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伯耆町文化振興会 視察研修・日南町(’16.11.18) |
伯耆町文化振興会の定例研修ツアーで日南町へ行きました。下の文章は「伯耆町文化振興会会報」
に載せていただいたものです。伯耆町文化振興会は総務部、美術部、音楽部、歴史文化部の4部門があります。私は会員にはなっていませんが、
催しには自由参加で時々出席しています。鳥取県日野郡日南町は鳥取県の最南西部にあり、島根県、広島県、岡山県の3県に隣接しています。
伯耆町役場からは、直線距離で26kmぐらい、道路を通って40kmぐらいで日南町に入ります。 見学中にあちこち写真を撮っていたせいでか、 よく知っている副会長のIさんから会報への掲載原稿を頼まれてしまいました。下に、寄稿した原文を載せました。H29.3に発行された会報に 掲載されたものは多少の添削はあるかもしれませんが、大筋では同じものです。どうか、お読みくださいませ。 |
私が町の文化振興会の視察研修に参加したのは今回で3回目です。1回目はH25.2の鳥取県立博物館 で開催された遺跡関係の展示で、2回目はH27.11の月山富田城址と松江城の史跡見学でした。 日南町は町の面積の90%が森林で、役場の庁舎も昼食をいただいた道の駅「にちなん日野川の郷」も 木が主体の明るい建物です。2016.12.3の新聞に「カーボン・オフセット」の取り組みが載っていました。 全商品に1円をプラスして森林の環境保全に当てているようです。炭酸ガスの削減に努めているのですね。 構内には道の駅では珍しく、電気自動車用の充電器が置かれていました。 この度の研修は「日南町に縁のある文化人の足跡」を尋ねるツアーとなりました。まず、大作家の二人。 井上靖は出生地・旭川、出身地静岡県。戦争中に日南町神福に、奥さんと子ども達家族を疎開させ、 自身も度々この地を訪れています。見学した記念館「野分(のわき)の館」には、原稿や書籍、パネルなどが 展示されており、構内には二つの文学碑が建てられていました。名前の由来となった「野分」は1946年に 発表された詩です。「野分」とは台風に伴う大風のことで、「野の草を強く吹き分ける」と言う意味です。 映画化された作品は大変多く「あすなろ物語」「氷壁」「わが母の記」など35作品もあります。原作が私の 子供時代なので本は殆んど読んでいませんが映画は結構観ていますよ。中でも「氷壁」は信州・穂高岳の 冬の岩壁を舞台にしたもので、ナイロンザイルの切断で繊維メーカーを巻き込んでの社会問題になりました。 松本清張は父親が日南町矢戸の生まれで、幼児期に米子市の「松本家」に養子に出されました。 清張は父親とその故郷に特別な思いがあるようで作品の「半生の記」で述べています。初期は短編が多く、 「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞しています。推理小説のブームとなった「点と線」など、こちらも多くの 作品が映画化され、「張込み」「点と線」「ゼロの焦点」「砂の器」など34作品です。私が高校時代の作品が 多く、原作の小説もたくさん読みましたし、映画もかなり見ています。題名に抽象的なものが多いですね。 父親の生誕地・日南町矢戸に文学碑が建てられています。 二人の文豪には共通点が色々有ります。@芥川賞受賞 A新聞社勤務 B映画化作品数 C生没年代 その他に「日南町美術館」で絵画や古伊万里なども鑑賞しました。映画とミステリー小説ファンの私に とっては、とても楽しいツアーでした。これからも良い企画があれば、参加したいと思っています。 |
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島根県大田市・三瓶小豆原埋没林公園(’16.10.28) |
米子市埋蔵文化財センターの雇用で数年間、遺跡発掘調査作業を行った仲間たちと島根県大田市・
三瓶小豆原(さんべあずきはら)埋没林公園へ見学ツアーに行きました。米子市での発掘調査は国道181号線のバイパス予定地を数年間
おこなってきました。2年前にその調査は完全に終了したのですが、最後まで調査作業に携わった人たち(言わば卒業生)で「同好会」をつくっています。
実は、私はその1年前に伯耆町での発掘調査作業に移籍していて、中退生なのです。特別に声を掛けてもらって、ツアーに参加しました。
