なぜ青銅祭器が埋納されたのかについては、土中保管・境界埋納・廃棄・隠匿・神への贈与などの諸説があるが、おおよそ次の三つにまとめることができる。
(1)集落の統合により寄せ集めて埋めた
(2)神の恩恵を願って大地の神へ大量の贈与である
(3)邪悪なものが境界から入ってこないように祈った
三品彰英氏は銅鐸は地霊や穀霊の依代(よりしろ)であり、大地に納めておくことが大切なことで、銅鐸を掘り出すことは地霊・穀霊を地上に迎えまつること(地的宗儀)であり、まつりが終わると再び大地へ埋め戻されたとする。
やがて古墳時代を迎えると鏡に代表される天の神、日の神のまつり(天的宗儀)にかわり、銅鐸は土中に放置されたままになったと説明している。今日では(3)の境界に埋めることで邪悪なものが境界から入ってこないように祈ったとする説も有力だ。
私は青銅祭器は「宗廟祭祀の神体」だと考えている。氏族・宗族は共通の始祖を持つ人々の集団だから、始祖を神として祭る宗廟祭祀が重視されていた。私にはこのことが全く考えられていないのが不思議でならない。
古代中国の周王の姓は姫氏だが、周王は姫氏の宗廟祭祀を主催することによって他の姫姓の諸侯を支配していた。諸侯は姫氏の宗廟祭祀に参加する義務があるだけで主催することはできなかった。
周王と諸侯の違いはそれだけでその他の点は対等だったが、そのために諸侯の力が強くなり周は滅ぶことになる。周を滅ぼした秦は徹底した法冶国家で、宗廟祭祀を重視することはなかった。
前漢の武帝は儒教を国教とすることで、周の宗廟祭祀中心の統治と秦の法治中心の統治を融合させようとした。このように中国では宗廟祭祀が重視されていたが、儒教の影響を受けた朝鮮では現在でも族譜を編纂・刊行することまで行われている。
紀元前108年に武帝が楽浪郡を設置すると倭人も前漢の冊封体制下に入るが、儒教の影響を受けて倭人も宗廟祭祀を重視するようになると考えられるが、中国では間もなく仏教が流入してくる。
倭人の宗廟祭祀は儒教と仏教が融合した形になっていくようだ。日本の場合には神社が氏族の宗廟祭祀の場だったが、仏教が定着したことにより祖先祭祀は寺院で行われるようになる。
儒教の祖先祭祀では五世代までは各家の祭祀だが、六世代以前は氏族の祭祀になりそれは始祖にまで遡るようだ。日本では祖先の供養は仏式で行うことが一般的だが、仏壇に安置されている位牌は五世代までで、六世代以前の位牌は一つの位牌に纏められている。これは儒教の影響を受けている。
私は神社が現在のような形態になるのは『古事記』『日本書紀』が成立して、神話の神を祭神として祭るようになってからだと考え、それ以前には大和朝廷に最初に服属した者を氏族の始祖とし、これを氏神として祭っていたと考えている。
氏族の始祖の墓が古墳だが、古墳が出現したことにより宗廟祭祀の場は古墳に移り、従来の宗廟祭祀の神体だった青銅祭器は不要になった。こうしてすべての青銅祭器は埋納されることになる。
氏姓姓以前の元来の神社は氏族の祖先祭祀の場だったが、仏教が定着したことで神社は稲作の豊穣、あるいは安穏な暮らしを祈願する場になっていく。
部族は宗族の族長階層が通婚することで形成されるが、部族は通婚関係の生じた宗族に対しては青銅祭器を配布してこれを承認した。青銅祭器の配布を受けた宗族はこれを神体として祖先祭祀を行っていた。
宗族が所有している青銅祭器を見れば、その宗族がどの部族に所属しているかが解り、その形式から所有している宗族が置かれている、部族内部でのランクさえも解ったと考えている。
古い形式の青銅祭器を祭る宗族はそれだけ歴史も古いのだが、また部族長と同じ形式の青銅祭器を祭っている宗族は政治の中枢に近いことになる。
