私のブログ『邪馬台国と面土国』
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面土が港のことだと解ると宗像は末盧国ではなく面土国だと考えることが可能になって、末盧国は東松浦半島でよいと考えることができるようになった。宗像は朝鮮半島・中国との外交・交易の拠点だったことが考えられているが宗像の歴史はまさに港の国そのものだ。
その象徴とも言えるのが宗像大社だ。宗像市田島の辺津宮に市杵島姫、大島の中津宮に湍津姫、沖ノ島の奥津宮に田心姫が祭られている。祭神の三女神については天照大神とスサノオの誓約(うけひ)によって誕生したとされているが、『日本書紀』の一書は次のように記している。
すなわち日神の生んだ三柱の女神は葦原中国の宇佐嶋に降り居る。今、海の北の道の中に座す。名を道主貴という。これは筑紫の水沼君等が祭る神である。
スサノオの所持する剣を三つに折り、それを天照大御神が口に含んで吹き出すとその霧の中から三女神が生まれるが、三女神は葦原中国の宇佐嶋に降り立ち、今は海の北の道の中に鎮座しており、その名を道主貴というと述べられている。
この「宇佐嶋」が宇佐神宮であり、「海の北の道の中」が宗像大社だ。誓約の神話の舞台は宇佐であり宗像だが、スサノオと宗像には深い関係がある。白鳥庫吉は卑弥呼が天照大神と似ているとし、スサノオは狗奴国の官の狗古智卑狗だとしている。
ところが宗像に関しては3女神との関係が強調されるが、スサノオとの関係が話題になることはほとんどなく、スサノオについては出雲との関係ばかりが強調されている。これには『古事記』『日本書紀』が神功皇后を卑弥呼・台与だと思わせようとしていることが関係しているようだが、もっと宗像とスサノオの関係を考えてみる必要がある。
「海の北の道」とは元来、日本から朝鮮半島をさす語で『宗像神社史』は辺津宮、中津宮、奥津宮の三宮をへて、朝鮮半島に至る航路だとしている。響灘沿岸から沖ノ島、対馬の北岸を経由して、朝鮮半島に至る航路が存在したのだろう。道主貴とはその航路を守護している最高神という意味だ。
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この一書では水沼君などが祭る神とされているが宗像神社は宗像氏が奉祭してきた。この神話が示しているように宗像氏は海洋の民として活躍してきた氏族で、4世紀になると沖津宮のある沖ノ島で大がかりな海洋祭祀が始まる。
大和朝廷が朝鮮半島に進出するようになり、その進出を宗像氏が先導したことが考えられている。沖ノ島の海洋祭祀遺跡は質の高い大量の出土品が有ったことから「海の正倉院」と呼ばれていて、大和朝廷が直接に祭ったとも言われている。
三女神の神話は4世紀よりも以前に、宗像海人が朝鮮半島と交流していたことを表していると考えることができるが、宗像郡が面土国であればその交流は二世紀の初めにまで溯ることになる。私は紀元前1世紀の百余国の時代にはすでに交流は始まっており、56年の奴国王の遣使にも宗像海人が関与したと考えている。
弥生時代には宗族が女系(母系)で結合することによって形成された部族が存在し、部族は部族国家を形成していた。紀元前108年に朝鮮半島に楽浪郡が設置されると部族国家は前漢王朝の冊封体制に組み込まれるが、このころから部族は急速に巨大化し、青銅祭器を配布する部族が現れて王を擁立するようになる。
面土国王を擁立したのは銅戈を配布した部族だった。大和朝廷が成立すると部族は氏族に再編成されて消滅するが、面土国王を擁立した部族も再編成され、再編成された氏族のひとつが宗像氏であり、筑後の水沼君であり、宇佐神宮に関係を持った豊後の大神氏であることが考えられる。
御座船には浪切大幣が、他の船には紅白二流の旗が立てられる。10月1日に行われる「みあれ祭」では二隻の供奉船、それに七浦の漁船が神送船として紅白の旗、大漁旗を押し立てて、大島から神湊まで海上を航行するが、その壮観さはかつての宗像海人族の姿を思い起こさせる。
