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私のブログ『邪馬台国と面土国』

投馬国

投馬国は筑後だ

卑弥呼死後の男王


投馬国の記事に「水行二十日」とあるものの、これが倭国内を移動する距離であるはずはない。だが水行とあるから投馬国が海に面した国だということは明らかだ。宗像の南の海といえば博多湾か有明海になるが、博多湾沿岸は邪馬台国だから投馬国は有明海に面した筑後と考えなければならない。

戸数二万の奴国は鞍手・嘉麻・穂波三郡だと考えているが、一郡当たりの戸数は約7千戸になる。この比率から見ると戸数7万の邪馬台国は10郡、5万の投馬国は7郡程度の広さであることが考えられる。その面積比からみて投馬国は筑後全体だと考えるのがよいだろう。

筑後は10郡だが筑後川下流部は感汐域が広くて、干拓が進んでいなかった時代には稲作の可能な地域が狭かっただろう。また北部の郡は郡域が狭く、最も広い上妻郡の大部分が山地であるために、郡数のわりに戸数が少ないようだ。

上図は地勢と国名の関係を示したものだが、当時、筑後川の下流部は広大な湿地帯だったことが考えられているが、投馬国という国名は、土着豪族の水沼君の姓の水沼や三潴郡(みずまぐん)の「潴」とおなじ、低湿地帯を意味する国名だと考えている。

卑弥呼が上座郡(甘木・朝倉)を国都にしたのは、共立されたという経過からも分かるようにどの国に対しても中立でなければならなかったからだ。上座郡の北は筑前を三郡山地で東西に2分したときの東半でそこには奴国や面土国があった。また筑前の西半が邪馬台国の主要部分だ。

上座郡の東は豊前・豊後になり西の肥前にも近い。そこには国名のみの21ヶ国があった。南は投馬国になる。

下図は私の想定する神話の舞台だが、三郡山地の東側がイザナミとスサノオの活動の場であり、西側がイザナギと天照大御神の活動する場になっているようだ。それに対してツキヨミの活動する夜之食国は筑後だと考える。
      

神話ではイザナギとイザナミ、天照大神とスサノオが対立する関係にあるように語られている。その対立はスサノオ・天照大神・ツキヨミの3貴子がオノゴロ島で誕生することから始まるが、オノゴロ島については志賀島だと考えている。

私は銅矛を宗廟祭祀の神体とした部族を神格化したしたものがイザナギであり、銅剣を神体とした部族を神格化したものがイザナミだと考えている。そして銅戈を神体とした部族を神格化したものがスサノオだと考える。すべての青銅祭器が埋納されて地上から姿を消すと銅鏡が神体になるが、これは天照大神を象徴している。

倭国大乱は銅矛を神体とする部族と銅戈を神体とする部族の対立だったが、それは筑前東半と西半の対立でもあった。投馬国はその対立の圏外にあったことから、その王族の卑弥呼姉弟が倭国を統治するようになると考えている。

投馬国の官は彌彌と言い副は彌彌那利というがいずれもミミの音を含んでいる。天照大神の子とされているオシホミミ(忍穂耳)もミミの音を含んでいるが、天照大神が卑弥呼であれば卑弥呼死後の男王はオシホミミになる。

卑弥呼が死ぬとその一族の彌彌が王になるが、「自女王国以北」の国々や面土国王はこれを認めず千余人が殺される争乱になった。そこで台与が王になり、卑弥呼死後の男王は投馬国の官の彌彌に戻るのだと考える。その彌彌の末裔が筑紫君磐井だと考えている。

継体天皇21年(6世紀前半ころ)、筑紫君磐井が火の国(肥前、肥後)、豊の国(豊前、豊後)に勢力を張って反乱を起こしたが、筑紫の御井郷(三井郡)で交戦し磐井は殺され、磐井の子、葛子は父の罪に連座するのを恐れて糟屋屯倉(福岡県糟屋)を献じて罪を贖ったと言われている。

