無声慟哭

こんなにみんなにみまもられながら
おまえはまだここでくるしまなければならないのか
ああ巨きな信のちからからことさらにはなれ
また純粋やちひさな徳性のかずをうしなひ
わたくしが青ぐらい修羅をあるいてゐるとき
おまえはじぶんにさだめられたみちを
ひとりさびしく往かうとするか
信仰を一つにするたったひとりのみちづれのわたくしが
あかるくつめたい精進のみちからかなしくつかれてゐて
毒草や蛍光菌のくらい野原をただよふとき
おまへはひとりでどこへ行こうとするのだ
( おら おかないふうしてらべ )
何といふあきらめたやうな悲痛なわらひやうをしながら
またわたくしのどんなちひさな表情も
けっして見遁さないやうにしながら
おまへはけなげに母に訊くのだ
( うんにゃ ずゐぶん立派だぢゃい けふはほんとに立派だぢゃい )
ほんたうにさうだ
髪だっていっそうくろいし
まるでこどもの苹果(りんご)の頬だ
どうかきれいな頬をして
あたらしく天にうまれてくれ
( それでもからだくさぇがべ )
( うんにゃ いっこう )
ほんたうにそんなことはない
かへってここはなつののはらの
ちひさな白い花の匂でいっぱいだから
ただわたしはそれをいま言へないのだ
( わたくしは修羅をあるいてゐるのだから )
わたくしのかなしさうな眼をしてゐるのは
わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ
ああそんなに
かなしく眼をそらしてはいけない



                 
「わたくしのふたつのこころをみつめてゐるためだ」
と言う一句がこの長い詩を解く鍵になっている。
当時の賢治は、信仰の純粋性を失い、
他人のしあわせのためにひとつずつ小さな徳を積んで行く
と言う事もなくなり、いろんな誘惑に直面し、
全く自分でもどうしようもないところに追いつめられていたのだろう。
そんな自分のことを賢治は「青ぐらい修羅」と呼んでいる。
そんな賢治の心を見すかすように、とし子は「わたしは恐いような顔をしているでしょう」と、
賢治のどんな表情も見逃さないようにしながら、母に訊ねている。
「そんな事はない、今日は立派な顔をしている」というと、「それでも体は臭いでしょう」と
斬りつけるように問い返してくるのである。
とし子は兄さんの口から「何も心配することはない。死んでも仏のいのちに帰るのだ。
暗いところへ行ったりするんじゃないのだ」と力強くいってほしかったのだ。

「寿量品」の自我偈の最後の一節


「我は常に、衆生の、道を行じたると、道を行ぜざるとを知りて、度すべきところに随って、
ために種々の法を説けり。つねに自らこの念をなす、
『何を以てか、衆生をして無上道に入り、速かに仏身を成就することを得せしめん』と。」
(平楽寺431頁)


というあの一節が、さし迫った思いで思い出されていた。
「どうやって衆生を無上道に入らせるか、どうやって衆生も仏身を得させるか」ということは、
「どうやって死んで行く妹を安心させるか」ということにほかならない。
賢治は妹の魂が立派な美しいものであることを信じている。
「青森挽歌」の中では、あいつはどこへ堕ちようともう無上道に属してゐる
力にみちてそこを進むものはどの空間にも勇んでとびこんで行くのだ
といっているくらいである。しかし、そう信じるというだけでは、この場合どうしようもないのである。
そう信じているのなら、それを妹にいわなければならない。
それを妹に納得させ、安心させなければならない。
妹からいえば、死んでのち仏のいのちの中に帰ること、無上道に属すること、
そのことがたとえ信じられても、死に臨んだ人間の心理としては、それをもう一度、
自分の信じている人間、つまり、賢治の口から力強く告げてほしかったであろう。
「信」というものはそういうものである。だから、兄の顔を凝視するのである。だからわざと、
兄を脅やかすようなことばを口にし、「それでは体は臭いでしょう」と突き刺すように云う。
 臭いどころか、この部屋には夏の野原の小さな白い花の匂いがいっぱいだと賢治は思っている。
しかし、それを口に出してはいえない。それは、とし子の臨終が迫っている証拠かも知れないからである。
大乗の菩薩が死ぬときには紫雲がたなびき、異香が漂うといういいつたえを賢治は思い出していた。
「花の匂いがするのだよ」といえば、それはそのまま「おまえはもう死ぬのだよ」ということになる。
そうなればすぐつづいて、「おまえは死んでも仏のいのちに帰るのだよ」と云わなければならない。
しかし、迷っている青ぐらい修羅である賢治にはそんなことは云えない。
この迷っている兄の姿を見て、妹は悲しそうに眼を外らし、賢治は、
ああそんなに かなしく眼をそらしてはいけない
と心の中で絶叫するのである。