(3)

しかし、よくみてみると、どうもようすがおかしかった。
背中を杖で、おさえてはいるが、牛飼いの男は、そこに蟇がいることに、気がついて
いないらしい。
そこに、でっとはじかってつっ立ち、どうやら、おしゃかさまのお話に、
耳をかたむけているようにみえる。
そんなことってあるだろうか。
へいぜい、おしゃかさまのことを、ばかにして、くそみそにののしってる、
けだもののような男だ。
まちがっても、おしゃかさまのお話など、聞くはずはない。
それでも蟇は、しばらく、注意深く、男をみあげていて、おどろいた。
まちがいなく、聞き入っている。
へいぜいが、へいぜいだけに、その顔つきは、しんけんそのもので、遠くから、
くい入るように、おしゃかさまの、お顔をみつめ、ときどき、うなづきさえしていた。
こんなうれしいことって、あるだろうか。
今けだもののように、気のあらい、ひとりの男が、すくわれようとしているのだ。
ねっしんに、聞き入っているせいで、思わず杖に、力がはいるのか、杖は、つよく
蟇の背中を、おさえつけた。
男は、蟇に、気がついていないのだから、ひょっとしたら、にげだせるかもしれない。
だが蟇は、今は、のがれようとする気など、すっかりなくなっていた。
今、動けば、せっかく、大切な話を聞いている、牛飼いの男の心をみだし、またとない
機会を、うしなってしまうにちがいないからだ。
自分が生きるために、のがれることよりも、いつも、おしゃかさまのお話を、聞かせて
もらってきた自分の、やらなければならないことは、杖の下で、岩のように、じっと
しんぼうしていることだと、思ったのである。
いや、ひとりの人間が、すくわれるのだもの、そうせずにはいられない。
しかし、牛飼いの男の聞き方に、ねつがくわわるにつれて、その杖は、いよいよつよく、
蟇の背中のいぼのあるぶあつい皮に、くいこんだ。
痛い。
だが、ここで、からだを動かせば、もともこもない。
蟇は、大きな口を、ゆがめるようにして、がまんした。
はあ、はあと、はげしくいきずいて、がまんした。
そのとき、「ぷちっ」という、ちいさな音がした。
それといっしょに、背中ぜんたいに、しびれるような痛さ、が走った。
蟇はあぶなく、「痛いっ」と、さけびそうになるのを、やっとのことでこらえた。
杖は皮をやぶって、肉のなかへ、つきささったのだ。
肉は、ぶあつい皮にくらべて、やわらかいせいか、杖はぐいぐいなかへ、くいこむ。
もう、痛いとか、痛くないというような、さわぎではないと、いった方がいいかもしれない。
でっかいからだぜんたいが、くいこむたびに、ずきんずきん痛んだ。
気をうしないそうに、ぼうっとなった。
それでも蟇は、にじり動きもしなかった。
ただ、ぼうっとする心のなかで、けだもののような牛飼いの男を、すくうために、
お前にできる、たったひとつのことは、岩のように、じっとしていることだと、
くりかえし、くりかえし、いいきかせていた。
まもなく、杖は、蟇のからだを、つらぬき、腹の下の土に、ぐさっとはいった。
そして、蟇は、そのみにくいからだを、杖にささえられながら、それっきり、
びくとも動かなくなってしまった。
背中のいちめんの、かさぶたのようないぼいぼは、たちまち色がかわり、
いっそうぶきみであった。


(4)     

こんなとうとい、「死に方」が、どこにあるであろうか。





「めちんこの後書き」


愛する人を守る為、命懸けで戦う姿を描くと言うのは
少年漫画の永遠のテーマであるかのように、
何度も繰り返しそのようなお話が作られています。また映画アルマゲドンの
ように洋の東西を問わず人類を救済する為とか、そういうヒーローのお話は数多く
作られて来ました。しかし、それらのヒーロー達の行動を厳密に分析していけば、
反面、大きな矛盾やエゴを抱えている場合も少なくありません。
このお話は冒頭にも書いてますように、説一切有部によって書かれたものなのですが、
この説一切有部と言うのは、その後小乗と批難された上座部佛教にあたります。
説一切有部は存在の一々を常であるか、無常であるかと分析しました。
私のような無教養な者から見ると論理的過ぎるのでは無いかと思う程、徹底的にそれは
なされました。しかし、それは釈尊の教えを後世に伝えるにあたり、間違えがあっては
ならないと言う思いからではなかったかと想像できます。
正しく、忠実に釈尊の教えを後世に伝えたい。と言う思いが伝わってくるように思うのです。
したがって、この蟇のお話も、無私と言う事について、厳密に定義し分析し、
これほど無私である事は無いと言う事を考えに考えて作られたように思えるのです。
数々の佛教説話には、こういった捨身の話が少なくありません。

妙法蓮華經提婆達多品第十二に

觀三千大千世界。乃至無有如芥子許非是菩薩捨身命處。爲衆生故。

「三千大千世界を見渡すに、ほんの芥子粒のような所でさえ菩薩が衆生の為を
 思いその身命を捨てた場所にあらざる処はない」とあります。


まさしく我々衆生は、蟇の心によって生かされているのです。

しかし、御佛は、さらに退転する事が無いと言います。
つまり、蟇はその死に際して確かに無私であり、確かに仏であった訳ですが、
心と言う現象は本来、常ではありません。
ある時は「この人の為なら、身も心もすべて捧げて、いささかの悔いも無い」と思っても、
次の瞬間には「わたしがこれほどに思っているのに、あの態度はなんだ」
と腹を立ててしまうのが、私のような凡夫の常であります。
しかし、御佛は、そのように心が後ろ向きになってしまう事は無いのです。

では釈尊はどのようなお方だったのでしょうか。
簡単にご紹介できる事ではありませんが、少しでも知っていただく為に、
遺教經の現代語訳を書き込みましたのでご覧ください。