このときアヌルッダ(阿那律)が、心中にすべての人々が疑問を存しないことを察し、
こう釈迦牟尼に申し上げた。

”世尊よ、たとひ世が逆さまになって、涼やかな月が炎となり、熱い太陽が冷える日が来ても、 
世尊の説き給ふ四諦の真理が変ることはございませぬ。
 まことにこの世は苦に充ちており楽土ではありません。 
その苦の根元は、さまざまな煩悩の集まりであります。
 それ以外に(神や悪魔)原因はありません。
 苦が若しなくなるなら、原因が滅すれば、結果もまたなくなります。
 苦を滅亡させる道こそ真の道(八正道)それ以外のてだてはございませぬ。” 

アヌルッダはなほ、お答する。

”世尊よ、ここにおります多くの修行者たちは、みな四諦について、正しい智慧を得て
その教にやすらぎを得て揺るぎませぬ。
 ここにおります者のなかに四諦の理に暗い者がおりましたら、
 世尊の御逝去をみて悲愁の思ひをもつかも知れません。
 然し、須跋陀羅(スバダラ)のように、この日始めて世尊の説法を聞いただけで、
 高い位に達した者もおります。
 それはちょうど暗夜にわずかな光を得て、方角が直感できたようなものです。
 修行者たちが、自分の斈(まな)ぶべき道をすでにおさめ、
 すでに人の世の苦海をわたるものもなほ、「世尊の滅度、何んと速やかなる」と
 思うことでありましょう。”               

アヌルッダが人々はみな四諦の理を完全に得たと答えたが、
世尊釈迦牟尼は、その弟子たちに、なほ一層の理解を深めさせるため、
臨終の苦痛を禅定の力で押え、慈悲のこころをもってまた説き給ふ。

”おんみらよ悲しみ悩むでない。たとひ私が如何に長生きしても、 いつの日にか必ず快別のときは来る。
この道理にはたれもが随(したが)はねばならぬ。
 私の説くところは自利、利他の教であり、それを説き終わったいま、
この徳はおんみらに そなわったのである。
これ以上私がこの世に生きていても何の益があろう。
 私は救うべき者は、みな救った。そしていまだ救われない者も必ず救われる、
との 救いの縁をすでに結んだ。”
”おんみらよ、私の死后は私の教を弟子たちが、次から次へと灯火を継ぐように、順次に伝えてゆくなら、
如来の真理の体は常にあって滅しない。”
”おんみらよ、よく聞くがよい。 この世にあるものは、みなうつり変わって止まることがない。
 ただ精進して早く解脱をもとめよ。
 智慧の光をたかくかかげ、愚痴の暗(やみ)を照らせよ。”
”この世はもろく、そして永遠に不変なるものなど何もない。 私が今死ぬのも、悪病を除くようなものであり、
捨てるべき罪悪のものである。
 私は仮に人間に生まれ、そして老ひ、病み、死ぬのである。” 
              
”おんみらよ、ただ一心に真理の道を求めよ。 世間のさまざまな現象は、
みな滅びゆく不安の様相を示す。 それ以外の何ものでもないのだよ。”

”おんみらよ、   しばし 身体をうごかさず、  語るをやめよ。 
 時が流れてゆく、  私は今、  滅してゆく。

   これが、私の最后のことばである。   ”



 
以上 松原泰道上人が大法輪にお書きになられた「遺教經」です。
釈尊はお腹をこわして、お亡くなりになられたのと言われていますが、
この遺教經は、例えば
”時に大地は震るい、天より鼓が鳴り、道路並木の沙羅双樹はときならぬ真白き花を咲かせ
御遺体の上にとめどなく降りそそぎ続けた”
というようなドラマチックな現象も書かれていない。
あくまでも入念に弟子達に噛んで含めるように丁寧に教え、
御自分の死後も衆生が迷う事なく、心穏やかに暮らせるように
との願いが満ち溢れたお経であると私は思います。

そして最後に、ご自分自身の死を
”私は仮に人間に生まれ、そして老ひ、病み、死ぬのである。”と言い切っておられる。
わたしは、これこそが釈尊の御心であり、佛教の心であると思うのです。
どのように出世しようと、お金持ちになろうと人は誰も生老病死の苦から逃れる事はできないのです。
釈尊とて人として生まれた以上、肉体の死を免れる事は決してないのです。
まして、凡夫の我等が若く美しいうちにポックリ死にたいなどど、そんな贅沢を言ってはなりません。
生まれた以上は、この身がぼろぼろになるまで生きて、そして自分の糞尿にまみれ、
人様のお世話になりながら死ぬまで、
少しでも他の役にたちたいと言う心を捨ててしまってはならないと、わたしは思います。
この世に、不必要なものなど、何も無いのです。

さて、法華経のページですと言いながら一向に法華経のお話になりませんが、
次に宮沢 賢治の詩集「春と修羅」の中から詩を紹介されて頂きたいと思います。