”おんみらよ、身も心も揺すぶられず、澄んだ大空のように何んらのあともとどめない
安らぎを求めるなら、喧噪(けんそう)を離れて独り閑(しずか)なるところに居て、
苦の本はすべて貪ぼりにある事実をよく思案するがよい。
もし多数の人々と共にありたいと望むと、どうしても多くの悩みに悩まされねばならぬ。
それは、大木に多くの鳥が群がり集まるにも似て、やがて巨木の枝が折れたり、
幹が枯れたりするのではないかと憂ひも生じるであろう。
或は愛欲に溺れ名利にとりつかれると、
老いた象が自分の重さのために泥沼に足をとられ抜け出られないようになるとおなじ、
だから私はここに遠離(おんり)の 教えを語る。”
 ”おんみらよ、常につとめ常に精進するがよい。精進すればこととして不可能ということはない。
僅(わず)かな水でも流れずめに流れてやまなければ、やがて大石に穴をあけるのである。
若しおんみらが暫(しば)し怠るならば何事もことをなし得ない。
あたかも木をすり合わせ火を出させるようにと折角努力しながら、
あつくもならないうちにやめてしまうようなものである。
いま私が精進が欠かせない理由を告げる所以(ゆえん)はここにある。” 
”おんみらよ、よき師、よき友を求め、またよくおんみらを援護する人を欲するなら、
寝ても覚めても、つねに心に信じ、念々に心より生じ、念々に心を離れぬ念じ続ける修行をするがよい。
これを不忘念の教へという。心に念ずるものを持つものは胸に煩悩の賊も入る隙がない。
また如何なる諸欲の悪魔が近寄っても、不忘念の修行をしている人は犯されることがない。
私は、ここに不忘念の大事をおんみらに告げる。” 
              
”おんみらよ、散乱のこころをひとつところに攝(おさ)めようとするなら、禅定をおさめるがよい。
定を修行すると世間に生じる様々な現象の根源がよく察知できるからである。
定を得ると心は乱れなくなる。たとえば水を大切にする農夫が溜池の水洩れに絶えず注意し、
堤の修理を常に留意するように、 修行者も智慧の水が流出しないように、
禅定の力で心の堤を堅めるがよい。 これが禅定の教である。”
 ”おんみらよ、智慧を得ればすべてに障(さわ)りなく、また貪る心も起きないから智慧の心を失ってはならぬ。
この人にして始めてさとりを得よう、深い智慧は老病死のくるしみの海をわたる船であり、
無明暗黒の大灯明であり、あらゆる病人の良薬であり、煩悩の木を伐る鋭利な斧である。
この故に、おんみらは、まさに聞、思、修と三つの智慧をもってするとともに、
さらに進んでこの三慧を啓発するがよい。
もし人に智慧の光があるならば、たとえ肉眼であっても、如来の目のひらいた人である。
これが智慧の教である。” 
”おんみらよ、修行の場にあっても観念遊戲ほど人の求道のここをを乱すものはないから、
修行にいそしむものは、速やかに戲論(けろん)に走る心を捨てるがよい。
もしおんみらが身心のやすらぎを得たいのなら、何よりも戲論の咎をなくすること。
私は不戲論の戒めをとく。” 

”わたしがこれまで説いた教の数々、近くはいま戒めた八大人覚の教の結論としては、 
ただ一心にすべての放逸(ほういつ)を捨て去れということだ。
 私の教の利益(りやく)はすべて究めつくしたのだから。
 おんみらはただひたすらに修行に専念するがよい。
 山の中空谷であれ樹下や静かなる室内であれ、どこにあってもよい、
 授けられた教を念じて決して忘れてはならぬ。
 つねに自ら勉め精進に精進を重ねよ。
 なすことなくしてむなしく死んだなら必ず悔を残すであろう。
 わたしは良医が患者の病を知って薬を説くようなものである。
 薬を服するか否かは医師の責任ではない。
 薬は病人がみずから飲まねばならぬものである。
 よき師が人を善導するのを聞いても、その道を実行しないのは、 師の過誤ではない。”
”おんみらよ、わたしがさきに説いた「苦、集、滅、道」の四諦について、 
疑いがあるなら、今、ここでわたしに聞くがよい。
 疑いを懐いて解決を求めないような愚かなことをしてはならぬ。”
”さあ、早く問うがよい” と釈尊は三度も弟子達に質問をうながされたが、
一人として声を発する者がない。
誰も疑をもっている者がないのだ。