私のブログ『邪馬台国と面土国』
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私が筑前宗像郡に関心を持つようになったのは、高木彬光氏の『邪馬台国の秘密』を読んだことがきっかけになった。この小説では筑前宗像郡の神湊が末盧国に比定され、また邪馬台国は豊後の宇佐に比定されていて、宇佐神宮の鎮座する亀山が卑弥呼の墓だというものだ。
小説の前半では通説が紹介されているが、末盧国は佐賀県の唐津、伊都国は福岡県糸島郡の前原、奴国は福岡平野とされ、不弥国は宇美とされている。この通説には大きな矛盾があり探偵神津恭介が唐津から前原への陸行に不審を抱いたことになっている。
伊都国の津では文書や銅鏡百枚など賜遺の物が捜露されるというのだから、前原へ行くのならそのまま船で行けばよい。唐津湾に張り付いたような唐津と前原の間の陸路を、銅鏡百枚などの重い荷物を担いで陸行する必要はないというのだ。
そこで高木氏は末盧国を宗像郡の神湊とするのだが、宗像郡については不弥国とする説もある。一支国(壱岐)から末盧国への方位が書かれていないから末盧国が佐賀県東松浦半島だという通説には根拠がないことになり、高木氏の言うように宗像であることもあり得る。
宗像の歴史を見れば帯方郡使が宗像に上陸したことは十分に考えられることで、私は帯方郡使が宗像に上陸したという考えに強い関心を持った。伊都国・奴国・不弥国についての通説に矛盾があることは誰もが知っている。
しかし大多数の説はこの矛盾を黙認、ないしは無視・黙殺している。それは矛盾を無視・黙認すれば方位や距離を恣意的に解釈できて、自分の思う処を邪馬台国に比定することができるからだ。
だが矛盾を認めるとその説が矛盾の上に矛盾を重ねていることが露呈して成立しなくなる。そこで多くの説がこの矛盾を無視・黙認する口実にしているのが新井白石・本居宣長・白鳥庫吉・内藤湖南などの見解だ。
これら先学の説も『古事記』『日本書紀』がそう思わせようとしていることに立脚している。『古事記』は三韓を征伐した後の皇后が筑紫で応神天皇を出産する時の状景を次のように述べている。
即ち御腹を鎮めようとされて、石を御裳の腰に纏いて、筑紫国に渡りその御子を産まれた。故、その御子の生れた地を名付けて宇美(うみ)という。またその御裳に纏いた石は筑紫の伊斗村(いとのむら)にある。また筑紫の末羅県(まつらのあがた)の玉島里(たましまのさと)に到り、その河辺で食事をされた時・・・
いわゆる「鎮懐石伝承」だがこの文から通説が生まれた。これは地名起源説話であって、史実を語っているわけではないと思わなければならない。この文こそ邪馬台国の位置論を混乱させる最大の原因になっている。
『日本書紀』神功皇后紀も三十九年・四十年・四十三年条に『魏志』倭人伝を引用し、六十六年条に『晋起居注』を引用して、卑弥呼を神功皇后だと思わせようとしてしているが、これには両書が成立した当時の政治的意図が働いている。
『古事記』は712年(和銅5年)に、また『日本書紀』は720年(養老4年)に完成しているが、編纂が企画された直接の原因としては672年に起きた壬申の乱がありそうだ。
壬申の乱は大友皇子を推す中央豪族と、大海人皇子を推す地方豪族の対立だったという考え方があるが、壬申の乱や『古事記』『日本書紀』成立の背景に氏族間の対立があると思われる。このことについては追々に述べていく。
『邪馬台国の秘密』を読んだことで宗像に関心を持つようになった私は何度も神湊に足を運んだが、神湊の光景と倭人伝の末盧国の記述とが一致しなかった。宗像郡の中央を貫流する釣川流域の平地は広いとは言えないが、山が海に迫って人々が海岸に住んでいるという地勢ではない。
海岸沿いはむしろ砂丘地帯という感じがして、倭人伝の光景は明らかに神湊のものではない。末盧国については呼子とする説と唐津とする説があるが、これが唐津平野の光景だとも思えない。それは東松浦半島の呼子付近の光景こそ似つかわしい。
宗像郡の歴史から見て捜露が行われた津(港・湊)があった事は考えられるものの、倭人伝の記事には津が末盧国にあるとは書いてない。これは誤解だが通説でも津は伊都国にあると考えられている。