弥生時代の終焉と共に青銅祭器は埋納されるが、それに代わって銅鏡が神体になる。そのために青銅祭器が埋納された弥生末から古墳時代初頭には大量の銅鏡が必要になった。弥生末には絶対数が不足したので後漢鏡を数個に分割した分割鏡や、メダルのような小型鏡が造られた。
中国の王朝は服属してきた首長にそのことを表す称号と印綬を与えたが、3世紀後半に成立した大和朝廷も同様のことを行った。その称号が国造・県主・君などの姓(かばね)であり、印綬に相当するのが銅鏡だと考える。
その銅鏡が問題になっている三角縁神獣鏡だと考えるが、三角縁神獣鏡には卑弥呼の時代の年号銘の見られるものがあり卑弥呼が魏から貰った100面の銅鏡がこれだと言われている。
卑弥呼は「親魏倭王」であって「親魏倭国王」ではない。これは魏の皇帝の名代として倭人を統括する王という意味であって、100面の銅鏡は倭人の有力者に再配布されたが、形式上では魏皇帝が配布したことになっていたと思う。
三角縁神獣鏡は初期の大和朝廷によって鋳造された国産鏡だが、初期の大和朝廷は卑弥呼(天照大神)の王権を継承していると称しており、それを表すために卑弥呼の時代の鏡を模鋳したと考える。三角縁神獣鏡は同時に魏が大和朝廷を認証していることを表しただろう。
三角縁神獣鏡が威信財としての価値を持っていたのは、いわゆる「欠史八代」の間だろう。第10代崇神天皇の別名を「ハツクニシラススメラミコト」というが、これについては『日本書紀』崇神天皇紀に四道将軍の派遣の記事があり、大和朝廷の支配が全国規模にまで拡大したことを「初国知らしし天皇」と称讃したと言われている。
崇神天皇以後になるといわゆる「皇別」と言われる氏族も出てきて、大和朝廷は魏とは関係のない自立した統治体だと考えられるようになり、三角縁神獣鏡は威信財としての価値を失い副葬されると考える。
副葬されるのは4世紀の後半のことだと考えているが、卑弥呼との年代差は100年になる。三角縁神獣鏡を卑弥呼の貰った100枚の鏡だとする説はこの100年と言う年代差を無視しているし、その出土数も100枚をはるかに超えている。
考古学に於いても弥生時代に神殿と考えられるものの存在が知られているが、その神殿でどのような祭祀が行われていたかについては確かな説がない。吉野ヶ里遺跡では北内郭と呼ばれる区域の大型建物の床下から銅戈が出土しているが、銅戈は大型建物で行われていた宗廟祭祀の御神体だ。
氏族の宗廟祭祀が行われる場所が神社だが、島根県出雲大社の摂社、命主神社境内で出土した銅戈と勾玉などのように、青銅祭器が神社の境内から出土した例は多い。
また神社が所蔵している青銅祭器も、これまた相当数にのぼるが、なかには神社に所蔵された由来の明らかでないものや、現在でも祭礼に使用されている例も指摘されており、なかには一度も埋納されることなく祭祀が続けられているものがあると考えてみる必要がある。
徳島県西祖谷山村鉾神社では銅鐸が神体に準ずるものと見なされ、祭礼のさいにはその存在が確認されるという。高知県窪川町高岡神社では銅矛5本が祭礼に用いられおり、一本が一つの集落を表すとされているという。対馬でも同様の例が知られている。
それには日本の民族宗教とも言うべき、神道との関係を考えてみる必要があるだろう。國學院大学教授の大場磐雄は神道考古学を提唱したが、これには抵抗を感じるむきもあるだろう。しかし青銅祭器については必要なことだと思っている。
同じ國學院大学教授の佐野大和氏は神道の発生、成育を表のように纏めていて、神道が発生するのは弥生文化期とされている。
時期 | 佐野説 | 私の考え |
縄文文化期以前 | 前(プレ)神道期 | 神道の原形が流入 |
弥生文化期 | 神道発生期 | 部族制下の神道 |
古墳文化前期 | 神道生育期 | 大和朝廷の成立 |