島根県大田市は島根県の中部にあり、世界遺産の「石見銀山」、巨大な砂時計などの観光資源があります。 この埋没林も「国指定の天然記念物」になっています。 30年余り前、水田の整備中に直立した巨木が出現したのが始まりです。これは、4000年前 ・縄文時代の三瓶山噴火で埋まったもので、今はそれを包み込むようなドームで覆われています。勿論、周りの土は取り除かれ、直立した木、倒れ掛かって 他の木に寄りかかった木、根周り10メートルもありそうで、迫力満点です。 |
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旅行 V:島根県安来市:月山富田城址&松江城(’15.11.20) |
伯耆町文化振興会の定例研修ツアーで安来市:月山富田城址とこの年、国宝に指定されたばかりの松江城へ行きました。町のマイクロバスでの日帰りミニ旅行でした。 |
月山 富田城は1340年ごろ築城され、1467年の応仁の乱の頃、尼子氏が入城したようです。尼子氏は1566年に開城し、安芸の国へ送られています。
『その落ち武者8人が美作の国で村人に討たれ、その後村人たちが供養のため8つの墓を建てた・・・』というのが横溝正史のミステリー「八つ墓村」ですね。年代はちゃんと史実に則っています。
その後1600年に堀尾氏が入城してその後松江城を建てるのですが、その時に富田城を取り壊し、その廃材を松江城築城にリサイクルしているようです。
このツアーでは余り自由時間が無く、本丸跡へ行くルートが整備中で立ち入り禁止状態だったので、遠くから眺めるにとどまりました。これも仕切り直しで又、行きたいものです。 |
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この松江城(別名千鳥城)が国宝指定となったのはつい最近、2015年(平成27年)のことです。国宝に指定された理由は建築の構造、寄木細工の柱、備品などいろいろな要素がありますが、その決め手になったのは
近くの「松江神社」で発見された「祈祷札」です。これまでも国宝になる要素があったにも拘らず指定されなかったのは「建築年度」の証拠が無かったからです。祈祷札には慶長十六と書かれていて、
札に残っていた小さな釘穴が、松江城の柱に残っていた釘穴と完全に一致したことです。城内の柱は約300本でその3分の1は「寄木柱」です。柱は当然、4面あり、高さもありで小さな釘穴を探すのは大変な作業だったでしょうね。
この柱は入口を入って階段を上がったところ(ここは地階)で、井戸の両側にある柱です。
国宝に指定されたことで見学者は大幅増です。 お城の周辺には「小泉八雲 旧宅」「武家屋敷」「お堀巡りの遊覧船」、代々の城主のお墓がある「月照寺」少し離れた出雲市に「出雲大社」などたくさんの観光資源があります。「松江城」の詳しい内容は このホームページの『観光案内所』から「クリッカブルマップ」、その中の「松江城」をクリックしてください。 |
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旅行 U:福岡市・・島根県石見銀山(’15.11.1〜3) |
昨秋、次兄の法事で北九州へ行ったついでに、福岡市の「ヤフオクドーム」と帰りに島根県大田市にある「石見銀山世界遺産センター」に行ってきました。 |
「ヤフオク」って何の略名か、知っていますか。私は知らなくって、案内役の姪に聞いたら『ヤフー オークションだよ』と、教えてくれました。 後で調べたら文字で書くと「YAHOO! オークション」ということで、どうも、ネット入札販売みたいですね。息子のKENがホークスの大ファンなので行ってみることになりました。 |
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中の日、11/2は法事。3日目の帰りに島根県に向いました。中国道を千代田JCTから浜田道、一つ目の「大朝IC」で高速を降り、そこからは国道、県道などの一般道路です。丁度1時間で石見銀山世界遺産センターに着きました。
此処が「世界遺産・文化遺産」に登録されたのは、2007年(平成19年)7月2日です。石見銀山は鎌倉時代末期の1300年頃に発見され、戦国時代後期から江戸時代前期に最盛期を迎えています。明治時代には銀資源が枯渇し、代って銅の採掘が行われたようです。現在は閉山となっています。
