私のブログ『邪馬台国と面土国』

 高天が原神話 その1

天照大神は卑弥呼、スサノオは面土国王だ

白鳥庫吉の考え

『日本書紀』はあからさまに卑弥呼は神功皇后だとしているが、これには『古事記』『日本書紀』が編纂された当時の政治的意図が働いている。それを要約すると当時整備が進められていた律令制が、神話の「天壌無窮の神勅」に優先するとされているのだと思う。

律令制以前の統治形態は氏姓制だが、それ以前の弥生時代は部族が王を擁立し、擁立された王が宗族を支配する部族制だったと考えている。それは卑弥呼の例が挙げられるように祭事と政事が一致するものだった。

倭人伝によると戸数千〜三千の小国と二万〜七万という大国があり、大小三〇ヶ国で女王国が形成されていたが、戸数千〜三千の小国は後に律令制の郡になるようだ。

この小国を部族国家とし、女王国を部族連盟国家と呼ぶのがよいと思っている。邪馬台国、奴国、投馬国などの大国は部族国家が統合されたもので、政情の変化によっては元の部族国家に分裂する性格があると考えている。

266年の倭人の遣使を契機として神武天皇の東遷があり、おそらくは270年代に大和朝廷が成立して氏姓制に移行するが、部族は解体され大和朝廷支配下の氏族に再編成され、また部族国家は氏姓制の国郡に再編成されると考える

神話では部族国家が統合されて部族連盟国家の女王国が形成される経過が、いわゆる筑紫神話として語られている。各地にあった部族連盟国家が統合され大和朝廷が成立する経過は日向神話・出雲神話・神武東遷に語られている。

神話には荒唐無稽の物語が多く史実ではないように思えるが、神話について白鳥庫吉は明治43年に発表した『倭女王卑弥呼考』で次のように述べている。原文は文語体だが口語体にしている。

そこで八百万の神たちは天の安の河原に集まって、大御神を岩戸から引き出し、ついで素戔嗚尊を追放したところ、天地はふたたび明るくなった。ひるがえって『魏志』の文を考えると倭の女王の卑弥呼は狗奴国の男王の無礼なことを怒って、長い間これと争ったが、その暴力にたえられず、戦の最中に死んだ。そのため国の中は大乱となり、一時男子を立てて王としたが、国の人々はこれに服従せず、たがいに争闘してその数、千余人を殺した。しかしその後女王の跡つぎの女子の壱与を王にすると、国中の混乱はすぐに治まった。これは地上で起きた歴史上の事実で、それは天上で起きた神話の上の出来事だが、その状態の酷似することは、誰であってもこれを認めないわけにはいかない。

白鳥庫吉は卑弥呼の死の前後の状況と、天の岩戸の神話がよく似ていることを「その状態の酷似すること、何人も之を否認すること能はざるべし」と言っている。確かにその通りで神話は創作された物語ではない。

だが白鳥庫吉は面土国を伊都国のことだとしている。伊都国は「女王に統属す」とあるから、天照大神と対立するスサノオの性格と合わない。そこでスサノオは女王国と対立する関係にあった狗奴国の男王だとしたのだろう。

スサノオはイザナギから海原を統治するように命ぜられるが、母のいる根之堅洲国に行きたいと言って泣いてばかりいたので、追放されたことになっているが、根之堅洲国は奴国であり母のイザナミは奴国王だ

大乱以前の70~80年間の男王は面土国王であり、卑弥呼に譲位した面土国王は「自女王国以北」の諸国をあたかも州刺史の如くに支配するようになるが、卑弥呼は共立されて王になった仮の王であり、本来の王は面土国王だと思っている人々がいたと考えるのだ。

そのため卑弥呼の死後に千人が殺される争乱が起き、台与が共立されるが、倭国大乱も卑弥呼死後の争乱も、銅戈を宗廟祭祀の神体とする部族と、銅矛を神体とする部族の対立だった。面土国王は銅戈を祭る部族に擁立され、卑弥呼は銅矛を祭る部族に擁立されていた。