ミナガテ(御長手)について『宗像大菩薩御縁起』は、神功皇后の三韓征伐の時、宗像大神がミナガテを振り下ろすと高良大菩薩が乾珠を海に入れて潮を干し、ミナガテを振り上げると滿珠を入れて潮を満たしたと記している。
こうして戦いに勝った後、ミナガテを沖ノ島に立てておいたところそれは成長し続けたといい、またミナガテに付けていた旗は鐘崎の織幡神社の祭神になったという。
また竹内宿禰が作った紅白二流の旗をミナガテに取り付けたとも言われているが、これらのことからミナガテは竹で作られた旗竿であることうかがわれ、この旗は異国を征伐するための軍旗だったように思われる。
神社の特殊神事はかつての歴史上の事実を神事として伝えていると言われているが、御手長神事は二流の旗、または旗竿が宗像に上陸してくるのを宗像七浦の海人が出迎えたという、歴史上の事実が伝えられているようだ。
宗像に二流の旗、または旗竿がもたらされたことは歴史上の事実で、沖ノ島5号遺跡から東魏時代(6世紀)の金銅製龍頭一対が出土している。
龍頭は旗竿の先端につける飾り金具だが、卑弥呼は狗奴国の男王・卑弥弓呼と不和の関係にありこのことを魏に訴えた。それに対し魏は正始6年に難升米に黄幢を授与している。
黄幢は軍事指揮や儀仗行列に用いられる旌旗(せいき)
宗像大社神宝館の学芸員さんによると、この金銅製龍頭の東魏時代・6世紀という年代については見直しが必要だと言われているそうだ。3世紀の龍頭と6世紀の頭龍の違いなど私には見当もつかないが、3世紀まで遡る可能性はないのだろうか。
邪馬台国問題を解決するカギは卑弥呼に与えられた金印が出土することだという人がおり、志賀島から57年に奴国王に付与された金印が出土したことを考えると「あるいは難升米に与えられたものか?!」という気にもなってくる。
正始8年に帯方郡使の張政が難升米に黄幢を届けるために宗像に上陸したが、倭人伝の記事の多くはこの時の張政の見聞で、「御手長神事」の起源の一つに難升米に授与された黄幢が宗像に届いたことがあるようだ。
張政らは末盧国(東松浦半島の呼子付近か)に寄港しているが、張政が末盧国に滞在したのはこのことが宗像や邪馬台国に伝えられ、女王国の側でこれを出迎える準備をする間だっただろう。
準備が整うと女王は出迎えの船を出したが、それが「みあれ祭」の原形のひとつになっていると考えている。宗像海人だけでなく安曇の海人や住吉の海人も出迎えの船を出しただろうが、神事になったことで宗像だけにその遺風が残っていると考える。
末盧国での滞在は出迎えの船が来るまでの間だったが、それを通説では末盧国から陸行が始まると解釈されている。「草木茂盛して行くに先人を見ず」という中を陸行するわけはないのだが、倭人伝に面土国の名が見えないからそう解釈されるのは無理のないことだ。
もう一つの特殊神事に「五月会行幸神事」がある。この神事は宗像神社の象徴とも言える釣川河口に近い宗像市江口の浜殿(五月宮・皐月宮)の神事だが、浜殿は現在、江口の辻八幡宮に合祀されて礎石が残るだけになっている。
辺津宮本殿の神門前は池との間が東西に長い広場になっているが、中世にはここが長さ五十間の馬場だったと言われており、馬場の東端は釣川の川岸に達していたと考えられる。馬場が釣川と接するところを「御前の浜」と言い、付近に元の浜殿があったと言われている。
「御前の浜」はここが海岸だったことによる地名で、本来の辺津宮の正面は「御前の浜」だったと思われる。現在、宮前という地名があるが、宮前から祖霊社、万葉歌碑にかけての区域が「御前の浜」ではないかと思っている。
その昔の釣川流域は東郷のあたりまで湾入していたが、釣川の沖積により陸化したと言われており、そのため水面から離れることのできない浜殿は二キロ下流の現在地に移されたと言われている。
元来の浜殿は東南アジアの稲作地帯に見られるピーと呼ばれる祠や、宇佐市和間浜にある宇佐神宮の浮殿のような、水面上に浮かぶ高床式の神祠だったと思われ、船が神祠になったものだと考えることができる。