世界遺産センターでは石見銀山の入口的存在で模型、映像、レプリカ、パネルや発掘調査で出土した遺物の展示も行っています。この銀山からの銀は高品質で、世界的評価も受けています。高純度の銀を作るために導入された「灰吹法」により、高品質の銀の製造が行われていました。
「灰吹法」:@鏈拵(くさりこしらえ)銀行関を要石の上で叩いて粉砕し、粒度でより分ける。A細かな銀鉱石に鉛、マンガンなどを加え溶融し、浮き上がる鉄などを取り除き「貴鉛(きえん)=銀と鉛の合金」をつくる。・・鉄は重いようでも銀や鉛に比べると軽いです。 比重は鉄:7.86 銀:10.5 鉛:11.3なので、軽い鉄などの不純物が浮き上がると思います。それと、鉛の融点は327℃、銀は961℃、鉄は1530℃なので、鉛と銀の合金は容易に溶融すると思われます。・・ B貴鉛を多孔質の坩堝(るつぼ)中で骨灰と一緒に加熱、鉛を酸化、蒸発、容器への浸み込み、骨灰への浸み込みなどで分離させ、銀が残る。それを繰り返して銀の純度をあげる。 こんな説明も映像や、動く人形、パネルなどで展示して有りました。本命の坑道や代官所跡、住宅、寺院などは少々離れていて、シャトルバスなどで移動することになります。今回は無理なので、仕切り直しで改めて見学することにします。 |
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6.大久保間歩 | |
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旅行 T:宮崎県高千穂町・大分県竹田市・山口県山口市(’15.4.6〜8)) |
昨年の春、息子のKENにせがまれて、九州〜山口へ旅行に行きました。神話のふるさと:宮崎県高千穂町、荒城の月の城址がある大分県竹田市、帰り道だよ、温泉だ!山口県山口市。2泊3日のドライブ旅行です。KENが行く途中から早々と体調を崩し、ある意味散々な旅でしたが、 「とうちゃん」はしっかり楽しんできました。 |
古事記、日本書紀に記されている「天孫降臨」の起こった土地ですね。天孫降臨:天孫の「ニニギノミコト」が「アマテラスオオミカミ」の命を受けて葦原の中つ国を治めるために高天原から日向国の高千穂峰へ天降ったこと。アマテラスは国の乱れを憂いて天岩戸にお隠れになり、タジカラオが力任せに岩を取り除いた話です。
S34年に東宝映画「日本誕生」でアマテラスが昨年亡くなった原節子さん、タジカラオに当時横綱だった朝汐太郎が演じて話題になりました。 高千穂という地名は古くから在ったようで、今の高千穂町近辺を「上高千穂」 阿蘇の外輪山を含めた地域を「下高千穂」と言ったようです。高千穂町は「西臼杵郡」に属していますが、その北東側、大分県に「臼杵市」があります。大分、熊本、宮崎が一体となっていたようですね。 「高千穂山」は存在していませんが、「高天原」とよく似た名前の「天神原山」が高千穂町の真東、大分県佐伯市(さいきし)にあります。では、探訪画像をどうぞ・・・ |
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春季大祭(西本宮祭)5月2日・3日 秋季大祭(東本宮祭)9月22日・23日 天安河原宮祭10月21日 | |
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この竹田市で過ごした有名人2名を紹介しましょう。まず、日本人なら誰でも知っている「瀧廉太郎」。『荒城の月』や「春のうららの隅田川・・・」の『花』、「箱根の山は天下の嶮(けん)・・・」の『箱根八里』などを作曲しています。廉太郎は1879年(明治12年)東京で生まれ、明治25年、12歳の時に竹田に転宅し、下に表示した
住宅に2年半居住したようです。この岡城址を探検したり、音楽や絵が好きな少年でした。わずか23歳10ヶ月の短い生涯で一番好きな町だったようです。
