私のブログ『邪馬台国と面土国』

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韓伝・倭人伝の1里は65メートルだ

韓伝・倭人伝以外は三百里


稍に「王城を去ること三百里」という意味と「方六百里」と言う意味があることを知った時に頭に浮かんできたのが東夷伝の千里は実際には三百里ではないかということだった。

しかし当時の一里を434メートルとすると三百里は約130キロになるが、韓の「方四千里」は520キロ四方になって、どのように見ても韓伝・倭人伝の千里は半分の65キロ程度にしかならない。そこで韓伝・倭人伝以外の諸伝にも当たってみた。

正始6年(245)、当時玄菟郡太守だった王キ(斤+頁)は幽州刺史の討伐をうけて逃亡した高句麗王の位宮を追撃するため相当数の軍勢を率いて玄菟郡冶を出立し、夫余の国都付近まで行っている。

図の赤線はその際の王キの経路を想定したものだが、さらに王きは沃沮を経由してユウ婁の南境まで進んでいる。この経路では三百里が千里とされている。

東夷伝には7条(伝と通称されている)があるが、韓伝・倭人伝以外の5条に見える距離は、南沃沮と北沃沮の間が八百里とされている以外は全て千里あるいは千余里で、その面積は例外なく「方二千里」とされている。

この千里、あるいは「方二千里」はそれらの国の実際の距離や面積ではなく、魏がその国の領土として認めている地域ということで、換言すると支配領域が制限されていたということだ。

西嶋定生氏によると冊封された諸国の君主は、
定期的に朝貢すること 中国の要請に応じて出兵すること 臣礼を尊守すること等の義務を課されていたという。臣礼を尊守する義務の中に「隣国が遣使・入貢するのを妨害してはならない」というものがあった。

前漢の武帝は衛氏朝鮮が隣国の真番や辰国(辰韓)の遣使を妨害したので、
この義務に反しているとして紀元前108年に衛氏朝鮮を滅ぼし、その地に楽浪など4郡を設置している。冊封体制は自動的に隣国に及ぶようになっていた。

その隣国の定義が「王城を去ること三百里」以遠の地域だ。図は韓伝・倭人伝以外の5条に見える国々を推定したものだが、円の半径が三百里、直径が六百里でこれが稍になる。



『魏志』夫余伝の地理記事を検討してみると、夫余には夫余王の支配する西側部分と、夫余王の季父(年齢の近い叔父)親子の支配する東側部分があるようで、そのように考えないと理解できない。245年には夫余王が季父親子を殺している。

郡冶・国都の比定は山尾幸久氏の説を参考にしているが、遼東郡冶(遼東郡役所)の襄平城(遼寧省遼陽付近)と玄菟郡冶(遼寧省撫順付近)との間が三百里になる。

遼東郡冶の襄平城と高句麗国都の丸都城(遼寧省集安付近)の間がおよそ六百里だが、この六百里は遼東郡冶と高句麗国都から、それぞれ「王城を去ること三百里」の地点に両国の国境があることを意味する。

同様に玄菟郡冶と夫余国都の間も六百里で、「王城を去ること三百里」に両国の国境があるという意味だが、山尾幸久氏は玄菟郡冶を遼寧省撫順付近とし、夫余国都を吉林省農安付近としている。

この場合には玄菟郡冶と夫余国都の間は六百里ではなく九百里になる。これについては夫余国都は農安付近ではなく東遼河流域ではないかと思っている。下図では夫余の位置を東遼河流域としている。




明代には万里の長城から東に伸びる柳条片牆という長城が築かれ、また清代には城門を備えた国境があった。上図は城門を備えた清代の国境だが遼寧省開原付近で南北に分岐しており、南に伸びるものは西朝鮮湾に達し、北にも伸びるものは吉林省吉林市の北の第二松花江に達している。

3世紀当時にあっても清代の国境付近を境にして漢民族と鮮卑などの遊牧民、及びツングース系狩猟民の東夷が住み分けていたのだろう。三方を囲んだ国境内に漢人の遼東郡と玄菟郡があり、西に烏丸・鮮卑などの遊牧民が住み、東に東夷諸国があったようだ。

清代の国境は開原付近で南北に分岐しているが、この分岐点に玄菟郡と夫余との国境の長城があったようだ。また南に伸びる清代の国境が遼東と高句麗の国境でもあったと推察できる。

図は遼東郡冶と玄菟郡冶の位置関係、及び高句麗・夫余との位置関係をイメージするために、あえて三百里を100キロとして作図しているが、魏・晋代の1里は454メートルだから三百里は130キロになる。130キロで作図すると遼東郡・玄菟郡の郡域は図の清代の国境内一杯になる。

韓伝・倭人伝は百五十里


韓伝と倭人伝以外の諸伝は魏里の三百里を千里と称し、方六百里を「方二千里」と称しているが、韓伝と倭人伝の場合は魏里の三百里を二千里と称し、方六百里を「方四千里」と称している。つまり韓伝と倭人伝の千里は魏里の百五十里でありそれは65キロになる。



