私のブログ『邪馬台国と面土国』
kyuusyuuhukuoka.blogspot.jp/
二日市地峡の北の入り口の春日丘陵は弥生遺跡が密集し、考古学者の間では弥生銀座と呼ばれ、その出土品には目を見張るものがある。その中心的存在が須玖岡本遺跡で、前漢鏡35面、銅剣、ガラス製品などが出土している。
通説では須玖岡本遺跡の主は奴国王だとされている。しかし福岡平野は奴国ではなく邪馬台国だ。戸数七万の邪馬台国は前漢時代にあった百余国の内の何ヶ国かが併合されたものであり、須玖岡本遺跡はそうした国のひとつと見るのがよい。
黄泉の国から逃げ帰ったイザナギは「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で禊をして、住吉神社の筒之男三神、志賀海神社の綿津見三神など19神と、天照大神・月読・スサノオの3貴子を生む。
小門とは小さな水門、もしくは瀬戸だとされているが、海岸に近く海人の住む平地といった意味で、三笠川・那珂川の河口部のことを言っているよう思われる。現在の須玖岡本遺跡は那珂川、三笠川の沖積が進み埋め立てが行われて海岸線から遠くなっているが、当時は海岸線から二キロほどだったと言われている。
その那珂川と三笠川に挟まれた陸地の先端に、後世には住吉神社が創建され、その近くには警固神社がある。ここが那珂海人の活動する場所だ。本稿ではその国の王を那珂海人の王と呼ぶことにしたいと思う。
那珂海人とは志賀島の阿曇海人、宗像郡の宗像海人に対応させたもので、筑前那珂郡を本拠とし後世に住吉神社や警固神社を奉祭するようになる集団という意味だ。
この場合の集団とは宗族が通婚することで結合したもので部族のことだが、古墳時代の阿曇氏や宗像氏は大和朝廷が成立したことにより部族が解体されて氏姓制に移行する時に氏族に再編成されたものだ。
その北には博多湾を隔てて「海の中道」と、金印の出土した志賀島があり、志賀島には志賀海神社が鎮座している。志賀島は海洋民として知られる古代豪族、阿曇氏の発祥の地であり、阿曇氏が玄界灘の航行に従事したことは対馬に綿津見神が祭られていることでも知ることができる。
私はかって居たであろう那珂海人の王の活動の記憶が、イザナギの神話になったと考えるが、須玖岡本遺跡の主もイザナギのモデルのひとりであろうし、阿曇海人、住吉海人の遠祖たちもそのモデルになっていると思う。
これは貝原益軒や飯尾宗祇が言っていることに近く、ほとんど定説になっているが、私は志賀島が神話のオノゴロ嶋のモデルだと考えている。海ノ中道が矛に見立てられ、矛から滴り落ちた潮が凝り固まったものが志賀島に見立てられていると思っている。
イザナギ、イザナミ二神はオノゴロ嶋に天の御柱を見立てて、その柱を回って国を生み神々を生むが、万物生成の根源がオノゴロ嶋だとされ、阿曇海人、那珂海人(住吉海人)は志賀島がそのオノゴロ嶋だとして神聖視していたと考える。
倭人伝は国々に市があり大倭が「之を監せしむ」(管理している)と述べているが、大倭については、@倭人中の大人とする説、A邪馬台国の設置した官とする説、B大和朝廷のこととする説の三説がある。
租賦を収めるに邸閣有り、国国に市有り有無を交易す。大倭をして之を監せしむ。自女王国以北に特に一大率を置き、諸国を検察す。諸国は之を畏憚す。常に伊都国に治す。
植村清二氏はBの大和朝廷のこととする説をとり、交易と大倭とは関係がなく、大倭は一大率を統括しているのだと解釈しているが、通説では@の倭人中の大人とする説か、あるいはAの邪馬台国の設置した官とする説をとって、市場や交易を差配しているのだと考えられている。
だが五世紀前半に成立した『後漢書』倭伝に「その大倭王は邪馬台国にいる」とある。大倭は元来の邪馬台国王なのだ。卑弥呼を邪馬台国の王だとする考えが見られるが、卑弥呼は邪馬台国に国都を置いたが邪馬台国王ではない。
前述したように卑弥呼は祭祀権を統率したが、面土国王は刺史の如く「自女王国以北」を支配すると共に外交権を掌握し、一大率は軍事を担当しており、大倭は市場や交易などの経済を管理、支配しており、それぞれ役割を分担しているのだ。
政治も経済抜きでは運営できないから、大倭は女王国を陰で操っている実力者だったのだろう。大倭という文字の意味からもそのように考えることができるが、天の岩戸以後に活動する神の中にいかにもそれらしい神がいる。
タカミムスヒ(高皇産霊尊、高御産巣日神、高木神)だが、この神は神話の冒頭に高天原にいる五柱の別天つ神として出てくる。
