私のブログ『邪馬台国と面土国』

部族と青銅祭器 その7

HP版 邪馬台国と面土国 は古代史を探求します

卑弥呼の支配領域は冊封体制によって六百里四方(260キロ四方)に制限されていた。従って邪馬台国=畿内説が成立することはない

王畿思想

中国に王畿思想といわれているものがある。世界の中心に中国の王(天子・皇帝)の住む王城があって、王城を中心とする四方五百里まで(方千里)を王畿、または国畿という。

国畿の外周には五百里四方の内臣の分封される領域があり、さらにその外周に夷狄と呼ばれている異民族の住む国があるという考え方だ。『周礼』巻二十九に次のように記されているという。

乃以九畿之籍、施邦国之政職。方千里国畿、其外方五百里曰候畿、又其外方五百里曰旬畿、又其外方五百里曰男畿、又其外方五百里曰采畿、又其外方五百里曰衛畿、又其外方五百里曰蛮畿、又其外方五百里曰夷畿、又其外方五百里曰鎮畿、又其外方五百里曰蕃畿

五百里四方を畿と言い、その畿は帝都を中心にして遠方になるに従って五百里ごとに、候・旬・男・采・衛・蛮・夷・鎮・蕃に九区分される。


候・旬・男・采・衛・蛮の6畿には内臣が封じられたがこれを六服と言う。夷・鎮・蕃には外臣が封ぜられてこれを蕃服という。蕃服には東夷・南蛮・西戎・北狄の別がある。

それぞれ期年を定めて、定められた貢物を納入する義務があった。

候服  一年一度   祀物  
旬服  二年一度   嬪物
男服  三年一度   器物
采服  四年一度   服物
衛服  五年一度   材物
蛮服  六年一度   貨物
蕃服  一世一度   貴宝

候服の貢納品が祀物であることからみて、候服は王(天子・皇帝)と祭祀を同じくする一族なのだろう。また旬服の貢納品が嬪物であることから旬服は王の外戚だと考えられる。

倭人は蕃服で一世に一度、貴宝を納入すればよかったが、107年には面土国王の帥升が生口160人を献上し、239年には卑弥呼が男生口4人・女生口6人・班布2丈を献上している。


王畿思想がどのように実行されていたのかは、具体的にはよく判っていないとされているが、東京大学教授だった西嶋定生氏が提唱している冊封体制のことだと思えばよい。

冊封体制は羈縻政策(きびせいさく)とも言い、
土着民の有力者に中国の官職を授けて懐柔する一方で、土着民相互の競争を助長して中国に敵対する大勢力が出現するのを阻止しようとするものだ。

畿が五百里四方で諸侯に与えられる領地であるのに対して、稍は三百里四方で大夫に与えられる領地だが基本的な考えは畿と同じだ。この稍こそ冊封体制(羈縻政策)を象徴しているが『魏志』東夷伝の評語も九服の制に言及しており単なる観念ではない。

書に称す、「東、海に漸り、西、流沙に被ぶ」と。其の九服の制、得て言ふべきなり。然して荒域の外、重訳して至る足跡・車イの及ぶ所に非ず

九服の制は東の海(日本海)から西の砂漠に及んでいるが、その外側の荒域には中国と交渉ない所があるというのだが、東夷諸国については九服の制が適用されており、それは倭人にも適用されていた。


107年の面土国王帥升の入貢に対して、後漢王朝は帥升を倭国王に冊封している。239年の卑弥呼の入貢に対しては、魏王朝は卑弥呼を親魏倭王に冊封している。

千里は三百里


九服の制における五百里四方は「方千里」と称されていたが、この五百里はさらに百里ごとに細分化されそれぞれに名称があった。三百里までを「稍」と言いまた「方六百里」とも言った。

日本では出世することを「一国一城の主になる」というが中国ではこれを「千里を得る」と言い、長い橋のことを「千里の橋」言う。また駿馬のことを「千里の馬」という。中國では大きい、長い、広いと意味の形容詞として千里を用いているが、千里には国という意味もあるようだ。

支配領域が広いことを千里と形容したが、転じて国のことを千里と言うようになったのだろう。「稍」の場合には三百里を千里と称し、「方六百里」を「方二千里」と称している。

だが倭人伝と韓伝の場合には三百里ではなく百五十里を千里と称している。その理由はよく分からないが他の諸伝の「方二千里」が韓伝では「方四千里」になっている。

帯方郡と関係のある国の千里は百五十里(65キロ)だが、遼東郡・玄菟郡と関係のある国の千里は三百里(150キロ)になっている。郡によって違いがあるのだろう。



図は諸橋轍次編『大漢和辭典』第七巻1135ページ【畿】の項にある図を改変している。稍の意味を調べているうちに「王城を去ること三百里」という意味と、太夫の食封という意味のあることが解かってきたが、まさか漢和辭典にこのような重要なヒントがあるとは思っていなかったから見逃すところだった。