古墳文化後期 | 神道成立期 | 氏姓制下の神道 |
仏教渡来以後 | 神道整備期 | 『記』『紀』の成立 |
律令制下の神道 |
右側が神道に対する私の考えだが、『後漢書』倭伝は倭人の風習が膽耳・朱崖(広東省海南島)と同じだと述べている。柳田國男は東南アジア・江南の文化が沖縄・西南諸島を経由する「海上の道」によって伝播してきたとしている。
そこには沖縄・南西諸島の「ニライカナイ」に見られるような「海と山」の文化があり、祖先崇拝や物に宿る聖霊を崇拝するアニミズム、巫女、覡が下す神意を尊重するシャーマニズム、あるいは神社や鳥居など、原始神道(神道の原型)が黒潮に乗って流入してきたと考えられている。
祖先崇拝には、祖先の霊の依り代である神像などの「神体」を祭りの対象にすることが行われているが、倭人は中国・朝鮮半島の青銅器を受け入れ、宗族の祖先崇拝の祭祀の場で細形の青銅器、銅鐸、銅鏡を神体にするようになると考える。
紀元前49年に即位した前漢の元帝は儒教を信奉したが、それから王莽の時代の半世紀は儒教を基本とする周以前への回帰が盛んに言われ、その政治は「託古改制」と言われている。
王莽の統治は儒教の理想を先行させる現実を無視したものだったので社会を混乱に陥れた。それが前漢、新、後漢の王朝交替の背景になっているが、その反面では儒学が中国の国教として定着した時期でもあり、春秋・戦国時代になくなった社会秩序が、儒教によって「礼」という形で復活したとされている。
儒学は葬儀の礼式が発展したものだと考えられており、孔子は礼を重視している。礼とは具体的には礼式、儀式、格式を重んずるということになる。以後、礼は中国の王朝秩序の中で生活する人々が従わなければならない、具体的な社会的行動規範になっていく。
あらゆる行為が一定形式の規範に合致することが求められ、それは宮廷の儀式から庶民の冠婚葬祭に至るまで細かく規定され、礼によって理想的な社会秩序が実現するとされた。
当時の倭人が儒教を知っていたとは思えないが、冊封体制における礼として受け入れていたことは考えられてよい。『漢書』王莽伝には東夷の王が海を渡ってきたとあるが、王莽が西暦14年(天鳳1)年に鋳造した「貨泉」が日本の弥生遺跡からも出土する。
倭人社会の祖先崇拝も儒教の礼の観念を受け入れたことにより格式、礼式を重んずる盛大な宗廟祭祀になったことが考えられる。倭人は前漢王朝に対する貢納の返礼の品として青銅器を入手していたが、儒教の宗廟祭祀を重視する思想を受け入れたことにより、祭器に進化させると考えている。
それは元帝から王莽の時代で、このころ銅鏡・銅銭を除く青銅器の流入が止まるようだ。それは青銅器を祭器として鋳造するようになって、武器としての価値がなくなったからだろう。もちろん鉄器が普及したこともあるだろう。
孔子は礼と共に楽(音楽)を重視しているから、その宗廟祭祀は奏楽が加わった、いわば鳴り物入りのにぎやかなものであったことが考えられる。今でも神社の祭礼は礼式であり、笛、太鼓の奏楽がつきものだ。
私は今の神社の祭礼は儒教の礼、楽が流入してきたことにより成立し、それと共に祭器化した青銅器が宗廟祭祀の神体になると考える。元来の銅鐸も宗廟祭祀の場での奏楽の道具だった。
銅鐸は中空の鐘で、中空の部分に舌がつるされ、鐸身内面の凸帯と舌が当たることによって音が出すが、古い銅鐸は凸帯が摩耗、あるいはつぶれていて、盛んに鳴らされたと言われている。また鐸身の表面も摩耗していて、たえず磨かれていたことがわかり、初期の銅鐸は鳴らすことを目的にした実用品だったと考えられている。
初期の銅鐸は儒教の楽が実践されていたことを表していると考えることができるが、それがいつしか楽器から宗廟祭祀の神体になっていくと考える。九州では中細形の銅剣・銅矛が副葬品として出土することがあるが、銅鐸が副葬されていることはない。
