私のブログ『邪馬台国と面土国』
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面土国は存在しただろうか
高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』を読んだことで宗像に関心を持つようになった私は何度も神湊に足を運んだが、神湊が末盧国だとは思えず末盧国と伊都国の間に倭人伝に国名の見えない国があって、その国が倭面土国だと考えるようになった。
宗像郡の歴史から見て宗像に捜露の行われた津があった事は考えられるものの、宗像郡が末盧国なら津は末盧国あったことになるが、倭人伝の記事を見ると津が末盧国に在るとは書いてない。
そこで末盧国と伊都国の間に捜露の行われた津があると考えてみた。山尾幸久氏は面土をmian−tagと読んでいるが、その音はミナトであり、その意味は港・湊・
論より証拠ということで列車に乗り合わせた中国人にも北京官話音で面土を発音して貰ったところ、確かにミナトと聞こえた。宗像の歴史はまさに「港の国」そのもので、宗像郡、あるいはそこに鎮座する宗像大社の歴史にふさわしい国名だと言える。
面土国の名は『通典』などに見えるが、『通典』は唐の杜佑が801年に完成させた法令制度の沿革を述べた書で、正史(公式に認められた歴史書)ではないが権威のある書であり、その中に次のような記事がある。
光武中元二年、倭奴国奉貢朝賀。使人自称大夫。倭国之極南界也。安帝永初元年、倭面土国王師升等献生口。桓・霊間倭国大乱、更相攻伐、暦年無主。有一女子名卑弥呼、年長不稼、事鬼道、能以妖惑衆、於是共立為王。
『後漢書』倭伝は安帝の永初元年(107)に倭国王の帥升が後漢に生口160人を献上し、目通りを願い出たことを記しているが、『通典』は帥升を倭面土国王としている。
帥升のことは古くから知られていて、鎌倉時代の占部兼方の『釈日本紀』開題には倭面国王とあり、室町時代の一条兼良の『日本書紀纂疏』には倭面上国王とある。
さまざまに書かれているが、少なくとも「面」の文字が使用される国名が存在していることは確かなようだ。
『後漢書』倭伝
安帝永初元年、倭国王帥升等、献生口百六十人
宮内庁蔵『通典』
安帝永初元年、倭面土国王師升等、献生口百六十人
静嘉堂文庫蔵『通典』
安帝永初元年、倭面土地王師升等、献生口百六十人
太宰府天満宮蔵本『翰苑』
安帝永初元年、有倭面上国王帥升至
昔の学者は倭国といえば大和朝廷によって統一された日本のことだと考えていたので、松下見林は帥升を景行天皇だとした。この考え方に疑いを持ったのが本居宣長で『通典』の一書に倭面土地王帥升とあることに気づいた宣長は、帥升を倭国の王ではなく倭面土地という倭の一小国の王だと考えた。
本居宣長の考えをおし進めたのが内藤湖南で、内藤は宮内庁蔵『通典』が他書よりも信頼できるとして倭面土が本来の形だとし、これを「ヤマト」と読んで大和朝廷のことだとした。
また白鳥庫吉は倭面土国を「倭の面土国」と読むのがよいとした。57年に遣使した「委奴国王」を「倭の奴国王」と読むことは認められていて、倭に奴国という小国があると解釈されているが、そうであれば倭と面土国は切り離して読まねばならず、白鳥庫吉の考えは正しいといえる。
そして白鳥庫吉は面は囘の誤字でウェと読み、その音が伊都に似ていることから面土国は伊都国のことだとしている。
橋本増吉もやはり「倭の面土国」と読んで末盧国のことだとしている。通説では末盧国は佐賀県東松浦半島付近とされているが、『日本書紀』の地名起源説話に梅豆羅国がある。橋本増吉は面土と梅豆羅の音が似ているという。これは白鳥庫吉が面は囘の誤字で、ウェィトと読んだのと同じで語呂合わせに過ぎない。
今のところ面土国については伊都国とするものと、末盧国とするものの二つが有力だが、面が囘の誤字だという根拠はないし、梅豆羅国という国が実在したわけでもない。
1世紀を奴国王の時代とし、3世紀を卑弥呼の時代とするなら、『魏志』倭人伝に次のような記事があって、2世紀は帥升とその子孫たちの時代だとすることができる。
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱、相攻伐暦年。乃共立一女子為王
倭国に大乱が起きる以前の70〜80年間は男子が王だったが、大乱で男子の王を立てることが出来ず卑弥呼が共立されて王になる。大乱は霊帝の光和年中(178〜183)に起きたが、大乱の70〜80年前といえば帥升が生口一六〇人を献じた107年ころになる。このことは井上光貞氏も指摘しているところだ。
金関丈夫氏は倭人伝の大倭は大倭王のことでこれを奴国王とし、帥升を奴国王だとしているが、帥升が奴国王なら男王の時代は奴国王が後漢に遣使した57年から続いていることになって120年以上になるから、帥升が遣使した107年までに奴国王の時代は終わっていなければならない。
