私のブログ『邪馬台国と面土国』
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『魏志』夫余伝の地理記事を検討してみると、夫余には夫余王の支配する西側部分と、夫余王の季父(年齢の近い叔父)親子の支配する東側部分があるようで、そのように考えないと理解できない。245年には夫余王が季父親子を殺している。
郡冶・国都の比定は山尾幸久氏の説を参考にしているが、遼東郡冶(遼東郡役所)の襄平城(遼寧省遼陽付近)と玄菟郡冶(遼寧省撫順付近)との間が三百里になる。
遼東郡冶の襄平城と高句麗国都の丸都城(遼寧省集安付近)の間がおよそ六百里だが、この六百里は遼東郡冶と高句麗国都から、それぞれ「王城を去ること三百里」の地点に両国の国境があることを意味する。
同様に玄菟郡冶と夫余国都の間も六百里で、「王城を去ること三百里」に両国の国境があるという意味だが、山尾幸久氏は玄菟郡冶を遼寧省撫順付近とし、夫余国都を吉林省農安付近としている。
この場合には玄菟郡冶と夫余国都の間は六百里ではなく九百里になる。これについては夫余国都は農安付近ではなく東遼河流域ではないかと思っている。下図では夫余の位置を東遼河流域としている。
明代には万里の長城から東に伸びる柳条片牆という長城が築かれ、また清代には城門を備えた国境があった。上図は城門を備えた清代の国境だが遼寧省開原付近で南北に分岐しており、南に伸びるものは西朝鮮湾に達し、北にも伸びるものは吉林省吉林市の北の第二松花江に達している。
3世紀当時にあっても清代の国境付近を境にして漢民族と鮮卑などの遊牧民、及びツングース系狩猟民の東夷が住み分けていたのだろう。三方を囲んだ国境内に漢人の遼東郡と玄菟郡があり、西に烏丸・鮮卑などの遊牧民が住み、東に東夷諸国があったようだ。
清代の国境は開原付近で南北に分岐しているが、この分岐点に玄菟郡と夫余との国境の長城があったようだ。また南に伸びる清代の国境が遼東と高句麗の国境でもあったと推察できる。
図は遼東郡冶と玄菟郡冶の位置関係、及び高句麗・夫余との位置関係をイメージするために、あえて三百里を100キロとして作図しているが、魏・晋代の1里は454メートルだから三百里は130キロになる。130キロで作図すると遼東郡・玄菟郡の郡域は図の清代の国境内一杯になる。
韓伝と倭人伝以外の諸伝は魏里の三百里を千里と称し、方六百里を「方二千里」と称しているが、韓伝と倭人伝の場合は魏里の三百里を二千里と称し、方六百里を「方四千里」と称している。つまり韓伝と倭人伝の千里は魏里の百五十里でありそれは65キロになる。
図は狗邪韓国は金海・釜山付近ではないことを説明するために作図したものだが、韓の方四千里を260キロ四方として作図している。朝鮮半島と九州の間が三千里とされているが、これは195キロになる。
壱岐の南北17キロが三百里であれば一里は57メートルになり、対馬上島の南北25キロが四百里であれば一里は63メートルになるが、この場合の一里は60メートル程度になる。
上図で明らかなように韓伝・倭人伝の千里は65キロだ。千里が65キロなら狗邪韓国の七千余里は馬韓と弁韓の境界の巨文島付近になる。釜山までは一万里になるが釜山・金海は狗邪韓国ではない。
これらのことを見ていくと、遼東郡・玄菟郡と関係のある場合の千里は三百里だが、帯方郡と関係のある場合には百五十里になることが考えられる。つまり郡によって違いがあるのだ。
これについては204年ころ、公孫氏が楽浪郡の南部を分割して帯方郡を設置した時に、百五十里を千里としたものがそのまま残っているのだと考えている。文獻にはないが楽浪郡でも千里は百五十里であることが考えられる。
公孫氏は魏・呉両大国に対して二股外交を行ったが、 現在の一里が中国・朝鮮・日本で実定値が違うように、自分の支配領域を大きく見せて勢力を誇示したかったのではないだろうか。
千里が65キロなら狗邪韓国の七千余里は馬韓と弁韓の境界付近になり、釜山までは一万里になるが、そこから三千里の海を渡ると末盧国までは万三千里になる。
狗邪韓国は金海・釜山付近ではなく巨文島付近でなければならないが、これは七千余里は馬韓と弁韓の境界までの距離だということだ。
私は対馬北水道の渡海地点については巨済島から対馬の浅茅湾に渡る実線のコースを考えているが、実線のコースでも末盧国までは万二千里になる。倭国までの万二千里の終点は末盧国の海岸であり「従郡至倭」の行程の終点も邪馬台国ではなく末盧国の海岸だ。
また伊都国以後は万二千里にも「従郡至倭」の行程にも含まれず「自女王国以北」の国になる。このことに関して古田武彦氏の『邪馬台国はなかった』(昭和46年、朝日新聞社)に簡潔な見解があるので引用してみよう。