『大漢和辭典』は数十年に及ぶ歳月を費やして完成された世界最大の漢和辞典で「諸橋大漢和」と称され大修館書店から出版されている。

収録されている文献は実に膨大で他にも重要なヒントが隠れているとは思っていたが、最近古田武彦氏の著作で邪の文字に
「斜めに」「東北につづく」という意味があることを知った。『大漢和辭典』はどこの図書館にもあるのでぜひ当たってみていただきたいと思う。


それによると五百里四方を「方千里」と言い、また「都」ともいうが、「都」は王(天子・皇帝)の兄弟や子、つまり諸侯に食封(生活費)として与えられた面積のようだ。八百里(四方四百里)は「縣」と言われ、三公(総理大臣級)の食封だったのではないかと考えている。

方六百里(四方三百里)は稍と言い、『大漢和辭典』の【稍】の項には『正字通』を引用して
「王畿六遂、三百里外為稍地、太夫之所食也」とあって、太夫に食封として与えられる面積だ。

太夫は王・候・太夫・士という身分のうちの太夫のことで、漢代には俸給が身分を表すようになり三公クラスは万石、太夫クラスは二千石と呼ばれるようになることが考えられる。二千石が地方行政官に任命される場合には州の長官の刺史や、郡の長官の郡太守に任命される。

方四百里(四方二百里)は「遂」と呼ばれ諸侯の妻に食封として与えられる面積のようだ。『正字通』には「王畿六遂」とあるが、六遂で王畿になるというのだろうか。計算が合わないようにも思えるが何等かの関係がありそうだ。

方二百里(四方百里)は「郷」と呼ばれ、士の身分の者に与えられる面積ではないかと考えている。郷は近郷五十里と遠郷百里に分かれるが、士には下士と上士があるのだろう。


後に都・県・郷は日本でも行政単位になるが、中国の行政単位には郡があって、前漢時代に州が加わる。稍と遂は行政単位にならなかったが、稍は郡の面積と考えられるようになり、遂は県の面積と考えられるようになるようだ。


漢代には俸禄が身分を表すようになって、太夫は二千石と呼ばれるようになるが、二千石が郡太守に任命されたことから、太夫の食封の稍と二千石の郡太守の支配する郡が同義と考えられるようになって、その考え方が3世紀にも残っていたようだ。


秦の始皇帝は一族や功臣に封地を分け与えて国とする制度を廃止して、全国を36の郡に分け官僚を派遣して統治した。これを郡県制というが県は郡の下部単位だった。秦が滅んで前漢時代になると皇帝の一族の封地である国と、官僚を派遣して統治する郡が並存するようになるが、これを郡国制と呼んでいる。

郡国制ではこれが14の州に纏められるが、郡国制への移行で郡と国の面積が共に稍、つまり方六百里と考えられるようになり、県の面積は遂、つまり方二百里と考えられるようになると思われる。


前漢時代には内臣の王に任ぜられると郡が封地として与えられたが、これを国と称しその王は郡王と呼ばれる。しかし前漢王朝は諸侯の勢力が強くなって周王朝が滅んだことを教訓として、内臣の王には政治権力を持たせなかった。

国の支配権は皇帝が握っており、国には太夫を派遣して統治したので、郡王は国から得られる租税を受け取るだけの存在でしかなかった。

外臣の王(異民族の王)の場合には支配権は王にあったが、その支配地はやはり稍に制限された。郡太守がその国を支配することはなく、郡太守は外臣の王の支配する国との外交々渉を担当した。


内臣の王の国も郡太守が統治する郡も、その面積はいずれも稍だった。もちろん稍よりも大きな郡・国もあれば小さな郡・国もあるが、郡の大小にかかわらず郡と稍は同義とされているようだ。

同じ三百里でも時代によってその実定値は変わるが、実定値が変わっても太夫、あるいは二千石が王城を起点とする三百里まで、つまり六百里四方を支配するという考え方は変わらなかったようだ。




卑弥呼も例外ではなく支配地は稍に制限されていた。図の黄枠が六百里四方になるが卑弥呼の王城が筑前朝倉に在ったのであれば狗奴国(肥後と肥前西半)の大半が卑弥呼の支配領域になる。

狗奴国がこれを認めるはずはなく、このことが女王国と狗奴国の不和の関係の原因になっていたようだ。女王国は正始6年に帯方郡に使者を送りこのことを魏に訴えている。

根拠のない推察になるが狗奴国も呉にこのことを使者を送って訴えたのではないだろうか。そうなると女王国と狗奴国の関係は魏と呉の関係になってくる。

正始8年に張政が黄幢・詔書を届けに来るが、黄幢は率善中郎将の難升米に軍事権が追加付与されたことを意味する。魏の皇帝は難升米に黄幢・詔書を与えて狗奴国討伐を許可したのだ。

私は狗奴国の官の狗古智卑狗を『古事記』の大気都比売、『日本書紀』の保食神だと考えている。どちらも食物を司る神だが大気都比売はスサノオに殺され、保食神はツキヨミに殺されている。(ブログ 大気都比売)

スサノオが大気都比売を殺すのは高天ヶ原を追放されて出雲に降るころのこととされているが、私は天岩戸の神話を卑弥呼の死と台与の協立を意味するとする説に同意したいと思っている。

