その2

                                                        

本当に小さい頃は、両親に可愛がられて育ったんじゃないかと
思っているのですが、どうも病弱だったようで、よくうなされた事
を覚えています。
大きな思いものがぐるぐる回ってたり、吐きそうになりながら、
ニョロニョロと変なものが頭の中を這いずり回っていたりしてた
事を覚えています。そんな時、いつも親父が抱いて寝てくれてた
ようで、そういう役回りだったんでしょうが、父の胸の温かさを
覚えているなんて言うとなんか気持ち悪いですよね。

でも、そしたら何で僕がこんなに自己主張の鬼のような人間にな
ってしまったんだろうと思う事もあるのです。まるでしっかり
自己主張しないと飯にありつけないような環境で育ったようにも
思えます。もちろん、生まれつきそういう奴だったと言うのが正解
でしょうが、飯にありつけなかったと言う訳では無いのですが、
似たような事は3回程経験してますね。

あれは何歳の頃だったか覚えていないのですが、6月15日ではな
いかと思うのです。母親がお供えの料理を作る日で、しかも初夏
だったように思うからです。
小さなアルミの弁当箱にみかんの缶詰を寒天で固めたおやつを作
ってお供えしてたんですが、そのあまりを皆で分けて食べようと
言う事になって一人あたり約1.5cmあてで、最初に兄が食べて、
次ぎに姉が食べて、その次が僕で最後に母と言う順番の約束
だったのです。
なんせお供えでも無い限りそんなご馳走にはありつけませんので
結構皆必死で尻尾をふりふりしてた思います。兄は自分の分を食っ
たら、さっさとどこかへ遊びに行ってしまい。姉は自分の分を食
べた後も、欲しそうに僕の方を見てたんです。そこへひょっこり
おばさんがお参りにやって来て、いきなり「めちんこ、おねいち
ゃんにやり」って言い出したのです。姉は「しめた」とばかりで、
僕は本当にしぶしぶ、「ちょっとだけやで」って言って差し出した
のです。おばちゃんは、「何が男の子が小さい事を、半分やり」
ってな調子で、どんどん仕切り始めました。
でそのおばさんの感覚の半分は母の分も含めた半分。
つまり僕の分の全部だった訳です。僕がはんべそ状態で母にその
小さいお弁当箱を手渡したら、母は半べその僕を横目で見ながら
自分の分を食ってしまいました。結構、おちゃめな奴なのです。
その時になってようやく事態が飲み込めたおばちゃんは、てっきり
末っ子の僕が、お供えの残りを一人占めしようとしてた物と思い込
んでいたようなのです。あとでしっかりおばちゃんから小遣いを
せしめたのでしっかり元は取れてるのですが、その事を思い出すと
今だに、とっても悲しい気分になるのです。本当にめめしい奴だなぁ
と我ながら嫌になります。

幼稚園の初めての遠足も、飯にいやあな思い出があります。母親は
僕に似て(またこの言い回し)出たがりなので、幼稚園のPTA副
会長をやってました。遠足は服部緑地だったのですが、PTAのお
ばさんの一人が昼前になって貧血を起こして倒れてしまったのです。
うちの母はこりゃ大変と、早速その人に付き添って病院に行ったの
ですが、その時、僕の事をうっかり忘れてしまったのです。いつまで
待っても母は帰って来ず。みんなは家族と弁当食ってるし、とても
悲しかったのですが、よく見ると先生の横に母の鞄があるではあり
ませんか、これはてっきり先生に僕の事をたのんで行ったのだと思
い込んだ僕は、母のと同じ模様の先生の鞄を開けようとしたのです。
そしたら先生があわてて思わす「どろぼう」と叫んだ物ですから、
その日は皆に「長谷川どろぼうしよった」と言われるは飯は食い
はぐれるは散々。
もちろん、その時、僕をどろぼう呼ばわりした奴は皆、順番に泣かせ
てやった事は、言うまでもありません。
でも母は、こういう僕の事をまわりの人が可哀相と思うような状況
に追いこまれると、決まって後で僕を思いっきり叱るのです。

