はじめに
めちんこからのメッセージです

人はそう簡単には前のページで紹介した蟇のような心にはなれません。
子供が可愛い、家族が大事って言っても、それって御仏の御心からすれば、
すべて我欲の産物でしかありません。
吾が子も他人の子もすべて御仏の子。
そう頭で理解しても、心は思うに任せず、何かしなければと思っても日常の中に
すべてはかき消され、ただ怠惰な自己を恥じるばかりです。
きょうは、心を入れ替えても明日になればまた日常の中で僅かな金の為に心をみだし、
御仏の心を思い深くため息をつくばかりの人生を40年以上も送って来ました。
しかし、もしかしたら、それで良いのかも知れないと思い始めています。
それでも、夢を捨てきれず、ほんの少しでも良い御仏の御心の方に歩んで行けるなら、
そして死ぬまで、それを忘れずにいたら、それでも良いのかも知れません。
善い行いと言うのは、他の為に行うのではありません。
自分のような卑小な人間が、他の為に何かをしようとしても、
それは廃液の中の僅かな酸素に過ぎず、自分の心は優しくなっても
廃液の中の魚は皆、助かる事なく死んで行くのです。
かえって僅かな酸素が魚達の望みを断ち絶望の淵に追い込んでしまう事さえありうるのです。

しかし、もしも真の幸福と言うものが、この世にあるのなら、
それは、決してあきらめる事なく、涙を一杯流しながら恐怖に膝をガクガク震わせ、
廃液の中の魚達に為に、何かをしようとした心の中にこそ有るのでは無いか。
もしも、皆がそのような心で生きて行くのなら、それこそが真の幸福なのでは無いか。
他の衆生のことを考えよかれと思って行動する事そのものが幸福なんだよと、
自分自身も心から信じ、人にも薦める事が、
法華経の信者として、自分自身が行うべき唯一の大事だと、今はそう思っています。

賢治は、その死の直前に遺言して、友人知己に法華経を贈りました。
そして、その奥書に、
「私の全生涯の目的は此の經をあなたのお手許に届け、そしてその中にある
 佛意に触れて、あなたが無上道に入られん事をお願いするの外ありません」
と書き添えたのです。
賢治の触れてほしかった佛意とは、どのようなものであったのか、
法華経の奥底に流れる佛意とは、どのようなものであるのか、
それは私ごときが説明するような事では、ありません。
あなた自身が自分で感じるものであります。
しかし、なんとなくでも、もしかしたらこれは私独りの思い過ごしかも知れないけれど、
そういう物に触れて興味を持って頂きたいと、それのみを願ってこの
法華経の頁を作成いたしました。

それでは長くなりましたが賢治の「無声慟哭」と「永訣の朝」と言う詩と
紀野一義師による解説をお紹介いたします。





紀野 一義 著 法華経の風光第一巻「光ながるる」
第二章「法華経をめぐる人々」
第九節「宮澤賢治」より
昭和51年6月30日 水書房 発行

                              
無声慟哭 

大正11年11月27日、賢治の妹、とし子が死んだ。
みぞれの降る寒い日に、25歳の若さでこの世を去った。
妹とし子は、賢治にとっては故里の町でのただひとりの理解者であった。
賢治の考えていることをいささかも疑わぬただひとりの人であった。
賢治はこの妹を看病するために、東京での生活の一切をなげうって花巻に帰って来た。
それだけに賢治の受けた打撃は計り知れぬほど大きかったろうと思われる。
しかし、この衝撃・悲哀・苦しみ・動揺の中から、珠玉の絶唱「無声慟哭」「永訣の朝」
「松の針」などの詩が生まれ、さらに、日本人がかって歌い上げた挽歌(死者を悼む詩)
としては、恐らく柿本人麻呂以来はじめてあらわれたと言っていいほどに壮麗で長大な
悲歌「青森挽歌」「オホーツク挽歌」「噴火湾」などの詩が生まれて来た。
愛する人を失った深い悲しみの中から、人間の書き得たもっとも美しい悲歌が
生み出されてきたということは、なんともいいようのない矛盾であるし、悲劇であるが、
法華経の人生感ではそれがそのまま実相なのである。賢治は法華経の中でたびたび
「諸法実相(ありのままの中に人生の真実がある)」という考え方に出会い、そんなことが
あるだろうからと迷ったり悩んだりしたことであろう。その問題が「妹の死」という、
もっとも衝撃的な形で賢治の前にぶつかってきたのである。
妹の死に直面した27歳の賢治は、人間の精神の二重構造に悩んでいた。
賢治は一面では、全宇宙にひろがる壮大な生命感を持って生きていた人である。
大正15年に書かれた「農民芸術概論」の一節には、
「・・・・・おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園と
 われらのすべての生活を一つの巨きな第4次元の芸術に創りあげようでは
 ないか・・・まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう」
と言ってる。こういう壮大な生命感を賢治はたしかに持っていただろうと思う。
しかし、こういう壮大な生命感は二六時中つづいているわけではない。
そんなことは不可能である。そんあことがあれば人間はすぐに死んでしまうだろう。
こんな壮大な生命感を持った人は、すぐそのあとに、卑小な、みじめな人間に
逆戻りした自分を発見して、うちのめされたりするのである。生命感の充実が
大きければ大きいほど、そのあとにくる苦しみも悲しみも深い。
そういう感情の振幅の一番烈しいときに、賢治は妹の臨終に直面したのであ
る。