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私のブログ『邪馬台国と面土国』

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斉明天皇の筑紫西下の目的は何か

息長氏


戸数七万の大国の中の元来の邪馬台国については倭人伝の記事からは特定できない。そこで斉明天皇が百済出兵に際し筑前朝倉に皇宮を置いたことの意味を考えるのがよいと思っている。

『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼だと思わせようとしているが、『日本書紀』の編纂者は「卑弥呼(天照大神)+斉明天皇÷2=神功皇后」としたいのだと思う。直木孝次郎氏は斉明天皇と持統天皇が神功皇后のモデルではないかと言っている。

そうであれば斉明天皇や持統天皇の事跡の中に卑弥呼の記憶が残っているはずだと考えるのだ。神功皇后の事跡は創作されたものであり、これを援用すると通説が示しているように混乱してくる。

前項では安本美典氏が小石原川(夜須川)の周辺に高木神社が著しく多いと述べていることを紹介した。その祭神の高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)は神話の冒頭で高天が原に居る「別天つ神」の1柱とされており、邪馬台国の元来の支配者(王)は高木神のようだ。私は高木神を倭人伝の大倭だと考える。

大倭が旧甘木市・夜須町などの小石原川流域に居たのに対して、卑弥呼の宮殿の在ったのは旧朝倉町・杷木町だと考えるのだが、それはこの地に斉明天皇の伝承が残っているからだ。

斉明天皇7年(661)に、唐・新羅の大軍に攻められた百済を救援する出兵が行われ、斉明天皇は筑紫の朝倉橘広庭宮で出兵を指揮するが、朝倉では疫病が発生して近従が多数死亡し天皇自身もその年の7月に崩御する。

天皇の遺体は8月に磐瀬宮に移されるが、磐瀬宮は那珂郡三宅郷(福岡市三宅)に有ったとされている。地政学的に見て玄界灘・響灘沿岸地域の中心は福岡平野だが、斉明天皇はなぜ磐瀬宮でなく朝倉橘広庭宮を皇宮としたのだろうか。

唐・新羅の侵攻を受けた際の退路を確保するためだとも言われているが、それにしても斉明天皇の崩御は61歳とも68歳とも言われている。いかに国家の大事とはいえ老女帝が筑紫まで出向く必要があっただろうか。

斉明天皇の一行には、中大兄皇子(天智天皇)、大海人皇子(天武天皇)、太田皇女、鵜野讃良皇女らが同行している。これは事実上の遷都だと考えるのがよいだろう。気になるのは鵜野讃良皇女が同行していることだ。

鵜野讃良皇女は天武天皇の皇后で後の持統天皇だが、和風風諡号は『続日本紀』に見える「大倭根子天之廣野日女尊」と、『日本書紀』に見える「高天原廣野姫天皇」の2つがある。「高天原廣野姫天皇」にはどのような意味があるのだろうか。

私は斉明天皇の筑紫西下には出兵指揮以外の目的があると考える。『皇極天皇紀』に「古の道に順考へて、政をしたまふ」とあるが、斉明天皇は巫女としての性格が強かったようで、しばしば奇抜な行動が見られる。「古の道」とは神意に従うということのようだ。

斉明天皇は自身を同じ巫女王である卑弥呼(天照大神)に擬しており、その巫女としての直感から朝倉遷都が行われたと考える。それは朝倉(高天ヶ原)に卑弥呼の宮殿があったからであり、卑弥呼の宮殿跡に皇宮を設けなければならないと考えたのだと思う。

斉明天皇に同行した鵜野讃良皇女(持統天皇)の和風諡号の「高天原廣野姫天皇』にも同じような意味があると考えるのだが、その考えは天智天皇・天武天皇や文武天皇の統治に影響を与え、さらには『日本書紀』の編纂にも影響を与えたと考える。