だが宗像が帯方郡使の上陸した場所であることは考えられることだ。宗像の東南の田川郡糸田町周辺に伊都に似た地名が集中している。糸田もそうだがその南には位登があるが、これは『倭名類従抄』などにみえる田河郡位登郷の残存地名で「いと」ではなく「いとう」と読むそうだ。
中元寺川を中心にして伊田、伊方、糸飛、伊加利、猪国、猪位金・池尻など「い」の音を含む地名が多く、その面積比も大きい。これらの地名は糸田町・田川市のあたりが伊都国の中心地であったことを表していると考えることができる。
糸田では青銅祭器の少ない遠賀川流域では珍しく大量の青銅祭器が出土していて、糸田町内銅矛10本、糸田町出ヶ浦銅戈6本、糸田町大宮銅戈9本、他に単独出土だが田川市糒の銅剣3本などがある。
遠賀川流域の青銅祭器がすべて糸田に集まっているように思えるが、青銅祭器の出土地の近くには弥生終末期の宗族を統括する政治的な実力者がいる。糸田が伊都国王の居た場所と考えてよいようだ。
倭人伝は伊都国について「郡使往来常所駐」と記しているが、田川郡の香春・鏡山周辺を中心にして赤染氏などの鋳銅技術を持った渡来人の伝承が濃厚に見られ、渡来人の分布は豊前の北半に広がっている。帯方郡使の留まったのは香春・鏡山周辺であることが考えられる。
田川郡香春町採銅所の宮原金山遺跡で箱式石棺4基が出土しているが、2基は小型で出土品はなかった。大型石棺1では舶載大型鏡1、小型内行花文鏡1、鉄剣(又は刀)が出土した。大型石棺2でも後漢後半の内行花文鏡2(大小各1)が出土している。
付近で北九州市の八幡方面、周防灘沿岸の行橋市方面、遠賀川流域の飯塚市・田川市方面への道路が分岐しているが、さらに南は私の考えている卑弥呼の宮殿のある朝倉や日田に至る。私は採銅所附近が一大率の常冶した場所だと考えている。
高木氏は直線行程によって伊都国を北九州市付近とし、奴国を中津付近として、邪馬台国を宇佐としているが、宇佐は宗像の東南であり、放射行程では邪馬台国=宇佐説は成立しない
倭人伝の地理記事が放射行程であれば、方位が東南とされている伊都国・奴国は宗像と宇佐の間に位置していることになる。私は宗像郡の東南の糸田町周辺に伊都に類似する地名が見られるのは放射行程だということだと考えた。
そして宗像郡と田川郡の間が「東南陸行五百里」であれば遠賀川の中流域を通過することになるが、福岡県下第2の大河の遠賀川流域に国がないのはおかしい。そこで伊都国は田川郡だが、遠賀川中流域の鞍手郡を「東南百里」の奴国とし、「東百里」の不弥国は下流域の遠賀郡とするのがよいと考えた。
つまり伊都国への「東南陸行五百里」のうちの百里は奴国の「東南百里」と同じコースで宗像郡内を通過する距離であり、残りの四百里が奴国内を通過する距離だと考えたのだ。
添付のGoogleマップを拡大して見ていただきたいが、飯塚市の東部に筑豊緑地があって、その東南隅に大山林道前というバス停がある。その東500メートルほどに「へび神さま」という記載が見える。そこには豊前・筑前の国境であることを示す3本の「国境石」がある。
私はここが律令制官道田河路の烏尾峠だと考えるが、同時にここが伊都国と奴国の国境であり「東南陸行五百里」の終点だと考えている。伊都国王は糸田町付近に居たであろうが、五百里の終点は伊都国王の宮殿ではなく伊都国と奴国の国境なのだ。
倭人伝の1里は70〜100メートル程度とされることが多いが私は65メ-トルと考えており、宗像郡のほぼ全域が百里圏内に入る。宗像市の東郷付近を起点にすると宗像郡と遠賀郡の郡境の城山峠までが百里になり、宗像郡と鞍手郡の郡境の猿田峠までも百里に近い。
このことからも東南百里の奴国は鞍手郡であり、東百里の不弥国は遠賀郡だと考えることができる。
猿田峠の付近で宗像・遠賀・鞍手の三郡の郡境が交わっているが、これは面土国、不弥国、奴国の国境が交わっているということで、倭人伝の国が律令制の郡になり、その国境が律令制の郡境になったことが考えられる。
これは律令制国・郡の原形が弥生時代にすでに存在していたということだが、倭人伝に見える方位・距離の終点は国都などの中心地ではなく国境だ。従来から倭人伝中の国については律令制の郡程度の広さであろうと言われてきたが、それを証明することが出来なかった。
以後、各国を比定していくうちにこのことがはっきりしてくる。もちろん後世に設置されたことの明らかな郡もあり、全てがそうだとはいえないが意外に多いと思われる。