神事は宗像近在10社の神人が乗馬で集まり、浜殿にしつらえた五基の神輿に架け渡された緋色の綱を持つことによって神輿の霊と結縁を結ぶというもので、一時期再興されようとしたが祭事が大掛かりになるので行われなくなったという。
『宗像神社史』によると宗像五社(第一宮・第二宮・第三宮・織幡神社・許斐神社)の神輿が浜殿に着くと、神輿から「御上座」という胡床(腰掛け)が出されその前で祝詞が奏上される。胡床前で祝詞が奏上されるのは、胡床に座った貴人が想定されているのだろう。
その後、胡床を主体にした「饗膳事」という宴会が行われるが、これも胡床に座った貴人が想定されていて、輿に乗った貴人が船に乗るために港に着くと宗像近在の主だった人々が集まって来てセレモニーが行われたのだろう。そのセレモニーが五月会行幸神事になったと考えることができそうだ。
「御手長神事」が中国、朝鮮半島からの使者が宗像に着いた時、あるいは派遣されていた倭人の使者が帰国した時の光景であるのに対し、五月会行幸神事は中国、朝鮮半島からの使者が帰国する時、あるいは倭人の使者が出発する時の光景のようだ。
宗像神社の特殊神事は宗像の性格をよく表しており、二世紀から三世紀にかけての宗像も中国、朝鮮半島との交流の拠点になっていたことが考えられる。
宗像神社辺津宮の南の宗像山に高宮祭場がある。岩を四角に組んだ祭壇があるだけの簡素なものだが、磐境(いわさか)・神籬(ひもろぎ)と呼ばれる古形式の祭場で、社伝では天応三年(781)に辺津宮が創建されるまではここで海洋祭祀が行われていたという。高宮祭場の下に下高宮遺跡があるが、ここでは古墳時代の滑石製品、土器などの祭祀具が出土しており祭祀が行われていたことが分かっている。
高宮祭場も宗像大社の性格を象徴しているが、これらのことを考え合わせると、宗像大社の駐車場付近まで入海になっており、神宝館前広場にある万葉歌碑付近で釣川が入海に流入していたことが想定される。
付近の御前の浜という地名は、張政の乗った船が万葉歌碑付近に着岸したことを表しているのではなかろうか。本殿のある位置で捜露が行われ、高宮祭場で海洋祭祀が行われていたのだろう。捜露が行われ場所は忘れられておらず後に本殿が創建されるのだと考える。
帯方郡使の張政が上陸し、捜露が行われたのは宗像大社本殿付近だと考えるが、では倭人伝に見える「自女王国以北」の諸国の方位・距離の起点も宗像大社付近と考えてよいだろうか。
宗像大社付近を起点とすると東の遠賀郡の郡境までは百里と言ってよいが、東南の鞍手郡までは二百里にはなる。そこで元禄16年(1703)に貝原益軒が書いた『筑前国続風土記拾遺』に着目した。その中に宗像郡土穴村(宗像市土穴)の生目八幡宮の記事がある。
西ノ浦といふ所に在。産土也。宗像末社記に御船上社、また縁起に土穴若宮とあるは、此御社也。今民俗は目明八幡宮、まこ影清明神などといひて、俗説あり。信べからず。此邊昔は江口(玄界町江口)の邊より、江海來りて、船など着しとて、宮(生目八幡)の南の田の中に大碇、小碇などいふ處有。此社をいにしへ御船上社と云ひ。また向かひの田久村(宗像市田久)の境内に、御船漕社あり。是海邊なりし故也。是より江口迄、今は二里計の陸地なりといへども、其地勢を見れば、左も有ぬべく思はる。田圃の字にも、海邊の名多く残れり。
江口は釣川河口部の集落で「五月会行幸神事」の行われていた浜殿があったところだ。今は土穴から江口まで二里(八キロ)ばかりの陸地だが、昔は海で生目八幡宮の南に船が着いたというのだ。
土穴の生目八幡宮は御船上社だと言われており、田久の若八幡宮の境内に船宮神社があり、これが御船漕社だと思われる。御船漕社のある田久には大阿麻・甘の地名があって、海士が住んでいたことが考えられている。
土穴付近は宗像大宮司が住んだことから宗像大社の根本神領とされており、これらのことから張政の乗った船が着いたのは土穴の生目八幡宮の付近だと考えてみた。
だが今から4千7百年前の縄文海進期には海岸だったと言われているものの、弥生時代の海水面は現在と変わらないと言われており、玄界灘を渡って中国、朝鮮半島に行ける大型船が土穴まで行けるとは思えない。