私は巫女としての天照大御神(卑弥呼)に、朝鮮出兵の指揮者としての斉明天皇を加えたものが神功皇后になると考えるが、『日本書紀』が神功皇后を卑弥呼としているのはそのためもあるだろう。

玄界灘・響灘沿岸だけでなく内陸部を含めて考えるとその中心は小郡市、鳥栖市、朝倉市など、二日市地峡の南の朝倉平野周辺になる。朝倉遷都は地政学的な判断もあっただろう。

図は九州の歴史が赤線の付近を中心にして展開していることを示しているが、朝倉は筑前・筑後・豊前・豊後に接し、肥前・肥後にも近いという極めて重要な地だ。私はそれに加えて物資の流通経路としての筑後川の価値と共に、当時の政情が関係していると考えている。

3世紀後半に大和朝廷が成立し古墳時代に入っていくが、初期の大和朝廷の中枢に在ったのは九州から移ってきたという伝承を持つ物部氏や中臣氏・大伴氏などの天神とされる氏族や、あるいは大和土着の大神(大三輪)氏・加茂氏などの地祇だった。これを神別という。

『古事記』『日本書記』の神話は神別の祖とされている神の活動を中心にして語られているが、大和朝廷の支配が強まるにつれて神別は物部氏、中臣(藤原)氏を除いて政治の中枢から次第に遠ざかり、もっぱら祭祀に携わるようになる。

「祭政一致」から「祭政分離」に移っていくのだがそれに連れて政治面では大和やその周辺の蘇我氏などの皇別が優勢になる。
さらに継体天皇以後には皇親と呼ばれる氏族が現れてくる。皇親は八色の姓で真人を賜姓された氏族だが、基本的には継体天皇以後の天皇の子孫だとされている。

天武天皇が『古事記』の編纂を思い立ったのは、歴史が忘れられることを心配したからだとされているが、真意は皇親と皇別、神別、諸蕃の三体の区別を明確にして、三体を支配するのは皇親であり皇親の中心は天皇だという律令制統治を確立することにあると考える。

神別の物部氏、皇別の蘇我氏の活動は顕著だが、継体天皇以後の皇族に準ずる氏族の皇親の活動があまり見られない。そうした中で息長氏が際立って目につく。

神功皇后の本来の名は息長帯比売だが、これは父が開化天皇の玄孫の息長宿祢王であることによる。天智天皇・天武天皇の父であり斉明天皇の夫でもある舒明天皇の和風諡号は息長足日廣額だが、これは天皇の祖母、広姫が息長真手王の娘であったことにより、やはり息長氏に連なる。

息長氏は皇親だが、『古事記』『日本書紀』は神功皇后に皇親と皇別を結びつけると共に、神別とは対立させるという役割を持たせているようだ。神別には統治権はないということを主張しようとしているのだろう。

皇極天皇(重践祚して斉明天皇)4年6月に天皇の面前で蘇我入鹿が斬殺される。蘇我入鹿が殺されたことで皇別が政治を主導することはなくなるが、周囲には中臣(藤原)氏などの神別が残っており、北部九州には神別を支持する考えが残っていたのだろう。

斉明天皇の朝倉遷都は神別を支持しようとする九州の勢力に対応しようとしたものだろう。斉明天皇は卑弥呼が天照大神であることを知っており、卑弥呼の宮殿・墓のある朝倉に遷都したのだと考える。『日本書紀』斉明天皇七年五月条、及び八月条に次のようにある

五月条
是の時に朝倉社の木を(伐)り除ひて、此の宮を作る故に、神忿りて殿を壊つ。亦、宮の中に鬼火見れぬ

八月条
朝倉山の上に、鬼有りて、大笠を着て喪の儀を臨み視る。衆皆嗟怪ぶ

五月条の朝倉の神、及び八月条の鬼については、継体天皇に対して反乱を起こした筑紫君磐井や、仲哀天皇を死に追い込んだ熊襲、あるいは神功皇后に誅滅された羽白熊鷲や田油津媛のような、反大和朝廷勢力だと考える。