天地が初めて明かになった時に、高天原に現われた神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神である。この三柱の神は単独の神として現れ、身を隠された。・・・
(中略)上の件の五柱の神は別天つ神である
タカミムスビは神話の冒頭で高天が原に居る「別天つ神」とされていて、イザナキ、イザナミ二神に至る、いわゆる神世七代とは別系統の神だと書かれている。高天ヶ原は邪馬台国のことだ。
イザナギは先述の那珂海人の王であり、イザナミは根之堅洲国におり、スサノオは海原の神であって高天が原の神ではない。『日本書記』本文は天照大神についても「天柱を以って天上に擧ぐ」としていて、元から高天ヶ原に居たのではないとしている。
卑弥呼は共立されて王になり邪馬台国に国都を置いたのだ。そうであれば、高天ヶ原の元来の神はタカミムスビということになる。タカミムスビが大倭であれば大倭は元来の邪馬台国王ということになる。『後漢書』倭伝には次のようにある。
倭在韓東南大海中。依山島爲居。凡百余国。自武帝滅朝鮮。使譯通於漢者。三十許国。国皆称王。世世伝統。其大倭王居邪馬台国
武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を設置すると倭の30ばかりの国が漢と接触するようになるが、その大倭王は邪馬台国に居るとある。この大倭王が卑弥呼でないことは明らかで、別天つ神の最初の天之御中主神を大倭王と見て、タカミムスヒを倭人伝の大倭とすると辻褄が合ってくる。
戸数七万の邪馬台国は幾つかの部族国家が統合されたものだと考えられるが、イザナギは那珂(筑前の住吉海人)海人族の国の王だった。大倭もそうした部族国家時代の邪馬台国の王の家系であることが考えられる。
その国名からみて山に近くて、比較的に高地の国であることが考えられる。また神話では高天ヶ原と呼ばれていることから見ても海岸の国ではなさそうである。私は福岡平野ではなく甘木平野の、それも三郡山地の裾野がその場所であったと考えている。
安本氏の『高天原の謎』では夜須川の周辺には高木神社が著しく多いことが述べられているが、地図はタカミムスビを祭神とする高木神社の分布だ。
卑弥呼が都を置いたことにより高皇産霊尊、すなわち大倭は経済を支配し、倭人社会の実力者になっていったと考えられる。女王国の経済を支配することによって女王制を操作していたと推察するのだが、もとより王は卑弥呼だから大倭が表面に出ることはなくキングメーカー(陰の実力者)である。
この神は天の岩戸以前には活動が見られず、それ以後に天照大御神とペアで、時には単独で神々に指令を出すようになる。つまり卑弥呼の時代には活動が見られず、台与の時代になると台与と対等か、それ以上に活動するようになるのだ。
台与は13歳の少女で卑弥呼ほどのカリスマ性がなかったのだろう。正始10年に司馬懿がクーデターを決行して魏の実権を掌握するが、以後の魏は実体のない国になっていく。このことも台与の王権を弱体化する要因になっているだろう。
大倭は女王国の経済を支配している実力者であったことが考えられるが、ホノニニギは高皇産霊尊の孫とされており、『日本書記』の本文は「皇祖高皇産霊尊」としている。
三品彰英・西條勉は、本来は高御産巣日神(高皇産霊尊)が皇祖神であり、ヒルメが皇祖神化して天照大神になったとするが、台与は実質のない飾りの女王で、事実上の倭王は大倭であり、大倭は皇祖に位置ずけられる人物であったことが考えられる。
タカミムスヒを考えるについてはその子とされるオモイカネに注意する必要があるようだ。私はこれを239年に卑弥呼の使者として魏都の洛陽に行き率善中郎将に任じられ、248年には黄幢・詔書を授けられた難升米だと考えている。(思金神 その1)
難升米がオモイカネだというのは推察だが、天照大神・タカミムスヒが指令を出すだけであるのに対し、オモイカネはそれを実行していて似ている点が多い。倭人伝で最も多く名がみえるのが難升米だが、極めて重要な人物だったようだ。
オモイカネは天の岩戸から天孫降臨にかけて活動するが、天の岩戸は卑弥呼の死と台与の共立を表し、ホノニニギの天孫降臨は台与の後に男王が立ち、侏儒国が併合されたことを表していると考えている。
その間の葦原中国平定では、葦原中国に派遣する神の選定を行っているが、台与の在位中に出雲の併合が立案され、間もなく大国主の国譲り、つまり出雲の併合が実現することになるようだ。
私はそれを266年の倭人の遣使までの出来事で、266年の遣使から神武天皇の東遷が始まると考えているが、それは古墳時代の始まる3世紀後半になる。266年から間もないころに大和朝廷が成立し、朝廷に服属した氏族が古墳を築くようになると考えるのだ。