その1

これは、今から5年位まえ、ふとしたきっかけでゲバラと言う。
友達にあてて送った私信です。
このように皆の目に触れる場所に出すなどとは思いもせず。
ただ、思いつくままにメモ帳向かってにキーを叩いて、
そしてそのままゲバラにメールで送ったものです
はずかしいと言う思いは、それほどありませんが、
登場する人物について、了承を得た訳でもなんでも
ありません。その事がなんとも気がかりですが、
固有名詞はすべて、それらしい仮称に変えてあります。
そこまでして、こんなものを発表して何になるとも思うのですが、
もし、親に愛されなかったと言う記憶を抱えてそれが傷になってる人が
これを読んで、ほんの少しでも傷がやわらげばと、それだけを
思って、おもいきって掲載する事にしました。

          

貧乏とか、金持ちとか、そういう問題はすべて比較の問題だと
思うのです。僕は正直に言って子供の頃、自分ん家が貧乏だと
思った事はありませんでした。それは周囲の環境が多いに影響
してるのだと思います。
僕の家の環境を物語る逸話があります。近所に未解放部落の人
の為の共同住宅(鳥取の県営住宅のようなものです)が出来た
時に近所の在日朝鮮人の人が「部落の者だけ良い目をしてくや
しいので、長谷川さんが中心になって、わし等の為にも住宅を
作ってくれるよう市に話しをしてくれんか」と頼みに来た事が
あります。僕ん家の周りはそんなロケーションなのです。

僕ん家は、僕が小さい頃は借家でした。大家は近所の地主だっ
たようです。玄関を入って玄関の間が2帖、その奥に6帖と、
あとは土間の台所と2帖が3帖の茶の間。風呂は銭湯です。
そこで、家族5人が暮らしていましたが、途中、本家からおば
あちゃんが家出して来て、6人になりました。いろいろ増築し
たり改築したりして、今は間取りも全然変ってしまってます。

ただ、僕の友達は文化住宅と言う要するに1階と2階を別の人
に貸すという品物なんですが、4帖半二間程の所に友達の両親
と長男夫婦、それに長男の子供が2たり、友達の兄弟が3人と
言う、すざましい感じで暮らしていましたし、もっと凄いのは、
母子寮に住んでる奴です。トイレも台所も共同で3帖一間くら
いの所なんですが、市の職員が時々消毒に来てクレオソートを
撒き散らして行くもんですから、なんと言ってもくさかった。
そんな猛者が周りにゴロゴロしてましたので、家についても、
まあ、こんなもんかなって思ってました。

近所の住民構成はいろいろでしたが、確かに医者もいましたし、
市役所の職員や、会社のホワイトカラーも居るには居ましたの
で当時の都市部の住宅環境と言うのは、そんな物だったのかも
知れません。でも、圧倒的に圧延工や旋盤工のような工員さん
が多かったですし、僕の親父もなんたって守衛さんですから、
すくなくとも高級住宅街で無い事だけは確かなように思います。
                                             
僕ん家の向かいの家の裏側は在日朝鮮人の人が住んでおり、
ブンギ、チョンギ、セーボー、モタボー、めーちんこと呼び合って
いましたが、本名だったのかあだ名だったのかわかりません。
セーボーの家は土建屋さんか何かを経営しており、結構金持ち
でしたが、ブンギの家にお父さんがいるのは見た事が無くて、
ブンギは小学生の時から(ブンギは朝鮮小学校でした)新聞配達
をしていましたが、ある日新聞の時間になっても遊んでいるので、
「新聞はあ?」って聞いたら「飯食わずに新聞配ってると腹へっ
て死にそうなので、辞めた」と言ってましたので少なくとも、
そんなに裕福ではなかったのでしょう。
それでも冬になるとオモニ(ハンメだったかも知れません)は、
白菜を一杯買い込んでキムチをおもいきり漬けていましたので、
いつもニンニクと唐辛子のおいそうな匂いがしていましたし、
年に一度くらいは宴会をやって居て家の中からアリランの大合唱
が聞こえて来るような楽しそうな家庭でしたし、
何よりブンギは心の優しい兄貴でした。

友達に屋我(やが)と言う奴が居ましたが、こいつは小学校4年
の時にお父さんが死んで、義理の母は弟だけを連れて家を出てし
まい。毎日、学校が終わると弟を保育園に向かいに行って弟の面
倒を見た後、6時になったら弟を義母の家に連れて行きおばあち
ゃんが、屋台を曳いて帰って来るのをひとりで待っていました。
屋我は奄美の出身だったと思いますが、こいつは良い男でした。
僕がプール下にリンチの為に呼び出しを受けた時、屋我は一人で
ついて来て相手の親分に”俺の友達に何か用か?”と言ってすご
んでくれたんで何とか助かった事があります。向うは十数人手薬
煉ひいて待ってたので一人行ってたら終ってました。

僕ん家の周りには、一番多いのが鹿児島、奄美、沖縄などの南の
国から、来た人。小さい時は田舎と言うのは鹿児島の事だと思っ
ていたぐらい身近にはそういう人が多かったのです。
それから在日朝鮮人の方。あとは未解放部落の人も少し離れた所
でしたが集落を為して住んでいました。



部落の友達が小さかった頃、お母さんの給料日が嬉しくて、親が
止めるのも聞かずについて行ったそうですが、母親が社長の家の
玄関に正座して待っていると、社長が出てきてお金を玄関に投げ
るのだそうで、それを母親と拾い集めて帰る時に、行かなければ
良かったと後悔しながら、泣けて来たと言っていました。
そんな部落の友達の事を朝鮮人の友達が、「あいつの家は夏に行
くと、いっつもパンツ一丁や、あのへんがなあ、わしはちょっと
どうかと思うんよ」なんて言ってるような、そんな環境で育った
もんで、自分の家が特に貧乏だと思った事は一度もありませんで
したが、小学校4年の時、担任の先生が「宿題もせんような人間
は、そんな奇麗な服着んともっとボロの破れた服でも着とけ」と
言って僕のセーターの袖をひっぱたら、しっかり沢山、穴があい
て薄汚れており、先生がしまったって顔をした時、「もしかした
らうちは貧乏かも知れん」とちょっと思いましたが、すぐに忘れ
てしまってました。

うちの長男の範明は、幼稚園に上がる前に、「範ちゃん、もうす
ぐ幼稚園だね」って近所の奥さんに言われ「でも僕ん家はお金が
無いから、行けないかも知れない」と答えたそうで、もちろん、
それは女房の口癖を真に受けたに過ぎないのですが、本当に貧乏
ってのは、比較の問題の過ぎないのだなあってつくづく思います。