実用品の青銅器が祭器に変わるのは銅鐸が最初だろう。儒学が倭人社会に受け入れられていたことを表していると考えることができそうだが、武器形青銅器が祭器になるのも礼の思想が受け入れられたからだと考えることができる。
中国では殷・周時代に宗廟祭祀の供物を盛る青銅製礼器が独特の発達を見せている。私は中国の青銅礼器は王が諸侯に下賜したことから、日本の青銅祭器も王が支配下の宗族に下賜したのではないかと考えてみた。
しかしそうすると、同時期、同一地域に複数の王が存在することになり、王が複数だと国としてまとまらない。そこで考えたのが配布したのは王ではなく部族ではないかということだった。そのように考えるようになったのは大場磐雄氏の『銅鐸私考』を読んだことに始まる。
中細形の青銅祭器が鋳造されたのは中期で、中広形と広形は後期だと考えられているが、とすれば中細形が中広形に変わる時と中期が後期に移る時とは一致する可能性がある。私はそれを紀元90年ころとだと考えている。
銅矛・銅戈 | 銅剣 | 銅鐸 | |
百余国の時代 | 細形 | 細形 | 朝鮮式小銅鐸 |
奴国王の遣使 | 中細形a類 | 中細形a類 | 福田型 |
奴国王の時代 | 中細形b類 | 中細形b類 | 菱環鈕式 |
面土国王の遣使 | 中広形a類 | 中細形c類 | 外縁付鈕式 |
面土国王の時代 | 中広形b類 | 中広形 | 扁平鈕式 |
卑弥呼の時代 | 広形a類 | 突線鈕式 | |
台与の時代 | 広形b類 | ||
大和朝廷成立 | 埋納 | 埋納 | 埋納 |
57年の奴国王の遣使と107年の面土国王の遣使との間のある時、おそらくは105年ころに奴国王から面土国王へ政権が移るが、このことが中細形が中広形に変わるきっかけになっているのだろう。
剣形祭器が九州にあまり見られないのは、北部九州では奴国王を擁立した部族が衰退し、面土国王を擁立した部族が優勢になったことを表している。奴国王を擁立した部族が配布したのは銅剣であり、面土国王を擁立した部族が配布したのは銅戈だった。
57年の奴国王の遣使のころ中細形b類が配布されており、銅剣を配布した部族もb類銅剣を配布したが、c類が配布されたころに奴国王の退位があり、それに伴って剣族の中枢は北九州から出雲に移っていったと考えることができる。
中広形と広形は後期に造られたとされている。私は倭国大乱を境にして後期を前半と後半に分け、面土国王が倭王として君臨した70〜80年間が後期前半で、後期後半は卑弥呼や台与の時代と考えている。
面土国王が遣使した二世紀前半には中広形a類が造られ、倭国大乱の予兆が見えてきたころに中広形b類が造られたと考えることができ、卑弥呼が女王になると広形a類が造られ、卑弥呼死後の争乱以後に広形b類が造られたことになる。
広形になると銅戈は三本ほどと極端に少なくなり、逆に銅矛が増加しており、広形銅矛にa類とb類があるのに銅戈にはa類とb類の区別がない。面土国王が卑弥呼に倭王の位を譲ったことにより銅戈が減少することが考えられ、銅戈を配布したのが面土国王を擁立した部族であったことを示している。
武器形祭器の広形b類が造られた後、神武天皇の東遷があり大和朝廷が成立すると、部族は解体されて氏族に再編成される。再編成された氏族は最初に大和朝廷に服属した者を始祖としたが、その始祖の墓が初期の古墳だと思われる。
部族の行っていた宗廟祭祀は古墳の祭祀に変わっていくのだが、古墳の祭祀が始まると青銅祭器は無用の長物になってくる。そこで青銅祭器の埋納が行われるのだが、埋納地点の近くに初期の古墳があることが多いのはこのためだ。
大国主神族 | 扁平鈕式・突線鈕式銅鐸 |