3世紀にも面土国が存在しており、倭人伝に「如刺史」とされているのが面土国王であればどうなるだろうか。スサノオを面土国王とすれば倭人伝の記事と神話はますます似てくる。下表は倭人伝中の人物の特徴と神話の神に似ている点のあることを表そうとしている。

図の神統は実際の血縁関係というわけではなく、女王国内の当時のパワーバランスだ。図は『日本書紀』によるものだがイザナギとイザナミ、および天照大神とスサノオは対立していたように描かれている。

またタカミムスヒとオモイカネが別の勢力を形成していたようだ。女王国は3勢力がしのぎを削る状態にあったが、それが形になって表れたのが卑弥呼死後の争乱だと見ることができる。

安本美典氏はタカミムスヒの子の万幡豊秋津師姫を台与だとしているが、私もそのように思う。図を見れば対立する3勢力に対する台与の立場が理解できる。『梁書』『北史』に見える台与と並び立つ男王はホノニニギだろう。

図の中に倭人伝中の主要人物のほとんどが入っているが、伊都国王と一大率が入っていない。伊都国王は天鈿女であり一大率は猿田彦のようだ。伊都国は田川郡だと考えているが、田川郡では「猿田彦大神」と刻まれた石碑をいたるところで見かける。(猿田彦)

天鈿女は猿女君の始祖とされる神だが、猿女君は鎮魂祭の演舞や大嘗祭における前行などを執行した猿女を貢進した氏族で、他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対して猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。そのために神話では伊都国王が女性とされている。

57年には奴国王が遣使し「漢委奴国王」の金印を授与されているが、これがイザナミのようだ。イザナミは火の神・可具土を生んだために死ぬことになっているが、これは107年の面土国王の遣使の直前に奴王家が滅んだことが語られている。(火の神、迦具土 その1)

通説では須玖岡本遺跡の主は奴国王だとされている。しかし福岡平野は奴国ではなく邪馬台国だ。戸数七万の邪馬台国は前漢時代に存在していた百余国の内の何ヶ国かが併合されたものだ。須玖岡本遺跡とその周辺もそうした国のひとつと見るのがよい。

神話はその国を橘小門之阿波岐原としているようだ。その国の王を那珂海人の王と呼ぶのがよいと思うが、イザナギは那珂海人の王のようだ。

現在の須玖岡本遺跡は那珂川、三笠川の沖積が進み埋め立てが行われて海岸線から遠くなっているが、当時は海岸線から二キロほどだったと言われている。その那珂川と三笠川に挟まれた陸地の先端に、後世には住吉神社が創建され、その近くには警固神社がある。ここが那珂海人の活動する場所だ。

表には『日本書紀』第4段第十の一書だけに見えて他の書には見えない蛭児を加えている。巫女の下す神の託宣は意味が理解できずそれは巫女自身にも理解できない。そこでこれを通訳する者が必要だった。これを審神者(さには)という。

卑弥呼の居所には飲食を給仕し、また辞を伝える(伝言する)ために、一人の男子が出入りしているだけだった。この男子が審神者で、さらには飲食の給仕までしていたと考えられる。卑弥呼の周囲には婢千人が居て、武器を持った兵士が守衛する宮殿の中で、この男子一人にすべてを依存して生活していたようだ。

この男子については卑弥呼の影の夫であろうという穿ったことをいう者も居る。巫女は独身であることが求められるから二人は夫婦ではない。卑弥呼の居所に飲食を給仕し、辞を伝えるために出入りしている男子は審神者だ。

この男子を卑弥呼の弟と見る説があるが、文脈からみて無理がある。卑弥呼の弟がツキヨミであるのに対し、卑弥呼の居所に出入りしている男子はヒルコ(蛭兒)と見るのがよい。

