永訣の朝

この異常な烈しい心のぶっつけ合いは、どうしても爆発するところまで行かずにはすまない。
とし子は、いきなり、枕元にあった二つの欠けた陶椀を賢治の胸元に突きつけて、
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と叫ぶ。「雨雪を取って来てちょうだい」と叫んだのである。
この陶椀には青い蓴菜(じゅんさい)の模様がついている。小さいときからこの兄妹は仲よく
この二つの陶椀でご飯を食べてきた。この欠けた陶椀は兄妹の変らぬ愛情の象徴なのである。
その時賢治は、曲った鉄砲玉のように、あっちへぶつかり、こっちへぶつかりしてやっと
戸口から外へ飛び出した。
暗いみぞれの中に立って初めて賢治は、妹の真意をさとる。
このまま妹が死んだら、賢治は生涯返すことのできない負債を負うことになる。
妹さえも安心させ得なかった者がどうして他人をしあわせにできるかという思いが生涯つきまとう
ようになる。そうさせないために、兄の一生を明るいものにするために、泣くような思いで
妹は陶椀を突きつけたのだと、賢治はみぞれの中でさとるのである。かれはこう歌った。




けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはぴちょぴちょふってくる
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといういまごろになって
わたくしをいっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを・・・・・・



                              
こうして賢治は、二つの御影石の置いてある場所へやって来て、その上に危く立ち上る。
それから手を伸ばして、松の枝に降り積んだみぞれを二つの陶椀の中にそっと移し入れる。
みぞれ、それは雪でもなければ、水でもない、雪と水との二つの相を持ったもの、
いいかえると、天上的なものと地上的なものとの二相系を保っているものである。
これこそ死んで行く妹にふさわしい食物といえよう。
賢治がこの雪のようなみぞれを取ろうとした時、それはもう、どこを選ぼうにも選びようがないほど、
どこもかしこもまっ白であった。どこもかしこも仏の世界であったといっていい。
あんなに恐ろしい乱れた空から来たとは思えぬほど純白な雪の姿であった。賢治はそれをこう歌う。



・・・・・・・ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまう
( Ora Ora de shitori egumo )ほんとうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびょうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ



                              
 賢治はこの二椀の雪を妹のところへ持って行った。
「これを食べれば、おまへは安心して仏さまのところへ行かれるのだよ」という思いをこめて、
この雪を妹に食べさせたのである。その時、とし子はこう云った。




うまれでくるたて
こんどはこたにわりゃのごとばかりで
くるしまなぁよにうまれでくる


(また生まれて来るのなら、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれて来る)
「今度生まれて来る時は、こんなに自分のことばかりで苦しまず、
ひとのために苦しむ人間に生まれて来たい」
と云うこのけなげな妹のために、賢治は祈らずにはいられなくなる。




おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率(とそつ)の天の食に変って
やがておまへとみんなとに
聖い資糧をもたらすことを
わたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ



二椀の雪を妹にもたらした賢治は、もう、曲った鉄砲玉のように飛びだした賢治とは違う。
迷える修羅ではない。修羅は修羅ながら、すでに仏のいのちを生きている修羅であった。
生死の迷いをみぞれの中に払い落としてきた兄からうけとった二椀の雪は、
賢治の祈りを待つまでもなく、もうすでに兜率天の百味の飲食(おんじき)であった。
法華経の開経といわれている「無量義経」の中に


「善男子よ、第三にこの経の不可思議の功徳力とは、もし衆生あってこの経を聞くことを得て、
 もしは一転、もしは一偈乃至一句もせば・・・・・・煩悩ありといえども煩悩なきがごとく、
 生死に出入すれども怖畏(ふい)の想いなからん。
もろもろの衆生において憐愍(れんみん)の心を生じ、
一切の法において勇健(ゆごん)の想を得ん。壮んなる力士の、あらゆる重き者をよく担い、
衆生を担い負いて生死の道を出だす。未だ自ら度すること能わざれども、すでによく彼を度せん」

(平楽寺36頁)とある。
法華経の教えによれば、法華経を信ずる者は、自分自身はまだ苦悩の彼岸に渡っていなくても、
ひとを向う岸へ渡すことはできるのである。
賢治は、妹の信と愛によって、無畏の境地に入った。妹の死の恐怖を払いのけて、
安らかな静かな臨終を迎えさせることができた。
やさしく青白く燃えていた修羅乙女は、やすらかに仏のいのちに帰したのである。
賢治はたしかに、このときは、妹のいのちが仏のいのちに帰したと確信したのである。
しかし、妹の死のあとに来たさびしさは骨身にこたえるものであった。
たまりかねた賢治は、山野をあるき、青森に行き、津軽海峡を渡り、
北海道に行き、オホーツクの海を眺めながら、
妹の魂を追い求めている。そのひとつひとつが長大な挽歌となった。
そのひとつひとつが胸を刺すように痛い詩なのである。
仏のいのちに帰したと信じているのになぜ妹の幻を追うのか。
それが修羅の修羅たるゆえんかもしれない。しかし、人間にはそんなところがある。
亡くなった妻の骨をいつまでも自分の部屋に置いている夫はたくさんいる。
諦めていれも諦められず、知ってはいてもどうにもならず、さとっていても迷うのだ
というところが人間にはある。
法華経というお経をよく読むと、人間がそういう二重の構造を持っているんだなあ
ということがわかってくるようになる。
そのことに一番よく気がついていたのは道元禅師で、「正法眼蔵」の「法華転法華」の巻を見ると、
そのことがくりかえしくりかえし説かれている。
賢治は情の深い人である。道理がちゃんとわかっていた人であるが、
情はそう簡単に人生を割り切ることを許さなかったのであろう。

賢治は昭和八年九月二十一日の午後一時三十分に亡くなった。
一時ひどかった病気が持ち直して、これならとみんなが愁眉をひらいたのに、
九月十七日から始まる三日間の花巻の祭のときに
御神輿を拝むといって無理をし、二十日には容態が悪化した。
それなのに肥料設計のことで
宮沢先生にお目にかかりたいという人が訪ねてくると、
どうしても会うといって衣服をつけて玄関でその人の話をきいた。
次の二十一日の朝はもう医者が首をかしげるほどに悪化し、
とうとうその日の午後に亡くなってしまったのである。
しなくてもいいことをして病気をひどくした、といわれても仕方がないようなことである。
しかし、賢治という人はそうせずにはおれなかった。
そうするように促す力がいつも賢治をかり立てていた。
それを他人がどうのこうのということはできない。
人間はそれぞれに定まった道を歩くのである。
どうにかしたいと思いつつ、やはり歩かぬわけには行かぬのである。
しかし、賢治は法華経の促しに随って生き、そして死んだ。
その生涯は法華経とともにあった。忘れられぬ人である。