そうであれば黄幢・詔書が届いた正始8年から間もないころに、スサノオの追放に相当する政変があり、そのころに難升米は狗古智卑狗を殺すことが考えられる。


外臣の王の支配領域を無制限に許したら衛氏朝鮮や公孫氏の例のように中国に敵対するものが現れてくる。稍は260キロ四方だが、卑弥呼の支配領域も冊封体制によって九州の北半と中国地方の西部に制限されていた。

東松浦半島(末盧国)と大和の間は稍の2倍の500キロはある。九州と畿内との間の中国・四国地方(出雲)にも国があることを想定しなければならず邪馬台国=畿内説は成立しない。当然のこととして中国・四国地方に邪馬台国があるとする説も成立しない。

多元王朝説


古代および中世の日本列島に複数の王朝と大王が並立・連立して存在したとする仮説を多元王朝説と言っているが、大和朝廷を中心として王朝が各地に分布していたという説と、大和王権と九州倭王朝の両勢力が並立して存在していたとする九州王朝説に分かれる。




その多元王朝説に稍という考えが影響し介在しているようだ。図はその多元王朝を想定したものだが、それぞれの王朝の発生期にはトーテム(象徴物)があったという前提によるものだ。

中国の王朝は異民族の王の統治領域を稍に制限していたが、それを具体化したものが冊封体制だ。冊封体制の職約(義務)に隣国が中国に使節を送り入貢するのを妨害してはならいというものがあった。

紀元前150年ころ衛氏朝鮮は辰国・真番(黄海道)を支配下に置き、前漢に入貢しようとするのを妨害するようになるが、前漢の武帝はこの職約を口実にして衛氏朝鮮を滅ぼしている。

冊封体制は冊封を受けた国だけでなく、自動的に周辺の国にも及ぶようになっていた。倭人の国で中国の冊封を受けていたのは図の筑紫だけだったが、 冊封体制は自動的に隣国の出雲や大和に及んでいた。

そのために倭には六百里四方の複数の国があったが、このことから多元王朝説が出てきたと考えることができる。上図の円が稍になるが神話でもそれぞれが国であったように語られている。

図の円は直径280キロで作図している。三百里は260キロだが260キロで作図すると円の間に20キロ程度の空隙ができる。空隙があると図として不自然なので280キロで作図したが、概念・概要としては間違いではないと思う。




ちなみに邪馬台国は銅矛・銅戈の分布する筑紫にあったとするのが九州説であり、近畿式銅鐸・三遠式銅鐸の分布する大和・尾張にあったとするのが畿内説だと言える。銅剣が分布する出雲や吉備、あるいは貝輪の見られる日向とする説もある。


『旧唐書』は唐の成立(618年)から滅亡(907年)までの約300年間の出来事を述べているが、その中に「倭国伝」と「日本国伝」があり、その「倭国伝に次の文がある。

其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國

この文には7世紀ころのことが述べられているようだが、倭国は東西南北がそれぞれ数千里で、西と南は大海であり東と北には大きな山があり、その山の外側は毛人の国だとしている。



この文では倭国の西と南は大海であり東界と北界には大きな山があることになっている。図の赤線は中央構造線を表し、青線はフォッサマグナの東限を表しているが、北界の山が中央構造線のようには思えない。

このように考えると北の山は日本アルプスなどを、また東の山は富士山などを言っていると見ることができそうだ。つまり糸魚川−静岡構造線の東に毛人がいるというのだろう。これは七世紀ころのことだ。

では3世紀にはどうだっただろうか。東日本には毛人が住み西日本に倭人の形成する5ヶ国か6ヶ国があったが、多元王朝説はその倭人の5ヶ国か6ヶ国に、それぞれ邪馬台国があったと主張していると考えればよいだろう。


私は266年の倭人の遣使は神武天皇が行ったものであり、それから間もないころに大和朝廷が成立すると考えるが、邪馬台国は北部九州にあったと思っている。

つまり多元王朝説は成立しないと思うのだが、これが邪馬台国の位置論争の一因になっているとは言えるだろう。最近では畿内と北部九州との間の中国・四国地方に邪馬台国があったとする説が盛んになっているようだ。


それには四国山上説・山陰説・吉備説などがあるが、これは畿内説・北部九州説に今一つの説得力が不足しているから、その中間の中国・四国ならよいだろうというだけのことだけで、根拠らしいものはない。


「水行十日・陸行一月」を援用すれば小銅鐸の分布する東海地方にも邪馬台国があるとすることができるが、神話には東海地方は登場してこない。有角石斧の分布する関東北部に邪馬台国があったとすることもできるが、さすがにそのような説は見受けない。

東北王朝説というものが見られるが、東北地方にはトーテム(象徴物)が見られれず、弥生時代の東北地方に倭人の王朝があったようには思えない。そこは「蝦夷」(毛人)と呼ばれるようになる人々の、異質の世界だった。


卑弥呼が魏から授かった親魏倭王という称号には107年の帥升の倭国王と違って国の文字が入っていない。これは女王国の王を意味しているのではなく、複数存在している六百里四方の倭人の国を、魏の皇帝に代わって統括する王という意味の称号のようだ。

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