蛭兒は三歳になるのに脚が立たなかったので、船に乗せて捨てたとあるが、ヒルコについては不具者(神)とする説と、神事を行う男子と見る説がある。天照大神の別名を大日霊女貴というが、第七段の一書には稚日霊女尊という神が登場してくる。

神事に携わる女性をヒルメというのに対し男性をヒルコと言っているのだろう。狗奴国の男王の名は卑弥狗呼とされているが、これはヒミクコではなくヒコミコを聞き誤ったもので、神事に携わる男子が王であることを表しているのだろう。

津田左右吉の考え


この白鳥庫吉の考えに反論したのが、白鳥とは師弟の関係にあった津田左右吉だ。『津田左右吉全集』別巻序文に二人の間に論争があったことが述べられている。論争は決着しなかったようだが、津田左右吉は次ぎのようなことを言っただろう。


ところが支那の文献に見えるこれらの記事は記紀によって伝えられている神話の物語とは、何の接触点もなく、まったく交渉のないものである。(宋書以下の歴史書にみえる倭は、同じく倭と記されていても、それは記紀の言い伝えと対照できるから、その性質が違う)実際に『魏志』によると三世紀のツクシ地方は政治の上で、それより東方の勢力に服属していないことが明らかであり、そうしてこの状態は、さかのぼってはすくなくとも後漢時代、つまり一、二世紀にも、また下がっては少なくとも、邪馬台の勢力が晋に貢物を献上していた時、つまり三世紀の終わりに近いころまで同じだったと考えられ、その考えがまちがいだという証拠はなにもないから、この地方は三世紀より前にヤマトの朝廷によって統一された国家の組織にはいっていなかったと見なければならず、それは支那の文献の記事と記紀の物語とがたがいに交渉のないものである、という事実に応ずるものである。

支那の文献はここでは特に『魏志』倭人伝が意識されている。宋書以下の歴史書に見える倭とは、いわゆる「倭の五王」が宋(420〜479)に朝鮮半島の支配を認めさせようとした時代以後という意味だ。

倭の五王の時代以後は『古事記』『日本書紀』の物語と中国の文献とを対照させることができるが、それ以前は対照させることができない。したがって神話の物語とは何の接触点もなく、まったく交渉のないものだというのだ。

津田流論法でよく理解できないが、那珂道世が『上世年紀考』などで、神武天皇の即位、つまり大和朝廷の成立を紀元前後としていたことを問題にしたいようだ。

那珂道世は神武天皇元年が辛酉の年とされていることから、辛酉の年に革命が起きるという『辛酉革命説』に従って、推古天皇九年(601)を基点とし、その1蔀(21元、1260年)前の紀元前660年が神武天皇元年とされていると考えた。

しかし初期の天皇の在位年数が異常に長いことや、その所伝に矛盾が多いことなどから、平均在位年数を30年と見て、紀元前後に実在した人物だと考えている。那珂道世の論考は神武紀元の問題だけでなく、神話は史実ではないとする風潮を強め、今日でも細部についてはともかくも、基本的には通説になっている。

津田左右吉は邪馬台国は九州にあったと考えている。そしてツクシ地方が政治の上で1〜2世紀に東方の勢力に服属していないことは明らかだとしているが、この東方の勢力とは明らかに大和朝廷のことだ。大和朝廷の成立が紀元前後なら、それよりも五代前の天照大御神が三世紀の卑弥呼・台与であるはずがないと言いたいのだろう。

現在では紀元前後は弥生時代の真っ只中で大和朝廷が成立していたとは考えらていない。安本美典氏は平均在位年数を10.3年として、大和朝廷の成立を280年ころとしているが、これは古墳時代の始まりを3世紀後半とする考古学の見解と一致する。

神武天皇の東征について津田左右吉は神武天皇は大和に帰ってきたのだという言い方をしているようだ。神武天皇の東征は大和朝廷によって九州が平定されたことの反映だというのだろう。これを証明することはできるだろうか。