磐井は継体天皇が卑弥呼(天照大神)の王権を継承していないと考えて、天皇が大和入りした翌年に蜂起したのだと思う。

磐井が生前に造っていたのが八女市の岩戸山古墳だとされていて、磐井の本拠は筑後八女郡だ。投馬国は八女郡を中心とした筑後であり、磐井は卑弥呼姉弟の末裔に当たるのではないかと考えている。

久留米市の高良大社の祭神、高良玉垂神は竹内宿祢だと言われているが、元来の祭神は卑弥呼の弟(ツキヨミ)か、あるいは卑弥呼死後の男王(オシホミミ)だと考えている。

国名のみの21ヶ国


面土国の存在を認めそれを宗像郡だと考えると、倭人伝が主として述べようとしているのは筑紫(筑前・筑後)であることが分かってくる。筑前を三郡山地で東西に2分した時の西半が邪馬台国であり、東半が「自女王国以北」になる。

そして筑後が投馬国になるが、稍は王城を中心にした地理観で、卑弥呼の宮殿よりも北が「自女王国以北」であり、南は「自女王国以南」になる。通説では投馬国も「自女王国以北」の国だと考えられているが、投馬国は「自女王国以南」の国になる。

国名のみが列記されている21ヶ国は筑前・筑後の周囲の豊前・豊後と肥前の佐賀平野部分にあった。肥前の長崎県部分は狗奴国に属していたようだ。それらの国は方位・距離が省略されているが、下図のようになると考えている。

筑前 @斯馬=志摩 
豊前 A巳百支=企救 B伊邪=京都 C都支=仲津 D彌奴=筑城 E好古都=上毛 F不呼=下毛 G沮奴=宇佐 
肥前 H対蘇=基肄 I蘇奴=養父 J呼邑=三根 K華奴蘇奴=神崎 L鬼=佐嘉 M為吾=小城 N鬼奴=杵島 
豊後 O邪馬=日田 P躬臣=玖珠 Q巴利=速見 R支惟=大分 S烏奴=大野 21奴=直入

このような比定を行うようになったのは国名と後世の郡名に似ているものがあったからだ。ことに豊後は8郡のうちの5郡がよく似ている。

@斯馬=志摩 K華奴蘇奴=神崎 N鬼奴=杵島 P躬臣=玖珠 Q巴利=速見 R支惟=大分 S烏奴=大野 21奴=直入

豊後大分郡については『豊後国風土記』に景行天皇が巡幸した時に碩田国(おほきたのくに)と名付けたものが訛ったとされている。オオイタではなくオオキタだというのだが、Rの支惟はキイと読めばよいのだろう。

豊後の国崎郡と海部郡も国を形成していた可能性があるものの該当する国がない。その理由として国崎郡は宇佐氏と関係があり、また海部郡は大神氏と関係があることを挙げたい。

国崎郡は周防灘の制海権を持つ宇佐氏の祖の支配を受けてGの姐奴国(宇佐郡)に属していたと考えるのだ。
国東半島には宇佐で生まれた八幡信仰と古代仏教が融合した、六郷満山文化と言われているものが見られる。このことに見られるように国崎郡と宇佐郡には密接な関係がある。

海部郡は豊後灘の制海権を持つ大神氏の祖の支配を受けてSの烏奴国(大野郡)に属していた。海部郡の海部氏と大神氏が同族であることはよく知られている。このことが後に宇佐神宮の祭祀権を巡る宇佐氏と大神氏の対立に繋がっていくと推察している。

女王国は筑前・筑後・豊前・豊後、及び、肥前の佐賀平野部分で、肥前の長崎県部分は狗奴国に属していたと考えている。女王国が渡来系弥生人の国であるのに対して、狗奴国は縄文系弥生人の国だと考える。

国名のみの21ヶ国の最後の奴国については「自女王国以北」の奴国と重複しているとする説を見受けるが「自女王国以北」の奴国が遠賀川流域にあったのに対し、国名のみの21ヶ国の最後の奴国は豊後直入郡だ。

直入郡には大神氏の始祖とされる大神比義の伝承があるが、57年に遣使した奴国王の使者として大夫と自称したのは大神氏の遠祖のようだ。奴国王と大神氏は同族関係にあったようだ。

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