大乱で王になる事の出来なかった男子は帥升の70〜80年後の子孫であり卑弥呼共立の最大の当事者の可能性があるが、そうであれば倭国大乱と卑弥呼共立の最大の当事者は面土国王ということになる。
この当然すぎる因果関係が全く問題にされていないが、倭人伝に面土国の名が見えないことも事実だ。その上に『日本書紀』神功皇后紀は神功皇后を卑弥呼・台与だと思わせようとしている。
本居宣長・新井白石などがその影響を受け、これを内藤湖南・白鳥庫吉などが継承したことにより、面土国は存在しないと考えることが定着している。
この問題については西嶋定生氏が『倭国の出現』(東京大学出版会、1999年)、(「倭面土国論」の問題点)で次のように述べられていることに注意したいと思う。
私はこの伊都国に居住する王こそ、第一次の倭国の王であり、倭国王帥升に始まり、七、八十年継続した後、倭国の乱によって衰退し、卑弥呼が女王になってから以後は、暦年邪馬台国を都とする第二次の倭国の女王に服属しながら、ただ名目的に王名を称していたのではないかと想定する。
西嶋氏は107年に遣使した帥升を第一次の倭国の王とし、卑弥呼を第二次の倭国の女王とされている。57年に遣使した奴国王は「漢倭奴国王」に冊封されているが、これは奴国の王であって倭国の王ではない。107年に帥升が生口160人を献じて後漢から倭国王に冊封されるまで、倭国という国は存在しなかったというのだ。
また『後漢書』倭伝には紀元前1世紀、あるいは1世紀ころのこととして「その大倭王は邪馬台国に居る」とあるが、ここでも大倭王とされていて大倭国王とはされていない。西嶋氏は次のように述べている。
そして王の所在の記述のない他の諸国は、帥升を王とする倭国の出現以後、その統属ごとに、その王位を失うことになったのではあるまいか。
紀元前1世紀の大倭王の末裔も107年以後には王位を失うが、これが倭人伝に市場を差配しているとされている大倭だ。卑弥呼を邪馬台国の王だと言う人が居るが、卑弥呼は邪馬台国に国都を置いただけで、元来の邪馬台国王は大倭なのだ。
『後漢書』倭伝には倭国王帥升等とあって、等の文字は複数の人物が遣使したことを表しているとする説があり、また帥升は倭国王であって面土国王ではないとする説がある。
西嶋氏は107年以前には倭国と言う国はなかったとするが、国として存在していたのは邪馬台国・奴国・面土国・伊都国などで、「帥升等」とあることで分かるように107年にはこれらの国が連名で遣使したのだ。
帥升は面土国王として遣使したが『後漢書』は彼を倭の諸国を代表していると言う意味で倭国王としているのだろう。そのような意味では帥升が伊都国王なら「倭伊都国王」でなければならず、大和にあった邪馬台国の王なら「倭邪馬台国王」でなければならない。
それが通説では倭面土国は伊都国だとか、あるいは畿内にあった邪馬台国のことだとされている。倭に面土国という国があったのだ。
そうであれば2世紀にも倭国という国は存在していないことが考えられる。帥升については金印・詔書の授与がなかったと言われるが、穿った見方をすれば後漢王朝の側でも帥升を面土国王とも倭国王とも判別することができず、倭王に冊封したものの金印を授与することができなかったと考えることができる。
そのような意味では倭人伝にも倭国という国名は見えない。書名自体が『魏志』東夷伝・倭人条であって倭国条ではない。卑弥呼は倭女王とされ、卑弥呼が支配しているのは倭国ではなく女王国とされている。
卑弥呼が冊封されたのは倭国王ではなく親魏倭王だし、また女王国の東にある国は「皆倭種」だとされている。だが「倭国乱相攻伐」という例外がある。
其國本亦以男子爲王住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼
この文から見ると倭国という国があることになるが、「其國本亦以男子爲王」とあるから女王国のことを倭国と言い換えているのであって、女王国を構成している国々に乱が起きたという意味だと見るのがよいだろう。
3世紀にも倭国と言う国はなかったと見ることができる。倭は国名ではなく人種名、あるいは民族名のようで、卑弥呼の親魏倭王は倭という人種を魏皇帝の名代として統括する王という意味なのだろう。
魏は229年にクシャーナ王のヴァースデーヴァを「親魏大月氏王」に冊封しているが、大月氏系諸侯はクシャーナ朝とは別に独立王国を形成していたことが知られている。
これらの大月氏系諸国をクシャーナ朝が征服した形跡はなく、親魏大月氏王も卑弥呼の親魏倭王と同様に大月氏系諸国を統括する王という意味なのだろう。
帥升の倭国王にも『後漢書』倭伝の大倭王や卑弥呼の親魏倭王、あるいはヴァ―スデーヴァの親魏大月氏王と同じ意味があって、倭人の国々を代表する王とみるのがよいだろう。倭国という国名が中国史書に正式に現れるのは「倭の五王」からだ。