小学校4年の運動会の時もそうでした。それまでは兄と一緒だったの
ですが、4年からは僕ひとりなのです。その日は運悪くお供えの日と
重なってしまい。僕は12時半を過ぎても母が来ず、一人でとぼとぼ家
の方に向かって歩きはじめたのです。そしたら通りすぎる親達が僕を
指差して「可哀相にあの子、お母さんにお弁当作って貰われへんねん」
って言うのを聞いて急に悲しくなって、泣きながら歩いていたら母と
道で出くわし、先ほどの見知らぬ親達が、またまた指さして解説を始
めたもんだから母親は激怒してしまいました。

ちょっとした、行き違いを決定的に悪くしたのは小説「にんじん」だった
と思います。「にんじん」は母親に愛されない子の心理を微妙な
タッチで描いた小説です。それを読んだ僕は自分と「にんじん」を完
全に重ねあわせて考えてしまい。「おかあちゃんは僕の事が嫌いなん
だ」って思い込んでしまったのです。
さらに、一月生まれの僕は4年から5年になる時に誕生日を迎える
のですが、その時に母が僕がほしいと言ったプレゼントが気に入ら
ないと言う事で激怒し、そのまま僕の誕生日は19歳の時に初めて
彼女に祝って貰うまで、誰からも忘れさられてしまうのですが。
その事も、にんじんと僕とが重なってしまった理由の一つだったの
ではと、今になって思います。

だから余計に父が大好きでした。でも、この親父がまた分けが解った
ようで、まるでわからんちんの親父なのです。僕がとても可愛いらし
いのですが、それが時々変な風に向かってしまうのです。

僕は兄ともとっても仲が悪かったのですが、それが僕が赤ん坊の頃、
這い這いしながらビスケットの缶に手を出したら、兄が「僕のんや」
と言って引っ張った為、僕は左手に3針縫い目が残る大怪我をして
しまったそうで、その時に父は酷い折檻を兄にしたそうなのです。
それ以来、兄は僕が怪我をすると自分に関係無くても家に帰って来な
かったそうなのです。母はそんな兄をとても不憫に思ったようなのです。
兄はそんな事もあり父をとても恐れていましたから、父の居る日は兄と喧嘩
する事も殆ど無かったのですが、兄が中一の時にたまたま親父の前で
大喧嘩になってしまったのです。兄とは今はとっても仲良しなのですが
当時は犬猿の仲。売り言葉に買い言葉からいつものように取っ組み合
いの大喧嘩になったのです。僕が泣いて親に助けを求めれば、それで
終わりなのでしょうが、僕はそういう風に育っていないので勝てない
までも必死で一矢報いようと向かって行きます。そういう僕の姿を父
はきっと不憫に思ったのでしょう。いきなり僕の首根っこを捕まえる
とボカボカと何発も僕を殴り。そしてその後、兄の方に向かうと僕の
倍以上、兄を殴り始めたのです。例によって兄は泣いてあやまる物で
木魚のバチを持ち出して殴りはじめ、それが折れたら次ぎを持って来
たもので、思わす母が飛び出して兄を庇う格好になってしまいました。

本当に悲しい、行き違いなんですよねえ。僕が兄に殴られたら泣いて
母親の方へ向かえば、兄をそれを追いかけて来て殴るような人間では
ありません。僕が必死で向かって行くもので、兄は弟にだけは負けら
れないと必死だったのです。僕が高校1年の時に殴り合いになって、
僕が兄を殴った時の兄のくやしそうな顔ったらありませんでした。
それ以来、僕達兄弟はそういう喧嘩をしなくなりました。
その時、僕は家を飛び出しましたが、兄の顔を思い出して歩きながら
泣きました。そして二度と兄には手を出すまいと誓ったのです。
しかし、小さい時は圧倒的に向こうが強かった物で、もし、僕が泣け
ば父親も、僕の事をそう不憫に思わなかっただろうに、僕が必死で泣
かずに抵抗するもんだから不憫になって、それが怒りに変ってしまう。
母はそんな兄が不憫で、つい僕に冷たくなってしまう。僕はどんどん
とひねくれて決して泣かない、小憎らしい餓鬼になってしまう。