事代主神族 | 菱環鈕式・外縁付鈕式銅鐸 |
少彦名神族 | 福田型銅鐸 |
イザナギ神族 | 銅矛 |
イザナミ神族 | 中細形・中広形銅剣 |
オオヤマツミ神族 | 中細形銅剣c類・平型銅剣 |
九州のスサノオ神族 | 銅戈 |
近畿のスサノオ神族 | 大阪湾型銅戈 |
大場氏は銅矛を使用した氏族を阿曇氏としている。阿曇氏は福岡県志賀島の志賀海神社を祭る氏族だが、弥生時代の安曇氏は銅矛を配布した部族を支配していた有力な宗族だ。もちろん阿曇氏以外にも銅矛を使用した宗族が存在しているが代表格が阿曇氏だ。
大場氏は銅鐸を配布した部族を「出雲神族」と呼んでいるが、私は「大国主神族」とするほうがその性格を正しく表現できると思っている。そのような意味で銅矛を配布した部族を「イザナギ神族」と呼ぶのがよいと思う。
安曇氏の奉祭する綿津見三神はイザナミの禊祓いで生まれたとされ、『古事記』によると同時に住吉神社の筒之男三神など22柱の神が生まれたとされている。このうちの天照大神・ツキヨミ・スサノオ以外の19神がイザナギ神族だと考える。
天照大神・ツキヨミ・スサノオの3神は次の高天ヶ原神話の主人公なので19柱の神と共に生まれたとされているようだ。これは女王制を主導したのはイザナギ神族(銅矛を配布した部族)だったということだろう。
銅矛は筑紫に多くみられることから一名を筑紫矛ともいわれているが、このことからも知られるように銅矛は筑紫、ことに玄界灘沿岸を中心にして分布している。分布は後背地の肥前、肥後、豊前、豊後から海を渡って中国、四国に及んでいる。
玄界灘沿岸のうちでも対馬の青銅祭器の分布密度は異常に高く、総数135本にのぼる銅矛が見られる。青銅祭器が神社の近くで出土し、それを神社が所蔵している例は多いが対馬では上県郡峰町の海神神社6本
、金子神社13本、下県郡豊玉町の和多都美神社6本など数が多く、また海神を祭る神社に多いという傾向が見られる。
対馬の銅矛は海洋祭祀具といった性格が強いように感じられる。倭人伝は対馬国について「良田無く海物を食して自活す。乗船して南北に市糴す」と記している。米がないので船に乗って交易して買い入れているというのである。
対馬の宗族にとって船は「浮宝」であり、宗族はそれぞれ交易船を所有していたのだろう。船一艘は宗族と同等の価値を持っていると考えられていて、青銅祭器はその船がどの部族に属しているかを示していたのではなかろうか。
対馬には「和多都美」と名のつく延喜式内社が四社あり、また玄界灘周辺では住吉三神も祭られている。銅矛の分布と住吉海人、阿曇海人・那珂海人(筑前那珂郡の海人)などの海人の活動する地域が重なる。大場氏が銅矛を使用した氏族として阿曇氏に着目したのはこうしたことによるのだろう。
大場氏は銅剣を使用した氏族を物部氏としていると推察している。物部氏は古代氏族のなかでも他を圧して同族が多く活躍の跡も著しいが、その同族の分布は九州北部を中心にして筑後川を遡って豊後の直入郡・大分に達している。さらに豊後灘を渡り、伊予四国の北岸を縫って讃岐に達している。
北部九州では副葬品としての銅剣(細形)の出土は多いが、祭器としての銅剣(中細形以後)がほとんど見られない。このことについては銅戈がクリス型銅剣と呼ばれて、銅剣の一種だと考えられていたことを考慮する必要があるだろう。
いずれにしてもその少ない銅剣の出土するのは、古い物部氏伝承地のある遠賀川流域と大分平野に限定されている。新人物往来社刊『日本史総覧』によるとその出土地は次のようになっている。
福岡県遠賀郡岡垣町 中広形1本
田川市糒上の原 中細形3本が別々に出土
山門郡瀬高町 中細形か? 甕棺から出土
大分県大分市円生岡清水ヶ迫 平形1本
大分市浜 中細形4本