そこで先に見たように船は宗像大社辺津宮の神宝館前広場にある万葉歌碑付近までは入って来たが土穴までは行けなかったと考え、張政は辺津宮付近の海岸に上陸して刺史の如き者(面土国王)の捜露を受けた後、徒歩かあるいは川舟かで土穴まで行ったと考えた。
先に不弥国=遠賀郡、奴国=鞍手郡、伊都国=田川郡という比定ができることを述べ、またその国境は律令制の国郡境の可能性のあることを述べたが宗像大社を起点にするのではなく、田熊から土穴にかけての地域が起点になっていると考えなければ現実の地理と合致しない。
倭人伝の百里は6.5キロだが図の赤線は田熊石畑遺跡を起点とする百里圏を示している。宗像郡のほぼ全域が百里圏内に入るが、奴国との国境は宗像郡と鞍手郡の郡境の猿田峠になり、不弥国の国境は宗像郡と遠賀郡の郡境の城山峠になる。
当初、『筑前国続風土記拾遺』の文と、土穴付近が宗像大社の根本神領とされて大宮司が居住していたとされることから、土穴付近が伊都国以後の方位・距離の起点になったと考えていた。
張政は伊都国に行くまでの間、この館に逗留しここでの逗留中の見聞が倭人伝の地理記事、風俗記事になったと考たが、それを証明するものは他にはなかった。
ところが平成20年に土穴の西3キロほどの、田熊石畑遺跡で細形の武器形青銅器15本が出土した。付近では以前に四本が出土しており合計19本になったが、これは福岡市の吉武高木遺蹟の11本を凌いで最多だ。
この青銅器の時期は中期前半のものとされているが、一般に中期前半は紀元前2世紀だと考えられている。私は半世紀ほど新しく見ており、『漢書』地理志に「夫楽浪海中有倭人,分為百余国。以歳時来献見云」と見えている、百余国の時代の紀元前1世紀のものだと考えている。
細形の青銅器が祭器化して中細形に変わるのは、紀元前49年に即位した元帝の時代から西暦紀元前後の王蒙の時代に、儒教が中国の国教として定着したことと関係していると思っている。
儒教では宗廟祭祀が重視されるが、私は中国の冊封体制を通じて儒教の宗廟祭祀を重視する思想を受け入れたことが、青銅器を祭器に変えていく原因になっており、また日本の民族宗教とも言える神道が成立する要因にもなったと考えている。
氏姓制の古墳時代になると、最初に大和朝廷に服属した者を始祖とする神道が成立して宗廟祭祀は氏族の行なう氏神の祭りに変化し、その神体は青銅祭器から鏡に変わり、すべての青銅祭器が埋納されて姿を消すのだと考えている。
武器形青銅器は玄界灘沿岸だけでなく、山口県の響灘沿岸にも分布しているが、田熊石畑遺跡で武器形青銅器15本という最多の出土があったのは、倭人の百余国の中心になっていたのが田熊石畑遺跡だったということだろうと思っている。
4世紀になると宗像大社沖津宮のある沖ノ島で、大和朝廷の直祭とも言われる大規模な海洋祭祀が行われるようになるが、その出土品の量と質から「海の正倉院」と言われている。
この沖ノ島祭祀遺跡を中心にして世界遺産登録の動きが出ているが、沖ノ島が玄界灘の孤島であることや、沖津宮の祭祀形態が特殊であることなど問題点があるものの、世界遺産に値することは認められよう。
田熊石畑遺跡と沖ノ島祭祀遺跡の始まりとの間の、肝心かなめの2世紀、3世紀の遺跡の発見がないのが残念だが、田熊石畑遺跡を中心とする2〜3キロ以内に面土国王の居館と、正始8年に張政が伊都国に行くまでの間に逗留した建物があるはずだ。
付近は相当に開発が進んでおりすでに消滅していることも考えられるが、田熊石畑遺跡の発見の例もある。世界遺産登録を絡めてのことだが、周辺の開発には細心の注意が必要なようだ。
田熊石畑遺跡の東南300メートルには5世紀に釣川流域最大の東郷高塚古墳が築かれている。田久の隣の曲に「鑰」という地名があるが、これは宗像郡衙の倉庫があったことによる地名だと考えられており、付近に宗像郡衙があったことが考えられる。
また現在は東郷に宗像市役所があって弥生時代から現代まで釣川流域の中心は東郷・土穴付近だと考えてよいが、伊都国以後の方位・距離の起点になっているのも土穴・田熊付近だと思ってよい。