畿内説の考古学者は津田左右吉の考えを金科玉条の如く奉っているが、奈良(平城京)から京都(平安京)への遷都や、京都から江戸(東京)への遷都と違い確かな文献がない。いや神話という文献はあるのに無いと言っている。

神武天皇が九州を平定して大和に帰ってきたというのであればその論拠を示す必要があるだろう。そこで箸墓古墳が卑弥呼の墓だという考えが出てくるのだろうが、卑弥呼の墓については「大作冢」とあり、古墳と冢とは違うから箸墓古墳が卑弥呼の墓だとは言えない。


白鳥庫吉は卑弥呼の死の前後の状況と、天の岩戸の神話がよく似ていることを「その状態の酷似すること、何人も之を否認すること能はざるべし」と言っている。確かにその通りで神話は創作された物語ではない。

だが白鳥庫吉は面土国を伊都国のことだとしている。この点は大和朝廷の成立を紀元前後とした那珂道世も、神話は史実ではないとする津田左右吉も同じだろう。那珂道世と白鳥庫吉、白鳥庫吉と津田左右吉はいずれも師弟の関係にある。


伊都国は「女王に統属す」とあるから、天照大神と対立するスサノオの性格と合わないように思える。そこでスサノオは女王国と対立する関係にあった狗奴国の男王だとするのだろう。

白鳥と津田の論争は決着がつかなかったようだが、白鳥は津田を説得できなかった。神話に対する視点が違うから決着のつけようがないが、白鳥庫吉が3世紀に面土国が存在していたこと、及びスサノオが面土国王であることに気づいていたらどうなるだろうか。

もしも白鳥がこのことに気づいていたら津田を説得できただろうし、いわゆる「津田史学」が存在することもなかっただろう。
倭人は中国の冊封体制に組み込まれており、部族もその影響を受けている。

それが直接に神話に現れているわけではないが、神話からは中国・朝鮮半島の動きに連動する倭人の姿が見えてくる。ことに直接に冊封体制に組み込まれていた北部九州の筑紫神話にこのことが言える。

神話の年代


弥生時代はおよそ600年間とされ、その土器は1世代1形式と言われていて1世代は30年とされている。那珂通世は『上世年紀考』の中で孔安国が『論語』に「三〇年を世という」としていることや、許慎が『説文』で「三〇年を一世とする」としていることを紹介している。

30年ごとに小さな文化の変化が起きるようだが、 これは弥生式土器が20形式に分類できるということで、近畿地方の土器の場合には21〜22形式に分かれるという。

これは弥生時代と縄文時代・古墳時代の中間にそれぞれ1形式が加わるということだろう。そこで私は弥生時代を土器の1形式30年ごとに小区分し、3形式90年ごとに中区分し、6形式180年ごとに前期・中期・後期に大区分するのがよいと考えている。

『山海経』海内北経に「蓋国在鉅燕南倭北、倭属燕」という一節があって、蓋国は倭の北にあり、倭は燕に属していると述べられている。蓋国についてはいろいろな説があるが朝鮮半島にあったことは確かだ。

燕の昭王・恵王の時代(前311〜272年)には斉と燕とが交互に占領しあう大規模で長期の戦乱があった。恵王の失政で燕は衰退するが、この戦乱で発生した難民の一部が日本に渡ってきて渡来系弥生人になるという考え方があるという。

私はこの考えに同意したいと思っているが、斉と燕の戦乱で発生した難民が流入したことにより弥生時代が始まると考える。稲作の始まった時を弥生時代の始まりとする考え方もあるようだが、それとは別次元のことだ。

そして266年の倭人の遣使を契機として神武天皇の東征が始まり、大和朝廷が成立したことによって弥生時代が終わると考える。弥生時代は紀元前270年ころに始まり270年ころに終わると考えればよいと思うのだ。その間は540年になるが、およそ600年間と言ってよい。