宇佐郡安心院町 峯部分のみ 箱式石棺から
伝大分県 中細形1本
長崎県上県郡峰町 中細形 行方不明
九州の物部氏の分布から見れば佐賀平野、筑後平野にもっと銅剣がなければいけないが、まったくと言えるほどない。しかも箱式石棺からの出土が多く埋納されたものは少ない。
これは中細形b類が製作された段階で銅剣の分布の中枢が山陰や瀬戸内に移ったことによるが、それは1世紀末に奴国王家が滅び、面土国王に政権が移ったことによると考えている。
山陰では島根県大田市の物部神社以外には物部氏の痕跡はあまり見られず、358本もの銅剣が出土した出雲の荒神谷遺跡や、瀬戸内に分布している平形銅剣は物部氏と無関係のように思われる。
煩雑になるが後述する「筑紫の蚊田」に目を通していただきたいと思う。私は応神天皇と物部氏は共に奴国王の末裔ではないかと思っているが、奴国王が神話のイザナミのようだ。
火の神迦具土を生んだために神避り(神が死ぬこと)したイザナミは出雲に葬られたとされている。これは山陰で中細形銅剣C類が鋳造されるようになったことを示しており、銅剣を配布した部族を「イザナミ神族」と呼ぶのがよいと考える。
天照大神が天の岩戸に籠った原因になったとして高天ヶ原を追放されたスサノオは出雲に下り、娘を呑む八岐大蛇を退治してクシイナタヒメを妻にしたとされている。私は八岐大蛇については「邪馬台のおろ霊」だと理解している。
部族は通婚関係の生じた宗族に青銅祭器を配布したが、強引な通婚が娘を呑むと語られていると考える。荒神谷遺跡から出土した16本の銅矛を大蛇に呑まれた娘と考えて、邪馬台とは銅矛を配布した「イザナギ神族」のことだと考えるのだ。
オロチのオロとは愚かということであり、チは精霊と言う意味だと考えて、2世紀末の倭国大乱が出雲を中心とする中国・四国地方に波及したことを表していると考えている。
大乱の結果、北部九州では卑弥呼が共立されるが、出雲でも王が共立されると考える。その王が出雲神話のスサノオだと考えるのだが、同様のことが吉備についても言えるようだ。
卑弥呼は銅矛を配布した「イザナギ神族」と銅戈を配布した「スサノオ神族」によって共立されたが、出雲の王は銅剣を配布した「イザナミ神族」と銅鐸を配布した「大国主神族」によって共立されたと考える。
出雲神話のスサノオと筑紫神話のスサノオは別個のものであり、出雲神話のスサノオは面土国王ではないが、出雲には有力な王権が存在したので物部氏が勢力を伸張することができなかったのだと考える。
太田亮氏は中国地方の南岸、つまり山陽に有力な物部氏族が少ないのに反し、四国の北岸には物部氏の同族が多いとし、その物部氏が祀る布都神社を結ぶ線上に物部氏の勢力があると指摘している。
四国北岸の平形銅剣は物部氏と関係があるとすることができるが、私は中国・四国地方の銅剣は物部氏よりもオオヤマツミを始祖として祭っていた氏族を考えるのがよいと思っている。
九州の銅剣はイザナミ神族が配布したが、中国・四国地方の銅剣はオオヤマツミ神族が配布したとするのだが、これには出雲に葬られたイザナミとオオヤマツミとが結びつかないという難点がある。
いずれにしても銅剣とオオヤマツミは関係している。瀬戸内にはオオヤマツミを祭る愛媛県今治市大三島の大山祇神社とその末社が多い。平形銅剣は大山祇神社を中心とする瀬戸内中央部に分布している。
また中国地方では出雲・吉備の山間部を中心にして八岐大蛇の伝承があるが、スサノオが八岐大蛇を退治して妻にするクシイナタヒメの祖父とされているのがオオヤマツミで、下図の黄色に塗りつぶした地域にオオヤマツミの伝承がみられる。
図の赤点は青銅祭器の出土地点だが、出雲の斐伊川流域(緑色部分)には見られるものの、その周辺(黄色部分)には出土地の明確なものが見られない。ことに備後・安芸の江の川流域には多数の四隅突出型墳丘墓が見られるのに青銅祭器がないのはおかしい。