もう一人は、明治37年に勃発した日露戦争で活躍、戦死した1867年(明治元年)竹田生まれの 「広瀬武夫中佐」です。ロシア艦隊が本拠地としていた旅順港(現在の大連市)を閉塞する戦いの中で乗っていた「福井丸」が魚雷のために沈没し掛けていました。このまま沈没すると敵に機密文書が渡ってしまう 恐れがあって、部下の「杉野」が自爆させに福井丸の船室に向いました。何時まで経っても杉野が戻ってこないので、広瀬は船内を探し回りましたが見つかりません。仕方なく救命ボートに乗り移ろうとした時に敵の砲弾を受けて戦死したのです。部下を思う軍人の魂が発揮されたものとして、戦死後、すぐに少佐から中佐に昇格、「軍神」の 名前を贈られました。この話が唱歌となって、大正元年に「尋常小学校唱歌」として発表されました。作詞は不明ですが、作曲は「岡野貞一」説が有力です。その年の唱歌に載っていたのが「第1学年」日の丸の旗、桃太郎、など。「第3学年」春が来た、など。「第4学年」春の小川、広瀬中佐、橘中佐など、「第5学年」水師営の会見、 など。「第6学年」朧月夜、など。ここにあげた曲名は総て岡野貞一の作曲です。「広瀬中佐」の歌が4年生に理解できたのでしょうか。唱歌と軍歌が入り混じった不思議な編集ですよね。この2年後の大正3年(1914年)に「兎追いし彼の山・・」の『ふるさと』が発表されました。一昨年の2014年が「ふるさと誕生100周年」でした。 わたくし、なぜだかこの「広瀬中佐」の歌を知っています。3番までありますが、1番から3番まで歌詞を見ずに歌えるのです。私の父親、母親が明治30年代生まれで学校で習ったこの歌を子守唄代わりにでも歌っていたのでしょうか? この銅像の後に駐車場があり、瀧廉太郎の旧居がわからなくて車を止めて、外のトイレ掃除をしていたおばちゃんに聞いてみました。「この道をまっすぐ行って、あの店の看板を左に行ったらいいよ、歩いてもすぐだよ」と教えてくれました。銅像を見ていたらなんとなく「広瀬中佐」の歌が浮かんできて口ずさんでいたら そのおばちゃんも一緒に歌いだしたのです。どう見ても戦後生まれ。「なんで、この歌を知っているの?」と聞いたら、「おねえちゃんが良く歌っていたので憶えてしまった」そうです。それだけ竹田の人には浸透していた歌なのでしょうね。
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3.三の丸 4.二の丸 5.本丸 です。建物は明治7年に取り壊されています。全国的に同じように解体され、入札、払い下げられています。 |
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2泊目は山口市の「湯田温泉」に泊まりました。この温泉はむかしむかし、白狐が傷を癒すために入っていたという伝説があり、白狐の群像があり、キャラクターになっているようです。開湯は約600年前、泉質は単純アルカリ性で泉源温度は70℃前後です。
此処に縁のある人たちを紹介します。 種田山頭火は雲水姿で旅をしながら自由率の俳句を作っています。1882年(明治15年)山口県今の防府市生まれ、 荻原井泉水に師事しましたので鳥取出身の尾崎放哉 と同門です。1938年(昭和13年)にこの湯田温泉い「風来居」を結庵しています。ユーモアもあり自由闊達な作風で、句碑の文字は日記からの自筆だそうです。中原中也は1907年(明治40年)ここ、湯田温泉の生まれ、1937年(昭和12年)に亡くなっています。わずか30歳。 詩作は350篇以上で、主題は「喪失感、哀惜、憂鬱 」。子供二人を幼少期に亡くし、精神不安定の時期も有ったようです。主な作品は、詩集「山羊の歌」「在りし日の歌」。「汚れっちまった悲しみに」「また来ん春」などは大勢の作曲家・中でも合唱曲の作曲家「多田武彦」が多くの作品を残しています。 この、詩碑にある「童謡」にも曲が付けられています。もう一人は雪 舟です。室町時代の「水墨画」「禅僧」です。1420年(応永27年)〜1506年(永正3年)ごろ、湯田温泉の開泉と同時期です。山口市の東北側に「常栄寺」があり、其処にに水墨画や「雪舟庭」があります。 わたしが子供の頃から知っていたのは少年時代のエピソード。『お経を詠まずに絵ばかり描いているので、罰として柱に縛り付けられました。涙が床に滴り落ち、足の指でねずみの絵を描きました。それが素晴らしかったのでそれ以後、絵を描くのを許されました』というお話ですが、後の創作という説も在るようですが、幼少から 絵の才能が有ったというお話でしょう。1454年ごろに周防に行き、山口市に「天花【てんげ】」画室を建てたようです。 |
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ユーモラスで禅味溢れる句です。日記からとった自筆です。 | |