その反大和朝廷勢力とは朝倉社上宮の神祭とされている、伊弉諾尊・天照大神・月夜見尊・素戔嗚尊・蛭子尊の子孫とされる氏族のうちの、九州に土着しているものだと考える。

反大和朝廷勢力が抵抗の根拠にしたのが「高天ヶ原信仰」であり、そこで語られている「天壌無窮の神勅」だった。それを象徴しているのが伊勢神宮だが、皇親を中心とする親大和朝廷勢力も八咫の鏡を神体とする伊勢神宮の祭祀を重視した。

だが律令制統治を徹底させるために神道と仏教を融合させて「八幡信仰」を創りだし、これを九州に流布させたと考える。宇佐神宮の比売大神については田川郡香春町に鎮座する香春神社の祭神の「辛国息長大姫大目命」、及び「豊比メ」(メは口+羊)と同じものだと考えられている。

辛国は朝鮮半島のことで、辛島・長光・赤染氏などの渡来民が祀っていた神であることを表し、息長大姫は神功皇后を表している。大目命はオオヒルメ、すなわち天照大神のことだろう。天照大神は卑弥呼であり、豊比メは台与だ。

これに中央での崇仏派の蘇我氏と反崇仏派の物部氏の対立や皇親の息長氏の思惑、あるいは九州での宇佐祭祀を巡る辛島氏と宇佐氏・大神氏の対立が絡んだことなどがあり、これを利用して大和朝廷は八幡信仰を広めて行ったのだと考える。

神功皇后・応神天皇・仁徳天皇を祭神とする「八幡信仰」の出現で宇佐神宮では天照大神を祭っていたが比賣大神と名を変え、天照大神は伊勢の内宮で、また豊比メは外宮で祭られるようになって、宇佐神宮と伊勢神宮が皇室の二所宗廟とされるようになると考える。

卑弥呼が天照大神であり邪馬台国が九州にあったのであれば、九州に天照大神を祭る神社がなければならず、またスサノオを祭る神社もなければならないが、それが存在していないのには理由があるだろう。


「八幡信仰」が流布されたことにより宇佐神宮の祭神は天照大神から比賣大神に変わり、天照大神の祭祀の場は伊勢に移るのだろう。宗像大社の祭神はスサノオから3女神に変わり、スサノオの祭祀の場は出雲に移る。また高良大社の祭神も竹内宿祢とされるようになるのだと考える。

斉明天皇は継体天皇や仲哀天皇と同様に、反大和朝廷勢力を平定したかったのだろうが、そこに疫病が大流行して天皇自身も崩御することになると考える。

卑弥呼の墓


斉明天皇は朝倉で急死するが、朝倉市恵蘇宿の恵蘇八幡宮の周辺は木の丸殿跡と呼ばれていて、中大兄皇子(天智天皇)が崩御した斉明天皇の殯(もがり)を行った場所だとされ、背後の御陵山には斉明天皇殯陵という伝承を持つ古墳がある。

近世には付近の筑後川岸に船着場があり関所もあって関守がいたという。古墳は船着場・関所から見上げる位置にあるが、3世紀にも筑後川を昇り降りする船の船着場があってこの古墳のことが船人の口に膾炙され、帯方郡使の張政の耳に達したのだと考えたい。



この古墳について安本氏は『卑弥呼と邪馬台国』で「恵蘇八幡宮の上に斉明天皇の陵といわれる場所があり、石塔が立てられている。あるいは古い女王のゆかりの地であったのだろうか」と述べられているが、「古い女王」については斉明天皇とも卑弥呼・台与とも、あるいは神功皇后とも言及されていない。

この古墳は二つの墳丘が接合した形になっていて前方後円墳とも双円墳とも言われているが、前方後円墳の前方部にみられる直線が見えないので1号墳・2号墳と呼ばれている。見つかった埴輪片から5世紀ころのものだとされている。

