
中途半端に生きてただけです。
だけど、母には随分ときつい事を言いました。”おんどれ””われ”
とまるでやくざのような言葉使いで母をなじった事を覚えています。
本当に、子供の頃の事を口に出して母親を責めたのは19歳の誕生日の
日だったと記憶しております。いつもの口喧嘩から”兄貴の誕生日は
鯛まで買いやがって、わしの誕生日は小学校四年から忘れたままやろがっ、
ちょっと遅なった位で、じゃかましいんじゃわりゃぁそのまんま忘れとけ、ぼけっ”
なんて調子だったんだと思います。
それから何年も経って、ようやく40歳前後の頃に、この手紙を書いた
のです。それまで年老いた母に優しい言葉をかけてあげる事も出来ずに
いました。今でも似たような親不孝者ですが。
心の中では”おかぁちゃん、ごめんな”って気持ちで一杯です。
ある日父の看病疲れでヘトヘトになってる母に、”わかってるからな”
と一言いったら母は、その場で涙をボロボロ流して両手をあわせました。
僕はゲバラに手紙を書いてよかった。
もしもいつまでも心にわだかまりを抱いたままだったら、母の気持ちが
判っていても口に出す事は出来なかったと思うのです。
そして、とうとう一度もやさしい言葉をかける事さえ出来なかったと
後悔していただろうと思います。
今でも、あんましやさしい言葉をかけてあげたりは出来ません。
それに。。はは。。今ではもうそんな事はありませんが、
女性に好きだと言われても、そのまま信じる事ができないのです。
実を言うと妻にも、いつ捨てられるか心配でならないのか、
良く、離婚を申し渡される夢を見ます。それこそ何度も何度も
そういう夢を見るのです。時には妻と母がいつのまにか夢の中で
変ってしまってる事もあります。
でも、そんな人って結構いるんじゃないかって思いますよ。
少なくとも、映画”Stand by me”の主人公のお父さんが、
主人公に”兄の替わりに、おまえが死ねば良かったんだ。”
と言うシーンを見て大泣きして、涙が止まらなかった経験のある人には
きっと、おおかれ少なかれ胸に痛い思い出があるのかも知れません。
子供は、本来エゴの塊だと誰かが言ってと思います。
親をいつもいつも独り占めにして、自分の方だけを見ていてほしいと、
小さい時は、皆そう思っているのです。
思春期になると、それが少し歪んで、親の事を”うざい。”などと
言ったりします。でも、大丈夫。
ゆっくり、ゆっくり時間をかければ心は少しづつ変わって行きます。
ただ、そうやって本当の意味で大人になり、両親をいたわる
気持ちが育ち始める前に、親を失ってしまった人は本当に
残念だったろうと、思います。
つたない文章だし、はずかしい話だけで本当に苦しんでいる人には何
のお役にも立てないかも知れないのですが。どうか一日も早く、
心に、そういう思いを抱いている人は、その呪縛から逃れる事をあなた
御自身の為にお薦めします。
平成13年9月27日 byめちんこ