図は狗邪韓国は金海・釜山付近ではないことを説明するために作図したものだが、韓の方四千里を260キロ四方として作図している。朝鮮半島と九州の間が三千里とされているが、これは195キロになる。

壱岐の南北17キロが三百里であれば一里は57メートルになり、対馬上島の南北25キロが四百里であれば一里は63メートルになるが、この場合の一里は60メートル程度になる。

上図で明らかなように韓伝・倭人伝の千里は65キロだ。千里が65キロなら狗邪韓国の七千余里は馬韓と弁韓の境界の巨文島付近になる。釜山までは一万里になるが釜山・金海は狗邪韓国ではない。

これらのことを見ていくと、遼東郡・玄菟郡と関係のある場合の千里は三百里だが、帯方郡と関係のある場合には百五十里になることが考えられる。つまり郡によって違いがあるのだ。

これについては204年ころ、公孫氏が楽浪郡の南部を分割して帯方郡を設置した時に、百五十里を千里としたものがそのまま残っているのだと考えている。文獻にはないが楽浪郡でも千里は百五十里であることが考えられる。

公孫氏は魏・呉両大国に対して二股外交を行ったが、 現在の一里が中国・朝鮮・日本で実定値が違うように、自分の支配領域を大きく見せて勢力を誇示したかったのではないだろうか。

方位・距離の終点は国境

千里が65キロなら狗邪韓国の七千余里は馬韓と弁韓の境界付近になり、釜山までは一万里になるが、そこから三千里の海を渡ると末盧国までは万三千里になる。

狗邪韓国は金海・釜山付近ではなく巨文島付近でなければならないが、これは七千余里は馬韓と弁韓の境界までの距離だということだ。


私は対馬北水道の渡海地点については巨済島から対馬の浅茅湾に渡る実線のコースを考えているが、実線のコースでも末盧国までは万二千里になる。倭国までの万二千里の終点は末盧国の海岸であり「従郡至倭」の行程の終点も邪馬台国ではなく末盧国の海岸だ。

また伊都国以後は万二千里にも「従郡至倭」の行程にも含まれず「自女王国以北」の国になる。このことに関して古田武彦氏の『邪馬台国はなかった』(昭和46年、朝日新聞社)に簡潔な見解があるので引用してみよう。

「郡」とは「帯方郡冶」(郡の役所の所在地。京城付近)である。これに異論はない。けっして「帯方郡境」などから、というのではない。
 同様に、「倭に至る」とは「倭国の首都」に至る、という意味だ。倭国の国境(例えば狗邪韓国)や首都への中間地点(たとえば伊都国)に至る、というような表現ではない。倭国の場合は?婁や?などの場合と異なり、明白に首都を認識し、記載しているのであるから、この一句は「倭国の首都に至る」と解するほかないのである。
 中国史書のルールからして、これは明白な道理だ(略)


方位や距離の起点・終点は首都であって国境や中間地点ではないとされ、それが「中国史書のルール」だとされている。これが常識でありこの考えは誰も否定しないだろう。これに異を唱える説を見たことがない。

そこで畿内説では纏向遺跡や箸墓古墳が邪馬台国の首都とされ、九州説では吉野ヶ里遺跡や平塚川添遺跡が首都とされるのだが、ところが『魏志』東夷伝には全く異なった「稍」というルールがある。

稍には「王城を去ること三百里」、あるいは「方六百里」という意味があるが、三百里の起点は王城だが終点は国境になる。隣接する稍の王城までは六百里であって三百里ではない。東夷伝の地理記事はすべてこのルールに従って記されているが、それは方位・距離の起点は王城(首都)だが、終点は国境などの境界だというものだ。

倭人伝に見える奴国の百里や不弥国の百里、あるいは伊都国の五百里も国境までの距離だ。この場合の一里は434メートルではなく65メートルで百里は6.5キロになるが、これが国都間の距離である訳がない。

農耕民は定住するから方位・距離の地点・終点は定住地になる。ところが遊牧民は草を求めて移動するので定住地はない。その場合の方位・距離の起点は現在地だが、終点は隣りの住民の仮定された現在地になる。双方の仮定された現在地の間には境界があり、その境界までが自分に許されている移動範囲になる。


中国の北部に国境を重視する地理観が存在していたのだ。秦の始皇帝は万里の長城を築いたがこれは定住地を持たない北方遊牧民に対応するものだった。定住する農耕民には長城を築こうなどと言う発想は生まれない。

古田氏は
倭国の場合は明白に首都を認識し、記載しているとするが、「水行十日・陸行一月」が首都を明白に認識していると言えるだろうか。万二千里は卑弥呼の宮殿までの距離ではなく倭国の国境までの距離だ。
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