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しののめの よるのうみにて 汽笛鳴る。 こころよ おきよ 目を醒ませ。 しののめの よるのうみにて 汽笛鳴る。 象の目玉の、汽笛鳴る。 1933.9.22 | |
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塩谷定好写真記念館・見学(’15.2.19) |
昨年、琴浦町赤碕にある「塩谷定好写真記念館」を見学しました。ここで、古い映画のポスターや雑誌などを展示する企画展が行われることを新聞で知り、映画大好き人間としては見逃せない思いで、見学に出かけました。我が家から1時間程度の、赤碕の海の側にある会場でした。 実は、この塩谷定好(ていこう)という写真家のことは存じ上げなかったのですが、昭和初期から昭和の終わりまで活動されたようです。会場は定好死の生家を改装したもので、江戸末期から廻船問屋として蛭子丸「えびすまる」という北前船で商っていたようです。映画のポスターは主として別館の土蔵を改装した談話室などに展示され、映画の雑誌の多くは本館の2階に展示されていました。 本館は廻船問屋の風格で、螺鈿仕上げの違い棚、通りに面した窓には格子、庇(ひさし)の下には「うだつ」が付けられています。室内には「蛭子丸」の旗なども飾られていました。県の文化財を申請されているそうです。 |
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格子の付けられた窓 | 1950年代の洋画ポスターが飾られています |
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雑誌名が右読みになっているところに古さを感じます | 蛭子丸の旗が飾られています |
我が家のリニューアル・外壁と屋根の塗装 |
2年半前(2012.4〜5月)のことなんですが、我が家を建てて丸11年が過ぎ、外壁や屋根が少しずつ傷んできていました。かなりの出費になりますが、思い切って外壁と屋根を全面的に塗装をしようと思い立ちました。岸本町内の業者にお願いして足場を組み、ネットを張って、痛みの激しいところは
3度塗りになったりしましたが、外壁はぴかぴかになり、屋根は熱戦を反射する塗料にしていただいて、2階や屋根裏の温度が随分下がりました。外気温度との差で言えば塗装前は2階で+2.5℃、屋根裏は+20℃であったのが塗装後は大幅に下がって、2階が+1.2℃、屋根裏は+8.0℃になったのです。 それまでは2階に上がるときに1段ずつあがる度にどんどん暑くなっていたのに、それを余り感じなくなりました。塗装後の夏をもう3回過ごしましたが、随分楽になりました。塗装中も屋根に上がって、今まで見たことの無い景色が見られたのも楽しいことでしたね。 |
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建物全景・足場組み |
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玄関横・写真では目立ちませんが艶がありません。 | ガレージコンクリ部・汚れが酷い | 玄関屋根・表面がかなり剥れている |
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玄関横・光沢が出てピカピカです。 | ガレージコンクリ部・表面のざらざらが消えて、汚れにくいと思われます。 |
玄関屋根・淡いブルーグレーです。 |
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玄関屋根・重ね塗りの最中です。 | 大屋根・下塗りが終わって重ね塗りの最中です。 |
大山ヒルズ見学会・パート3 |
この度は伯耆町誕生10周年と言うことで、町民限定で募集され見事当選しました。このタイトル名は「パート3」となっていますが、私が見学するのは4回目。1回目はペンションを経営していた頃に招待見学がありました。
その時は馬の数も少なく、構内全体がまだ整備中でした。2回目(パート1)が2003年11月のこと。この時は牝馬3冠を取ったばかりの「スティルインラブ」が目玉でした。3回目(パート2)が2006年6月で、その時はGTのNHKマイルカップを勝った
