私のブログ『邪馬台国と面土国』
kyuusyuuhukuoka.blogspot.jp/
『魏志』倭人伝に見える方位・距離の起点・終点については国都などの中心地だとされていて、末盧国については呼子、あるいは唐津だとされる。伊都国の中心地は前原とされ奴国の中心地は春日市の須玖岡本遺跡付近だとされている。
邪馬台国の中心地についても九州説では吉野ヶ里遺跡などが、畿内説では纒向遺跡などが考えられている。しかし起点は中心地だが終点は国境・海岸・大河川などの境界だ。著名遺跡があることが邪馬台国の位置を決める根拠のように考えられているが、傍証にはなるだろうがそれが決定的根拠とは言えない。
図はこの考えが誤りであることを説明するために作図したものだが、狗邪韓国は釜山・金海付近だとされていて異説はなく、これが間違いだとすることはできないように思える。帯方郡については黄海道の沙里院とする説もあるが一般に漢江流域とされている。
帯方郡の郡冶は京城附近とされ、倭国への万二千里の起点、すなわち「従郡至倭」の行程の出発地点は漢江河口部の仁川付近だと考えられている。そうであれば韓の「方四千里」は漢江流域以南になる。
上図はその「方四千里」を示しているが、朝鮮半島と九州との間が三千里とされているからこれは認められなければならない。四千里は260キロになり、三千里は195キロになる。
朝鮮半島と九州の間の三千里(195キロ)は済州島と東松浦半島との間の直線距離になるが、通説になっている釜山と呼子の間だと三千五百里にはなる。私は前者を考えているが千里は65キロで、これは魏の時代の百五十里になる。
『魏志』倭人伝は帯方郡(仁川)から「乍まち南」し、さらに「乍まち東」して七千余里で狗邪韓国に到るとしているが、その狗邪韓国は釜山・金海付近だと考えられている。
倭人伝に「至其北岸、狗邪韓国、始度一海千余里、到対海国」とあるが、この文からすると朝鮮半島から対海国への渡海地点は狗邪韓国になり、他には考えようがない。
だが韓の広さが方四千里であれば「乍まち南」する距離は六千里以上になるはずで、少なくとも「方四千里」の一辺の四千里以上でなければならない。また「乍まち東」する距離も四千里になり、釜山・金海までの距離は七千里ではなく一万里になる。
図に赤線で示しているコースだと万一千里以上になるだろう。このことから古田武彦氏は帯方郡の部分は水行だが韓の国内はデモンストレーションのための陸行だとして、その理由を次のように述べている。
もし、韓国の西海岸と半島南岸部を「全水行」したならば、それだけで八千里(「方四千里」の二辺)近くになる。だから「帯方郡冶−狗邪韓国」間七千余里に矛盾する。
古田氏は韓国内を陸行とすることで釜山までを八千里とし、唐津(末盧国)までを万一千里としたいようだ。こうすると唐津から邪馬台国に比定した福岡平野までは千里になるから、合計は万二千里になる。しかし「従郡至倭、循海岸水行、歴韓国」を陸行だと解釈することはできない。
韓国がすべて水行であれば通説で邪馬台国までの距離とされている万二千里は対馬と壱岐の間になってしまう。末盧国とされる佐賀県東松浦半島までは万三千里になり、伊都国とされる糸島市付近は万三千五百里でなければならない。
奴国とされる福岡平野は万三千六百里でなければならず、不弥国とされる福岡県の宇美は万三千七百里になる。どのように見ても白鳥庫吉が説いた、不弥国と邪馬台国の間の距離は千三百里だとする説は成立しない。
結論をいうと狗邪韓国は釜山・金海付近ではないということだが、これには『日本書紀』神功皇后紀九年十月条に、皇后の三韓征伐のさいの渡海地点が対馬最北端の和珥津(上対馬町大浦)とされていることに一因がある。
『魏志』韓伝に見える弁辰12ヶ国の中に弁辰狗邪国があり、神功皇后の渡海地点が和珥津なら対岸の金海・釜山が弁辰狗邪国であり、それが狗邪韓国だと思われている。だが金海・釜山付近が弁辰狗邪国だという根拠はなく、もちろん狗邪韓国だという根拠もない。
伊都国=糸島郡、奴国=福岡平野、不弥国=宇美という通説と同様のことが狗邪韓国についても言えるのだが、狗邪韓国についてはあまり不信感を持たれておらず、むしろ当然のことのように思われている。
『魏志』韓伝の弁辰に触れた部分に「弁辰トク盧国(※1)與倭接界」とある。弁辰トク盧国は倭と境界を接しているというのだが、この場合の倭は対馬と考えてよく弁辰トク盧国は対馬に最も近い巨済島付近と見るのがよいだろう。
図に示しているように狗邪韓国の七千余里は金海・釜山付近ではなく全羅南道の巨文島付近でなければならない。そして倭への渡海地点は弁辰狗邪国ではなく弁辰トク盧国であり、通説は誤りだ。
このことについては、13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島沿岸・中国沿岸で活動した倭寇について、東京大学教授の村井章介氏が「マージナル・マン」(境界に生きる人々)と呼んでいることに関係があると思っている。