蝦蟇が仏と言う話  このお話は京都の花岡大学さんと言う方が「根本説一切有部
毘奈耶薬事」第十一の話に基づいて書かれたもので原題は「蟇佛」と言います。
わたしは、紀野一義著「法華経の風光第一巻280頁」水書房から抜粋しました。

(1)

 山がそびえていた。
その山のふもとを、ガンジス川は、ぐっと大きくまわっていた。
ふもとから南に、草原が、はてしなくひろがっている。川は、草原にそうと、にわかに
川はばがひろくなり、川はばいっぱいに水をたたえて、ゆたゆたと流れていた。
 草原は牧場になっていた。
よくこえた黒い牛が、あちこちにちらばって、草を食べていた。
ねている牛も、いる。ひるすぎのひざしは、そんなに強くはない。
それに風があった。風は、ときどき、のびた草の葉を、白くなびかせ、すじになって、
ふきすぎていった。
その草原の、とある草かげに、いっぴきのでっかい(20cmぐらいもあるかもしれない)
蟇(がま)が、岩のように、うずくまっていた。
 すこしみどりがかっているので(まわりの色に、からだの色を、かえることができる
のだ)、まぎらわしいが、よくみると、ぞっとするような、みにくいからだつきをしている。
からだぜんたいが、ぶあつそうな、でこぼこの皮で、おおわれていることも、
大きな口も、その上に、ぎょろっとつきでた目も、きもちがわるい。
それにもまして、なんともぶきみなのは、背中いちめんに、灰色のちいさないぼが、
かさぶたのようについている事だ。
だが、からだのみにくいことは、その蟇の知ったことではない。
人間にみつかると、死にかかるほど、ひどい目にあわされることが、なんべんかあった。
そのたびに、(なんにもしていないのに、なぜいじめるのだ)と、人間をうらんだ。
とくに、しょっちゅう牧場を歩き回っている、山賊のような牛飼いの男を、
おそれ、にくんでいた。
気があらく、いじわるで、なにをしでかすかわからない。人間の中でも、
人間あつかいをうけていないような、おそろしい男らしい。
その男に見つからないように、蟇は、できるだけ、しげった草の根っかたふかくに、
身をひそめながら、しかし今は、その男にたいしても、
すこしもうらみ心を、いだいていなかった。
草かげに身をかくし、おしゃかさまのお話を、そっと聞かせてもらったからだ。
なんべんも聞かせてもらっているうちに、いつのまにかそうなったのである。
そうなったことを蟇はなによりのしあわせだと、よろこんでいた。
まぶたをとじ、じっとうずくまっていた蟇は、まぶたをあけて、ぎろっと目を光らせると、
みじかい前あしをつっぱって、からだをおこし、ごそっごそっと、はいはじめた。
いつもの時間に、なったからであった。
その時間になると、いつもおしゃかさまは、アナンをつれて、川のほとりの道を、おとおりになるのだった。
そして、これもきまったように、そこに、だれかが、おしゃかさまのくるのを、
まちうけていて、ほとけさまのお話を、おねがいするのだった。
蟇はいそいだ。
だが、ごそっごそっとした、のろまなあしでは、なかなか思うように、すすめなかった。
ありったけの力をだして、蟇は、一生けんめいにはいつづけた。


(2)

すでに、おしゃかさまは、アナンをつれて、いつものところまでおいでになっていた。
そして、二人の男が、そのあしのもとにひざまずき、手をあわせているのは、
お話を、お願いしているのに、ちがいない。
 蟇は、あわてて、おこえの聞こえるところまでちかづき、草かげに、身をかくし、耳をすませた。
ちょうどよかった。そのとき、やさしい、おしゃかさまの、おこえが、聞こえはじめた。

「ガンジス川の流れを、みてみてください。今、川のまんなかを、一本の丸太が、
流れていくだろう。あの丸太は、こっちの岸にも、つきあたらず、人にも、とられず、
うずまきにも、まきこまれず、こわれもせず、くさりもせずに流されていくならば、やがて
海にたどりついて、そこでとまることになるだろうね」
「はい」
「修行をする者も、それと、おなじことだよ。あっちの岸、こっちの岸にも、つきあららず、
人にも、とられず、うずまきにも、まきこまれず、こわれもせず、くさりもせずに修行を
つづけていくならば、やがてほとけさまに、ならせていただけるのだよ」
「おしゃかさま」二人の男は、すがりつくような声で、たずねた。
「わたしたちには、こっちの岸とか、あっちの岸とか、うずまきというようなことは、
どういうことかわかりません。どうかわかりやすいように、おきかせくださいませ」
「よしよし、きくがよい。こっちの岸というものは、ものを知るのに、人間がだれでも
もっている、目、耳、鼻、舌、からだ、心の六つをさす。あっちの岸とは、その六つの、
よこしまなはたらきのことで、そんなものに、まどわされてはならないと言うことだ。
人にもとらわれずと言うことは、人とのまじわりから生まれてくる、苦しみや楽しみに、
こだわってはならないと言うこと。うずまきにまきこまれずと言うことは、いつも、ほんとう
のちえを、みがきだすことを、わすれてはならないということであり、こわれもせずとは、
ゆめにもまちがった行いをしてはならないと、いうことだよ。だれでも、そんなふうに、
きびしい修行をしなければ、ほとけさまにはなれないと、いうことなんだよ」

そこまで、お話を聞いたときだった。蟇はとつぜん、背中をなにかで、ぎゅっと、おさえられた。
どうしたのかと思って、上をみあげた蟇は、「あっ」とおどろいて、こえをのんだ。
あのけだもののような牛飼いの男の杖が、のっかっていたからだ。もう、のがれるてだて
など、なにもない。「こんどこそ、殺される」そう思うと、蟇の心は、ちぢにみだれ、とたんに、
おしゃかさまのお話が、聞こえなくなってしまった。
死にたくなかった。
のがれるてだてはないが、なんとかして、にげだそうと、そのことばかり、かんがえていた。