「ロジック」が目玉でした。 この「大山ヒルズ」は北海道新冠町のノースヒルズのグループで、多くの馬が、デビューまでここで調教を受けます。2013年のダービー馬「キズナ」も今年2014年のダービー馬「ワンアンドオンリー」もここで育ちました。 ここには、800m周回ダートコースと800mの坂路コースがあります。大体150頭ぐらいの馬が居て、調教や休養しています。 あさって(10月26日)の菊花賞で圧倒的な1番人気になると思われる「ワンアンドオンリー」は、今、栗東で過ごしています。 「キズナ」は昨年の凱旋門賞、今年の大阪杯に出走し、大山ヒルズで鋭気を養っています。馬見せを期待していたのですが、暴れることがあるので馬房での見学になりました。代わって馬見せの主役は、この夏関屋記念、京成杯AHのマイル重賞を連覇し、夏のベストマイル王 に輝いた「クラレント」となりました。この馬は暴れることは無いようで、無事、馬見せに出てくれました。場内の見学はチーフ・マネージャーの斉藤さんの案内で、1時間余りの楽しいひと時でした。 |
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馬名はまだ付いていなくて、母馬と生まれ年が名前です。父母の血統からダート路線に向いそうです。 | 通算、重賞6勝の実力馬です。11月のマイル・チャンピオンシップ(GT)に出走予定。 |
馬房では斉藤さんから鼻をなでて貰って、とても暴れん坊とは思えない可愛いキズナちゃんです。 |
坂長・賀茂神社の秋祭 |
我が家から1kmほどの所にある、坂長・賀茂神社の秋祭が今年も10月9日に開催されました。この賀茂神社は慶長4年(1599年)、坂長・熊谷に
創建され、寛文元年(1661年)にこの場所に遷されたものです。坂長地区内で国道181号線のバイパス工事が計画され、それに伴って遺跡発掘調査が行われています。調査の結果、1万5千年前の石器、古代の掘立て柱建物跡、郡の役所跡(会見郡衙あいみぐんが)、
鍛冶工房跡、人骨の入った石棺など、たくさんの遺物や遺構が確認されています。古くから坂長には人が多く住んでいたのでしょうね。 賀茂神社秋祭は曜日に関係なく、10月9日に行われます。境内には自治会やこども会が運営する夜店が並び、子供みこしが祭を盛り上げ、 終盤にはビンゴゲームが行われます。この日は、我が家にとって、夕食を作らなくても良い晩なので、楽しく参加しています。江戸時代からの歴史を感じさせる大鳥居、灯篭、水鉢などがあります。年号の読み取れる3つの石塔を 掲載しておきます。 |
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鳥取県三朝(みささ)町三徳山三仏寺投入堂(なげいれどう) |
温泉地として有名な三朝町・三徳山三仏寺投入堂に上がったのは昨年、2013年9月のことでした。少々遅ればせながらご紹介します。この、岩窟にはめ込まれたように建っている投入堂は
近年の研究からは平安末期とされています。現在、国宝に指定されており、この春に「大山隠岐国立公園」に編入されました。世界遺産への登録も目指しているそうです。 この三仏寺は鳥取県中部の倉吉市から、南側にある三朝町〜東に向かった県道沿いに位置しています。 倉吉市から13kmぐらいです。県道沿いの駐車場から投入堂までは、かなりの難所で大人の足で登り1時間、下り50分ぐらいです。 遭難事故も時々起きており、服装や靴には注意が必要です。特に靴は登る前に検査があります。登られる場合は、くれぐれもご注意を。 |
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米子・加茂川お地蔵さん巡り |
NHK鳥取発地域ドラマ『ちょっとは、ダラズに。』がBSプレミアムで1月19日に放送されました。「ダラズ」とは、、「愚か(者)」という意味から転じて、「お調子もの」とか
「チャレンジ精神旺盛で突拍子もないことをしてしまうが、どこか憎めない人。人生を楽しもうとする人」のことを指すようになり、「ダラズもん」と呼んだりしているようです。
ドラマを見た感じでは、『ちょっとは、ダラズに。』は『少しは、頑張り過ぎず肩の力を抜いて。』という内容に思われます。出演は「黒川智花さん」「森昌子さん」「古谷一行さん」たちでした。
ドラマの中に米子の下町の小路にあるお地蔵さんを拝むシーンがあり、全体でも数箇所のお地蔵さんが出てきたのです。米子市の観光ガイドを調べてみると、
「加茂川お地蔵さんマップ」が見つかりました。加茂川沿いとそこから少し離れた寺町あたりにA〜Zまで26体のお地蔵さんがあります。加茂川の長さが2km