卑弥呼の墓については「大作冢」とある。冢は時代に似つかわしくない大きな墓という意味だが、元来の意味は豕(猪子・豚)が巣穴の中で寝ている状態を言うようで、字義では豕が巣穴から出てしまうと家になり、土で造られた冢が塚になる。


死者が墓穴に納められた状態と豕が巣穴で寝ている姿が似ているのでの墓のことを冢と言うようになったと思われる。『魏志』韓伝に「居處作草屋土室、形如冢」とあるが、冢は半地下式の竪穴式住居のような形なのだろう。

『三国志』の諸葛亮伝によると、孔明は死ぬときに「山に因りて墳と為し、冢は棺を容るるに足る」と遺言したという。この文でも山のように大きなものが墳で、冢は棺を収める墓穴であることが考えられる
 

森浩一氏も「中国では冢と古墳は区別されており、冢はいわゆる高塚古墳ではない」と言っている。冢に低い盛り土をしたものが塚で、塚を墳墓として目立つように土・石・レンガ(埴輪)などを用いて高さや形を強調したものが墳のようだ。

奈良県箸墓古墳を卑弥呼の墓だとする説が横行しているが、「其死有棺無槨。封土作冢」とあるから卑弥呼の墓には槨(石室)が有ってはならない。箸墓古墳は前期古墳とされているから槨はないだろうが、卑弥呼の墓は高さや形を意識していない弥生時代の墓制の台状墓だと思うのがよい。

恵蘇八幡宮背後の御陵山古墳が5世紀のものであれば、いわゆる古墳時代末期の群集墳だと考えることもできるが、群集墳なら必ず槨(石室)が有る。このことがこの古墳の年代を決める根拠になると考えている。

箸墓古墳は典型的な墳であって冢ではない。私は箸墓古墳についてはこの地と関係の深い神武天皇の陵と考え、その年代は280年ころだと考えている。

箸墓古墳を冢だと言えるだろうか。いかに年輪年代測定法やC14年代測定法によって年代を操作して卑弥呼の年代に近づけようとしても、卑弥呼の墓は冢であって墳ではないという事実を変えることはできない。

その卑弥呼の台状墓の墓域が百余歩だというのだが、中国の歩は現代日本語でいう2歩を「1歩」とする身体尺で、百余歩は約 144メートルだとされている。

張政が卑弥呼の墓を直接に見たわけではなく百余歩は伝聞だろう。私は現代日本語でいう100歩で72メートル程度だと考えている。2基の古墳は江戸時代に造られた石柵で囲まれているが、御陵山の山頂はちょうどその広さになる。

このころ出雲では巨大な四隅突出型墳丘墓が築造されているが、島根県出雲市大津町の西谷墳墓群で最大の9号墓は43×33メートル、高さ5メートルだ。突出部を含めるとおよそ60×50メートルになるが、九州にはこの大きさの墓はないから、際立って大きいと思われたのだろう。

卑弥呼の墓は台状墓でなければならず、その上に5世紀の埴輪片が見つかっているというのだから卑弥呼の墓ではないことになる。これは自家撞着になるが斉明天皇との関係が言われていることでわかるように、とにかくよく目立つ場所にある。

卑弥呼の墓の大きさが帯方郡使の耳に達するほどだからよほど目立つ場所にあるのだろうが、この地は筑前を東西に2分している三郡山地と筑後川が接触する所で、肥前や筑前から豊後に行くには必ず古墳の下を通過する。私は斉明天皇の朝倉遷都に執着してみたいと思っている。

それには古墳の下を通過する路が豊後で分岐して宇佐に通じていることを考えるのがよいと思う。宇佐に行くということは卑弥呼の宮殿に行くことであり、それが宇佐神宮の始源になっていると考える。