そして神話の始まる時期を弥生時代中期中葉とし、それは王莽が漢王朝を中断した西暦紀元前後だと考える。『後漢書』に倭の百余国の内の30国ほどが漢と交渉を持つようになり、その大倭王は邪馬台国に居るとあるが、神世7代の神話にはこのころのことが語られているのだろう。

イザナミが火の神・迦具土を生んだために焼死するのは、57年に遣使した奴国王家が1世紀末か2世紀初頭に滅んだことが語られているようだ。以後は表のようになると考える。

年代   高天ヶ原神話 出雲神話  中国史書
  90 イザナギの禊祓   黄泉の国 帥升の遣使 
 120      
 150  泣きいさち  スサノオの降下  面土国王の統治
 180  スサノオの昇天  八岐大蛇 倭国大乱 
 210  スサノオの狼藉  因幡の白兔 卑弥呼の即位 
 230  2神の誓約   卑弥呼の遣使 
 240  天の岩戸   卑弥呼の死 
 250 天孫降臨   出雲の言向け  台与の後の男王
 260  日向3代  出雲の国譲り 倭人の遣使 
 270  神武天皇    神武天皇の東遷
 280  綏靖天皇    古墳時代


表で神武天皇を270年代の人物とし、綏靖天皇を280年代の人物としているのは、260〜280年ころの築造と考えられている奈良県箸墓古墳を、綏靖天皇と外戚の大神(大三輪)氏、あるいは賀茂氏など大和盆地の在地勢力が造った神武天皇の墓だと考えるからだ。(箸墓古墳)


綏靖天皇の母は三輪のオオモノヌシ(大物主)の孫、ヒメタタライスキヨリヒメ(比売多々良伊須気余理比売)とされるが、イスキヨリヒメの家は大神神社摂社、狭井神社の付近にあったとされている。

狭井神社と箸墓は2キロほどしか離れておらず、箸墓は綏靖天皇の母の家の庭のような場所にあり、箸墓の周辺は大神氏を介して、神武天皇・綏靖天皇と密接に関係する。箸墓古墳は神武天皇の墓とすべきであり、卑弥呼の墓とするよりも妥当だ。

橿原市洞にある現在の神武天皇陵は、神武田(じんぶでん、ミサンザイ)と呼ばれる田の中にある高さ3〜4尺(1メートル程度)の小さな丘だったようだ。文久3年(1863)に神武天皇陵に冶定されその後拡大・整備されたが、『日本書紀』綏靖天皇紀から考えられるような盛大な葬儀は想像できない 

『日本書紀』によると神武天皇と綏靖天皇の間に3年間の空位期間があるが、これは綏靖天皇紀元年冬十一月条に見える「山陵の事」の期間だろう。盛大な葬儀が行われたことが考えられるが箸墓古墳こそこれにふさわしい。

神武天皇が即位したことにより古墳時代が始まると考えることができるが、266年の倭人の遣使は神武天皇が東遷の準備として行ったものだと考える。

大和に入った神武天皇に対し、ナガスネビコは「天神の子が二人もいるはずがない。天神の子だと言って国を奪うつもりだろう」となじるが、天皇は、「天神の子は多い。お前が主君とする者が本当に天神の子なら、それを表す物が必ずあるはずだ。それを見せ合おう」と答えている。

後世にその役割を果たすのが「三種の神器」の鏡、剣、瓊だが、「三種の神器」という観念が生じるのは大王位(天皇位)が世襲されるようになって以後で、それまでは奴国王や卑弥呼の例のように中国に遣使して金印と詔書を授与される必要があった。

こうして互いに天羽々矢と歩靫(弓矢と矢入れ)を見せ合うが、天皇の天羽々矢と歩靫を見たナガスネビコは、天皇が本当の天神の子であることを知る。天皇がナガスネビコに見せたのは天羽羽矢と歩靫ではなく、266年の遣使で授与された倭王であることを表す金印と詔書だったはずだ。