私は荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡の合計410点の青銅祭器は黄色に塗りつぶした地域から回収され埋納されたために、この地域に青銅祭器が見られないのだと考えている。そこは八岐大蛇の舞台であり、オオヤマツミの活動する所だ。
下は昭和51年に調査された国別のスサノオを祭る神社数だが、これを見ると備前・備中・備後・美作の吉備4国の総数は2881社で全体の20パーセントになる。吉備に隣接している国にも多いが、意外なことは出雲が144社で37位、筑前は288社で13位であることだ。
1位 備中1012社 2位 武蔵858社 3位 備後845社
4位 美作685社 5位 播磨526社 6位 伊予522社
7位 伊勢421社 8位 美濃383社 9位 阿波375社
10位 下野333社 11位 備前330社 12位 伯耆308社
備前は11位と少ないが、おそらく吉備4国の総数2881社の多くは黄色に塗りつぶした地域にあるだろう。それはこの地域が八岐大蛇の神話の舞台であり、オオヤマツミの活動する所だからだ。
上の図は島根県教育委員会編『出雲古代文化展』図録から引用させて頂いたものだが、右下に図の説明がある。それが面白いので引用してみよう
神庭荒神谷遺跡に青銅器を埋めて青銅の神と決別した出雲は、全国に先駆けて、吉備とともに大きな墓を作ることによる「王」の神格化に成功した。しかしほかの地域は青銅器そのものをさらに巨大化させることによって、青銅の神をまつり続けようとしていた。
荒神谷遺跡で出土した最も新しい青銅祭器は中広形銅矛b類12本で広形銅矛はなかった。中広形は後期前半に鋳造され広形は後半に鋳造されたと考えられているが、私は2世紀末の倭国大乱を境にして中広形から広形に変わると考える。
広形銅矛にはa類とb類があるが、a類は卑弥呼の時代に、またb類は台与の時代とそれ以後に鋳造されたと考えている。広形銅戈にはa類とb類の区別がなくその数も極めて少ないが、卑弥呼を共立したことにより銅戈を配布部族が劣勢になったことを表している。
上図は卑弥呼・台与の時代の状態を示しているが、同じ時期の出雲の王がスサノオから大国主に至る6柱の神になる。大国主はホノニニギに国譲りをすることになっているが、ホノニニギは『梁書』『北史』に見える台与と並び立つ男王だ。
説明文には「青銅器を埋めて青銅の神と決別した出雲は、全国に先駆けて、吉備とともに大きな墓を作ることによる「王」の神格化に成功した」とあるが、島根県出雲市の青木遺跡では「見る銅鐸」の飾り耳の部分が女性の頭骨の近くで出土している。
鳥取県の青谷上寺地遺跡でも同様の例が見られ、これは青銅祭器を神体とする宗廟祭祀はその後も行われていたということだと考えている。ただ自分たちで銅剣を鋳造することはなく、銅矛・銅鐸の流入も拒否したと考えるのだ。
スサノオから大国主に至る6柱の神に相当する王による統治が浸透し、新たに青銅祭器を配布する必要がなかったのだろう。既存の青銅祭器が荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡に埋納されるのは大国主の国譲りの時だと考える。
銅鐸を配布した部族を中心にして部族が統合された結果、大和を中心にした大和朝廷が成立するが、もしも銅矛を配布した部族を中心にして部族が統合されていたら、北部九州を中心にした大和朝廷とは別の統治体が出現していただろう。
出雲に銅剣を配布した部族を中心とする朝廷が出現していたかも知れない。出雲の王はその決定権を握っていたことが考えられる。