御陵山の古墳は二つの墳丘が並んでおり前方後円墳だとも双円墳だともいわれているが、前方後円墳なら前方部に特有の直線が見られなければならないがそれが見られない。また双円墳は朝鮮半島には見られるものの日本には存在しない。

私は2基の古墳の被葬者は卑弥呼と卑弥呼の元に出入りして辞を伝え、飲食を給仕している男子だと考えているが、卑弥呼が天照大神であるのに対してこの男子を蛭児だと考える。

天照大神の別名をオオヒルメノムチというが、神事に携わる女性をヒルメというのに対して男性をヒルコという。ヒミコとはヒルメノミコを省略した言い方なのだろう。

『日本書紀』に見える神功皇后の神がかりでは、神主(巫女)の神功皇后、サニハ(審神者)の中臣烏賊津使主、琴を引く竹内宿禰が登場してくる。神主(巫女)が卑弥呼であるのに対し、この男子はサニハ(審神者)のようだ。

「辞を伝え」とは奏上されてくる政治課題を卑弥呼に伝えたり、卑弥呼が神がかりして降す意味不明の神示を、意味が分かるように具現化して伝えるということだ。

このような役割を果たすのがサニハ(審神者)でありヒルコだが、サニハ(ヒルコ)も巫女(ヒルメ)と同様に特殊な能力が必要で、その能力を得るために修行をし一般人とは異質の生活を送っていたようだ。

倭人伝によると卑弥呼の元に出入りしているのは一人の男子だけで、婢が千人も居るというのにこの男子は飲食の給仕までしている。このことを見ると卑弥呼はこの男子に全面的に依存した生活を送っており、異体同心の関係にあったのだろう。


そこで人々は卑弥呼の傍にこの男子を葬ってやったのだと思う。台状墓は古墳と違い墓域に複数の棺があるのが常態だ。だが問題はここから出土したという埴輪片だ。その埴輪片の出土には確かな記録が残っているのだろうか。

埴輪片の出土が伝承に過ぎないことも考えられるが私はそれを追及する気になれない。所詮は推察になってしまうだろうと思うからだが、そうであれば様々な推察が可能になってくる。

埴輪片の年代とされる5世紀はいわゆる「倭の五王」の時代になる。「倭の五王」の讃については応神天皇とする説がある。また『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼だとしているが、神功皇后の死は卑弥呼の時代よりも干支2運(120年)新しいとする説に同意して367年ころとするのがよいと思っている。

私は応神天皇を奴国王の末裔ではないかと思っているが、5世紀には応神天皇の即位があって卑弥呼(天照大神)に対する関心が高まった。この時に荒廃していた卑弥呼の墓の改修が行われ、弥生時代の台状墓に盛り土をし埴輪を置いたのではないかと思っている。そのために双円墳の形状になったと思うのだ。


卑弥呼の宮殿


朝倉橘広庭宮の所在については恵蘇八幡宮付近とも、また朝倉市須川の「天子の森」にあったとも言われてきたが、須川での発掘調査では長安寺という寺の跡らしいということで、朝倉橘広庭宮の所在は確認できなかった。

現在では九州横断自動車道の発掘調査で発見された、志波地区内の計画的に配置された11棟の建物跡が、朝倉橘広庭宮の周辺施設ではないかと言われている。

11棟の建物は短期間の使用を見込んだ臨時のもので、近くに主体部があるとされ、その主体部は志波小学校付近ではないかと言われている。附近は広庭宮というには狭いようにも思えるが、筑後川を渡った対岸にそれを思わせる橘田という地名があるという。


建物跡が出土したのは前述の高山のすぐ傍だが、私は朝倉橘広庭宮が確認されていく過程で卑弥呼の宮殿が発見されると思っている。志波の建物群が斉明天皇の時代のものでなければ卑弥呼の宮殿の可能性があると考えるのだが、どのような見解が出されるか楽しみだ。


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