私のブログ『邪馬台国と面土国』
kyuusyuuhukuoka.blogspot.jp/
古墳時代になると部族は解体されて氏族に再編成されるが、再編成された氏族には皇親・皇別・神別の区別があり、これらの氏族は大和朝廷の主導権を巡って対立していた
邪馬台国の比定地が乱立する根本的な原因は面土国の存在が考えられていないことだが、『古事記』『日本書紀』が卑弥呼・台与を神功皇后だと思わせ、邪馬台国は大和だと思わせようとしていることも一因になっている。
『古事記』『日本書紀』の編纂者たちは、明らかに天照大神が卑弥呼・台与であるこのことを知っている。だが邪馬台国の実状を知られたくないようだ。
それにはいくつもの原因があるようだが、その一つに氏姓制の大和朝廷が有力氏族による連合政権だったことがあるだろう。
氏姓制以前、つまり弥生時代の統治形態を「部族制」と呼ぶのがよいと思っている。倭人伝に「国の大人は皆四五婦、下戸も或いは二三婦」とあるのは、妻が多いことはそれに比例して同族が多いということであり支配権も強いということだ。
部族は宗族の族長層が通婚することによって形成され部族は王を擁立したが、部族は通婚圏を拡大することによって勢力を拡大・強化しようとしたので部族間の抗争が頻発した。
その結果として部族国家は統合されて部族連合国家が出現すると考える。2世紀末の倭に大乱が起きて卑弥呼が共立されるのは部族が倭王位を巡って対立したからであり、その結果として女王国という部族連合国家が出現したのだろう。
部族は通婚することによって同族関係の生じた宗族に対して青銅祭器を配布して同族であることを認証したが、それは古代中国の殷王や周王が諸侯に青銅製礼器を配布したことに始まるのだろう。
またその後の王朝は印綬・詔書を交付したが、文字を持たない倭人には印綬・詔書の価値が理解できない。そこで殷王や周王が諸侯に青銅製礼器を配布したことを模倣して青銅祭器を配布するのだと考えている。
このように考えると下図の青銅祭器の分布圏は部族の勢力圏だとすることができる。上段は2世紀末の倭国大乱以前の部族の勢力圏を表し、下段は倭国大乱から弥生時代が終わるまでの間の部族の勢力圏になる。
大和朝廷は部族国家・部族連合国家を統合することによって成立するが、大和朝廷が成立すると部族は解体されて、大和朝廷に最初に服属した者を始祖とする氏族に再編成される。
部族が再編成されて大和朝廷支配下の氏族になると、部族が配布した青銅祭器は無用の長物になる。そこで青銅祭器の埋納が行われるのだが、神話には青銅祭器が配布され、埋納される経過が語られている。
神話の前半では部族連合国家の女王国が形成される経過が語られ、後半では各地にあった部族連合国家が統合されて大和朝廷が成立する経過が語られているが、大和朝廷成立以後の神話は再編成された氏族の歴史として語り伝えられるようになる。
815年に嵯峨天皇の命で編纂された『新撰姓氏録』は、氏族を皇別・神別・諸蕃と未定雑姓の4つに分類し、皇別・神別・諸蕃を三体と言っている。
神武天皇以後の天皇の子孫を皇別というが、その中でも特に684年に制定された「八色の姓」で真人を賜姓されたものを皇親と呼んでいる。皇親は基本的には継体天皇以後の天皇の子孫だとされている。
神別には高天ヶ原で活動する神の子孫の天神、及び高天ヶ原以外で活動する神の子孫の地祇がある。天神は天照大神と結びつけられ、地祇はスサノオに結びつけられている。
諸蕃は中国・朝鮮半島からの渡来民の子孫だが、大和朝廷成立以前のものと以後のものがあるようで、以前のものはスサノオに結びつけられている。
継体天皇・応神天皇以後には中臣(藤原)氏以外の皇別・天神は政治の中枢から次第に遠ざかり、中には祭祀に専念するものもあって、それに代わって政治の中枢では皇親が優勢になることが考えられる。
統治形態が氏姓制から律令制に移るのだが、これは祭政一致から祭政分離へ変わるともいえるようだ。移行期には天神と皇別の間に対立があったようで、その例が敏達・用明朝の仏教の受容を巡る蘇我氏と物部氏の対立だと言える。
皇極天皇(重祚して斉明天皇)の面前で蘇我入鹿が斬殺された645年の乙巳の変には中大兄皇子(後の天智天皇)が関係しているが、これは天神と皇別の対立に皇親が加わったということだろう。
神功皇后の本来の名は息長帯比売だが、これは息長氏に連なる。また中大兄皇子の父であり皇極天皇の夫でもある舒明天皇の和風諡号は息長足日廣額だがやはり息長氏に連なる。