ぐらい、寺町も含めて歩く行程は片道4kmぐらいです。遺跡の仕事休みの間の散歩にはちょうどいいかなと思って、お地蔵さん巡りを思い立ちました。
車は最寄の駐車場に止めて、3回ぐらいに分けて、お地蔵さんを撮り歩きました。加茂川沿いの部分は右岸と左岸に代わりばんこにあるので、撮影もはかどりましたが、 寺町あたりでは、かなり探すのに苦戦しました。地図とは道が一本違っていたり、見つからずにぐるぐる探し回ったりで、多分延べ10kmぐらいは歩いたようです。 加茂川は、江戸時代末期には米子城の外堀としても利用されていたようで、水路運搬の役目を果たしていたようです。 このドラマに出演された森昌子さん、今年になって県の観光大使のようなポストに就任されたようです。 話は少し変わりますが、今年は、唱歌「ふるさと」が誕生してから100周年ということで、6月中旬には「森昌子さんのミニコンサート」や、「フォーラム」 、「童謡・唱歌100曲マラソン」なども計画されています。 |
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光明祈願 | 延命祈願 |
仲良し祈願 |
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開眼祈願 | 橋渡し祈願 |
空き巣除け祈願 |
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善行祈願 | 笑い人生祈願 |
建て直し祈願 |
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中海へ向かいます | 児護祈願 |
長寿祈願 |
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開運祈願 | 幸福祈願 |
若返り祈願 |
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平和祈願 | イボとり祈願 |
新転祈願 |
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進学祈願 | 川沿いに有る、水木しげるさん寄贈の「カッパの三平」 |
商売繁盛祈願 |
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円満祈願 | 光明祈願 |
お許し祈願 |
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健康祈願 | 平和祈願 |
児護祈願 |
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橋の向こうが中海(汽水湖) | 良縁祈願 |
加茂川・中海遊覧船は約2時間〜2時間半のコース |
国道181号線バイパス工事 進捗状況 |
米子市五千石地区から山間部を通り、伯耆町坂長、金廻、最後に日野川を越えて、吉定地区まで国道181号線のバイパス工事が計画され、 一部開通しています。この区間はずっと遺跡調査に携わってきたところで、その調査もこの秋ぐらいで完全に終了する見込みです。初めの頃は草刈り をしたり、チェーンソーで木を伐採したり、結構大変な調査作業でした。どの道路もそうですが、最初の地形から道路造成によって全く違った 地形になってしまいます。道路が出来てしまうと最初の地形や環境がどうだったのか思い出せないくらいです。バイパスのための私の作業はもう、この春で終わったので、 今のうちに完成までの進捗状況を残しておこうと思います。 |
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地区の名前は、伯耆町ー(大字)坂長ー(字)村上というように字名を使っています。これが、遺跡調査の際に使われている遺跡名になっていて、 「坂長村上遺跡」というように表示されています。「第6」「第7」「第8」は、多分、遺跡調査の為に付けられた連番だと思われます。「普門寺裏」は、坂長地区にある代表的な寺院で、字名がわからなくて、その裏を調査しているので、そういう地区名にしました。 「次の尾根」も字名不明で、伯楽塚〜ブジラ〜に続く尾根だから、「次の尾根」としました。「金廻崖上」「金廻崖下」も字名不明で、このように名付けました。 |