紀事本末体


神話は内容が破天荒で神話の舞台が目まぐるしく変わるので史実と思ってよいのか途惑うが、これは史書に次のような形式があることによるようだ。

編年体     
『春秋』に代表されるように年代順に記述を進めるもの
紀伝体     
『三国志』のように本紀・列伝・志などの項目を立てて記述を進めるもの
国史体     
日本独自のもので特定の個人を中心にして記述を進めるもの
紀事本末体  
ストーリーの展開を、事件の筋が分かり易いように纏め直したもの


『古事記』『日本書記』の神話は共に「紀事本末体」の形態になっていて、全体のテーマは部族国家が形成されそれが大和朝廷によって統一される経過が語られているが、時期も場所も異なる別の事件が、ひとつのストーリーに纏められている。

これは倭人が文字と暦を知らなかったことによる。文字を知らなければ歴史は忘れられていくし、暦を知らないと年代を特定することができない。辛うじて残った伝承を史書として残すには紀事本末体以外に方法はない。

図は日向神話の場合だが、侏儒国(日向)が統合される過程で起きた6つの事件が、神武天皇を天照大神(卑弥呼)の6世孫(ホノニニギの4世孫)とするために、塩土の老翁を仲介にして纏め直されている。

、事勝国勝長狹の国土奉献の物語
、木花之咲夜姫の物語
、海神の宮の物語
、海幸彦・山幸彦の物語
、高千穂の峰降臨の物語
、神武天皇東遷の物語

、の高千穂の峰降臨以外のすべてに塩土の老翁が介在しており、塩土の老翁の介在がないと日向神話は6つの独立した物語になる。倭人は文字を持たず暦も知らなかったから、伝承の多くは失われその時期を特定することができなかった。

そこで紀事本末体の手法によって、塩土の老翁と言う仮定された人物を登場させることで天孫降臨から神武天皇の東遷までの神話が形成されている。神話にはいたるところにこの手法が用いられている。

必要なことは白鳥庫吉が天の岩戸の神話と卑弥呼の死を結びつけているように、神話の流れを見てそれが史実のどの部分を語っているかを判断することだ。神話と史実が結びつかないのは神話の解釈を誤っているからだ。

次のページ

HP版
邪馬台国と面土国

トップページ
始めに

倭面土国
末盧国神湊説
伊都国は田川郡
放射行程と直線行程
『通典』から
諸説
倭国王

夫余伝の地理記事
二つの夫余
西嶋定生氏の見解
面土国は伊都国か
寺沢氏の説

第3の読み方
如刺史
州刺史

スサノオ
スサノオの音
出雲のスサノオ

邪馬台国
『翰苑』から
邪馬壱国について
水行十日・陸行一月
『大唐六典』
宗像郡
宗像大社
宗像の特殊神事
田熊石畑遺跡
安本氏の説
高木神社
卑弥呼の宮殿・墓
息長氏
卑弥呼の墓
卑弥呼の宮殿

投馬国
卑弥呼死後の男王
国名のみ21ヶ国

稍とは
狗邪韓国は釜山か
海峡圏
万二千里
『大漢和辞典』から
王畿思想
千里は三百里
多元王朝説
1里は65メートル
宗族
部族は存在したか
部族

部族と稍
多妻制度
部族連盟

青銅祭器
青銅祭器と神道
銅鐸と出雲神族
銅矛と安曇氏
銅剣と物部氏
銅戈と宗像氏
出雲の部族

神話
白鳥庫吉の考え
津田左右吉の考え
神話の年代
紀事本末体
部族と氏族
氏族
神功皇后

筑紫の蚊田
筑前粥田庄
物部氏

卑弥呼以前
那珂海人の王
大倭王

台与と並び立つ男王
竝受中國爵命
天孫降臨

二人のホホデミ
ヒコホホデミ
神武天皇の東遷