私のブログ『邪馬台国と面土国』
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面土国については倭面土をヤマトと読んで畿内大和のこととする内藤湖南の説と、面土は囘土の誤字で、これをウェト国と読んで伊都国のこととする白鳥庫吉の説が有力だが、面土国という国は存在しないと考えられている。
これは「倭面土国」と読むのか、「倭の面土国」と読むのかという問題でもあるが、この問題に取り組んだのが東京大学教授の西嶋定生氏で、西嶋氏は東京帝国大学教授だった白鳥庫吉の説を継承する立場にある。西嶋氏は倭面土国について『邪馬台国と倭国』(吉川弘文館、平成6年)で次のように述べている。
私はこの面土国については、今でも疑問を持っています。しかし「倭面土国」という記載が一方にとにかく存在するのですから、これを否定することができないかぎり、奴国のほかに面土国という他の倭人の国が朝貢したことになりますが、なお疑問が残る名称です。
57年の奴国王の遣使と239年の卑弥呼の遣使の中間の107年に「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という国があったことになるとさている。
倭人伝の伊都国の記事に「世有王。皆統属女王国」とあるが、伊都国には一人の官と二人の副(副官)も居て、名目的な王と実質的な官という2重の支配者がいる。西嶋氏は白鳥庫吉の説に従ってこの王を倭国王帥升の子孫だと考えている。
そして57年に奴国王が遣使した時点ではまだ倭国という国は存在しておらず、107年に帥升が遣使した時点で倭国が出現すると想定し、この伊都国の2重の支配は卑弥呼が女王になってからのものだとされている。
西嶋氏は『邪馬台国と倭国』では「倭面土国王」の帥升が遣使したという記録が残っている以上、奴国のほかに面土国という倭人の国が朝貢したことになると、面土国が存在する可能性のあることを示唆しているが、その一方では王仲殊氏の見解などを加味して面土国の存在を否定し、『倭国の出現』では次のように述べられている。
この想定が正しいかどうかについては、今後、音韻学、文献学の各方面から適切な教示を得たいものである。しかしその当否にかかわらず、「倭面土国」の名称がいわゆる邪馬台国時代より以前の二世紀にすでに実在したということが文献学的に実証されない限り、その時代において「倭面土国」とはいかなる国名を表記したものか、あるいは「面土国」は何処に求めるべきであるか、などという議論は、すべて架空の国名の実在地を求めることになるのではないか、と私には思われるのである。
その論拠として「倭面土国」の表記が見られる『通典』は801年までに、また『翰苑』は660年以前に編纂されたことを問題にしたいようだ。7世紀の後半には律令制が定着してくるが、律令制では倭という文字を嫌って日本国と称し、大王を天皇と称するようになる。
西島氏は7世紀前半の唐代初期が倭国から日本国へ国名が動揺した時期だとするが、当時日本国をニホン国・ニッポン国と言うことはなく耶麻謄(ヤマト)国と言った。
『通典』『翰苑』の成立時期と律令制が定着する時期が一致することから、中国ではヤマト国を「倭面土国」と漢字表記したが、日本で転写されているうちに帥升に結びつけられて、日本にある『通典』『翰苑』では帥升は倭面土国王とされるようになったということのようだ。
寺沢薫氏は西島氏の考えに同意して、大乱が起きる以前の倭国はイト(伊都)国王を盟主とする北部九州の部族的な国家の連合体だとしこれを「イト倭国」と呼んでいる。「イト倭国」の権威が失墜して大乱が起き、大乱後それに代わる新たな倭国の枠組みが求められ卑弥呼が共立されたとし、これを「新生倭国」と呼んでいる。
寺沢氏の考えは面土国を伊都国のことだとした白鳥庫吉や西島氏の説を発展させたものだと言えるが、イト倭国と新生倭国を対峙させることによって、大乱以後には畿内が優勢になるという邪馬台国=畿内説が構築されている。面土国を正しく把握しておかないとこうした見解も出てくる。
面土国の存在を否定すればそれに替わる国が必要になってくるが、そこで末盧国や伊都国・奴国が面土国だとする考えが登場してくる。だが面土国という国が存在したということと、その国が末盧国・伊都国だというのではまったく意味が違ってくる。
これは当然過ぎるくらいに当然のことで、存在を肯定するのと否定するのでは正反対の結果が出てくることは言うまでもなく、その結果を比較すると文献学的にも肯定することができるようになる。
邪馬台国論が紛糾する原因の第一は『古事記』『日本書記』が卑弥呼・台与を神功皇后だと思わせようとしていることにあるが、その根底には面土国の存在が考えられていないことがあるようだ。2・3世紀の倭国、換言するなら卑弥呼前後の倭国を考える上で、面土国を徹底して解明する必要がある。