息長氏は皇親だが、乙巳の変の背後には息長氏をはじめとする皇親の存在を考えなければならないと思うのだ。
天智天皇の死後に起きた壬申の乱の遠因にも、こうした氏族間の対立があるようだ。その結果、律令制の確立・強化が進められるのだろう。
こうした氏族間の対立を収拾するために天皇は天照大神の子孫でなければならないとする「天壌無窮の神勅」の思想が生まれる一方で、律令制の確立が優先するという考えもあったと考える。
皇別・天神の系譜は天照大神に結び付けられ、地祇・諸蕃の系譜はスサノオに結び付けられるが、律令制ではこれを統治するのが天皇であり皇親だとされている。
「天壌無窮の神勅」は天照大神の孫とされるホノニニギの子孫が日本を統治するというものだが、「天壌無窮の神勅」は天照大神と関係の深い天神にとっては有利に働く。
それに対して応神天皇・継体天皇は天照大神との関連が薄く、応神天皇・継体天皇の子孫の皇親にとっての「天壌無窮の神勅」は皇別・天神と比較すると不利に働く要素がある。
『古事記』は天神の猿女氏の一族、稗田阿礼が帝紀と旧辞を暗誦したものだとされているが、古事記の神話は基本的に天神が語り伝えていた伝承だ。
それに対して『日本書紀』の編纂に携わったのは皇族と中央貴族だったが、『日本書紀』の編纂に携わった皇族・中央貴族にとっては律令制の徹底が先行し「天壌無窮の神勅」は二の次になっただろう。
そこで皇別・神別にとっての天照大神に相当する存在が必要になり、こうして案出されたのが神功皇后を卑弥呼・台与とする『日本書紀』の神功皇后紀だと考えられる。つまり『日本書紀』の編纂者たちは卑弥呼が天照大神であることを知っているのだ。
そこから宇佐神宮を中心とする八幡信仰が生まれ、宇佐神宮は皇室の「二所宗廟」とされるようになると考える。『日本書紀』が成立する以前には八幡信仰は存在しなかっただろう。
私は天照大神+斉明天皇÷2=神功皇后だと思っているが、宇佐神宮の比賣大神には「天壌無窮の神勅」を降した天照大神という意味があるのだと考える。
このように氏族の対立の中で重要な働きをするのが神功皇后だが、神功皇后は実在しないとする説もある。私は実在したと考えるが、他にも次のようなことが言えると思う。
『古事記』では神武天皇から推古天皇までが国史体で述べられているが、公式の史書としては国史体は適切な書体とはいえない。そこで『日本書紀』では神武天皇から持統天皇までが編年体になっている。
『日本書紀』は編年の基点にするために、神功皇后を卑弥呼と台与としているのだろう。神武天皇の即位を紀元前660年の辛酉の年とし神功皇后を卑弥呼・台与としたために、在位時期の不明確な天皇の在位期間が異常に永くなっている。
神功皇后は実在しただろうが三韓征伐は事実ではないだろう。5世紀に大和朝廷の目が朝鮮半島に向けられたのは事実だが、三韓征伐は斉明天皇の百済救援の出兵がモデルになっていると考える。
斉明天皇の朝鮮出兵は失敗に終わり、その後の天智天皇の統治にも大きな影響を与えた。斉明天皇の失政を非難する声があり、出兵を正当化するために神功皇后の前例があるとしているのだろう。
応神天皇という異系の天皇が即位したために、皇別の蘇我氏と神別の物部氏の対立が生じた。そのようなことが重なり、中立の立場にあった継体天皇が即位するが、それは皇別と神別の対立に皇親が加わったということだ。
そこで皇親であると同時に皇別でもあることになる息長氏の出身の神功皇后を応神天皇の母とすることで、応神天皇の即位を正当化しようとしているのだろう。
『日本書紀』を編纂したのは皇族や中央貴族だが、それは基本的に継体天皇以後の皇族の子孫だとされていて、神別や皇別に比べると天照大神との関係が薄く、統治の正当性を主張するとき、「天壌無窮の神勅」よりも整備が進められていた律令制の方が優先した。
『日本書紀』の編纂者は卑弥呼・台与が天照大神であることを知っているが、天照大神や高天ヶ原は天空の彼方に在る異次元の世界としたいようだ。
邪馬台国は天上界にある高天ヶ原とされそこには天照大神が居たというのだ。地上界は大和であり、そこには神功皇后が居るとしたいのだろう。
そしてスサノオのいるのは出雲だということになっている。この場合の出雲は天照大神のいる高天ヶ原でもなく、神功皇后のいる大和でもないというニュアンスになる。