これは松原泰道上人と言うお方が大法輪の記事として書いておられたものを
父親なりに書き移した手書きの原稿を打ち込んだものです。
十分に注意して打ち込んだつもりですが文字に間違いがあるかも知れません。
また、JIS規格に無い文字はひらがな等に変えさせて頂きました。
また、現在はあまり使われない文字には、なるべく読み仮名を振っております。


釈迦牟尼は、成道後直ちに鹿野苑(中印度サールナート郊外)に赴いて、
苦行当時(カピラバーツの城を出てヒマラヤで6年間苦行された)生活を共にした
アニャコダニア(阿若きょう※注1陳如)ら五人の友をまづ教化し、そしておんとし80歳まで遊行行化の明け暮れ、
それこそ一所不在の御生活ののち、最後にスバトラ(須跋陀羅)一人をすくいたまい、
かくて済度すべきものすべてを救いおわりたまい。
沙羅双樹の間にて、まさに涅槃に入りたまひなんとされた。
月あきらかなる中夜万物こえなく寂然として大聖の滅度を迎えんとしている。
釈迦牟尼は、弟子たちに最後の教を説きはじられた。

”おんみらよ、私の滅后に、私がこれまで説いた戒法(波羅提木叉;パディモッサー)を 敬い守るならば、
戒法はおんみらのよき師となるであろう。
闇の夜に光を得たように 生きていくうえですこしも不安がともなうことなどあるべきはずがない。
それは私が生きて来たのと、すこしも変りがないのだよ。” 
”戒法を持つためには、所有欲を慎むこと。燃えさかる火より遠ざかり近よっては ならぬ。
占いや、まじないや、怪しげな薬などを用ひて人々を迷はしてはならぬ。
正しく生きる正命(しょうみょう)の生活を営むように努めるがよい。
禅定も智慧もすべての戒を本とするが故に、戒を守るならば禅定、智慧の徳を生じ、善業に恵まれよう。
戒に背くなら悪業に染まり苦しむ、戒法に随順してはじめて解脱を得られるし、
また安らぎもあたえられるのである。” 

”おんみらよ、つねに眼耳鼻舌身(げんにびぜつしん)の五根を調のへるよう心がけて、
みだりに色声香味触(しきしょうこうみそく)の五欲にふけらぬよう心せよ。
牛飼いが杖を手にして田畑を踏み荒らすのを戒めるように自分を戒めるがよい。
もしも五欲の欲する侭に生きるなら、それはまさに奔馬が荒れ狂ふように、
人は永劫に心の静まるときがなく、苦しみ続けねばならないであろう。
故に道を斈(まな)ぶ者はつねに五欲を遠ざけよと私は云ふのである。
五欲の働きは心に支配されるから、おんみらは、よく心を制禦しなければならない。
心は悪獣や炎火よりも恐ろしい働きをする、たとえば人が蜂蜜を求めるのに夢中になると
心はうわのそらになり、足もとがお留守になって、穴に落ち込むようなもの。
或いは、鎖の切れた狂象や、調子にのってはしゃぎまわる猿のように
手に負えない働きをするのが心だからである。
故に心を放逸にしないように、よく精進しなければならない。”
 ”おんみらよ、飲食するときには、薬を服する心がまえであれ、好き嫌いをせず 量をすごさず、
飢えをいやすをむねとせよ。
供養を受けるときは、多くを求めて 他の信を損なってはならぬ。
蜜を求めて飛ぶ蜂が花びらや花の色やかほりを 少しもそこなはぬのに斈(まな)ぶがよい。
或ひは、よき牛飼いが牛の力量によって程度をはかるが如くし、
分を過ぎた荷を背負わせないようにするのをよくみるがよい。”
 ”おんみらよ、昼は法を求めて励み惰眠を貪ることなく勉めよ。
いまこのときは逝ひて再び帰らない厳粛な事実をみつめよ。
諸々の煩悩は絶えず兇刃を磨いて我等の心の隙をうかがっているのだ、さあ目をさませ。” 
”恥を知ることは、身にまとう最上の美しい着物である。恥を知らぬは裸を衆目にさらすようなもの。
恥をしらない人はすべての功徳を失うであろう、この故におんみらは恥をしらねばならない。
恥なき者は禽獣に劣るであろう。” 

”おんみらよ、他から罵られ苦しめられるなどの迫害をうけても、
決して怒ったり 憎しみの言葉を口に出してはならない。
ひとたび怒るなら、それまで積んだ 功徳の林を憤怒の炎で焼き払う事になる。
忍の徳は戒を持ったり苦行をする以上の功徳がある。
故によく忍ぶことを実行する人こそ人生の達人である。
もし悪罵の毒を喜んで受けて飲みほせないような人は、
達人でもなければ如来の智慧が身についた人とも云へない。” 
”おんみらよ、瞋(いか)りの火はすべての功徳を焼き尽くす。
我が家に瞋(いか)りの火が入らぬように常に防がねばならぬ。”
 ”おんみらよ、自分の頭に手をあてて省みよ、
髪をおろしたのは、すでに 一切の飾りや、名誉や欲を捨てた印ではないか、
もしおごりたかぶる心を 生じたら速やかに是を抑えよ。
慢心を募らせるのは一般世間でも嫌うところ、
況(ま)して道を求め解脱のために 髪をおろしたのになほそれを忘れて
※(注3)慢(きょうまん)の心を起こすは愚かであろう。” 
”おんみらよ、他におもね媚びるは道に違い自他共に欺く行為である。
故に言葉を飾らず、心を偽らず、まことを尽くし質直(しちじき)に生きるよう 心がけるが良い。”
”おんみらよ、苦悩から逃れたいのなら知足の真理を斈(まな)ぶがよい。
足ることを知る人は、よしんば知に臥しても心も身もやすらかであるぞよ。
貧しくても心は常に富んでいるからである。
然し足ることを知らぬ人は、如何に物質に恵まれたゆたかな生活をしていても絶えず不満をかこつ、
心が貧しいからである。 そこで足ることを知る者から逆に慰められ愍(あわ)れまれることになる。”


 「貪りのなかに處して貪らず、極めて楽しく生をすごさん。 貪る人のなかに處して貪らずして住せん」
(法句經119)



注1※=りっしんべんに喬
注2「斈」=「学」というような意味
注3※=りっしんべんに喬 「驕慢」