私のブログ『邪馬台国と面土国』
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現代の福岡県は文化的・経済的に福岡地区・北九州地区・筑豊地区・筑後地区の4地区に別れるという。これには地理的な条件が大きく影響しているが、3世紀にあってもこのことが言えるようで、倭人伝が邪馬台国とするのは福岡地区のようだ。
では卑弥呼の宮殿は福岡地区のどこにあっただろうか。私は福岡平野ではなく筑後川水系の朝倉(甘木)平野にあったと考えている。私は安本美典氏の『高天原の謎』(講談社、昭和45年7月)と『卑弥呼と邪馬台国』(PHP研究所、1983年9月)から多くのものを学んだ。
私の邪馬台国についての考えの多くは安本氏の説の受け売りと言ってよい。そのような意味で両書の一読をお勧めしたいと思う。
安本氏は倭人伝の記事だけでは情報が不足して邪馬台国の位置は定まらないとし、神話と結びつけることで甘木・朝倉地方を邪馬台国としている。
そのために安本氏の論証は倭人伝の地理記事とは無関係になる傾向があり、邪馬台国の範囲についても筑後川流域とされている。この点が惜しまれるが卑弥呼・台与は神功皇后ではなく天照大神であることは確かで傾聴すべき点が多い。
安本氏は甘木そのものが高天が原や天(アマ)に通じ、夜須町の夜須は『日本書紀』や『万葉集』に古くは安と記されているほか、神々が集ったという天の安河に相当する夜須川(小石原川)という川があるとする。
『古事記』『日本書紀』の天の香山(高山)もこの地に存在すると指摘する。上の写真は日向勉氏のブログ『邪馬台国探偵団42』から借用させて頂いた高山だが、高山の西南から撮影されたもののようで筑後川と高山の関係がよく分かる。使用したことを感謝したい。
この地域一帯には大和地方と一致する地名が多く、その位置関係もほぼ一致しており、この地の勢力が畿内に進出したことにより地名も移動したとする。そうであれば方位が南とされている投馬国もその周辺にある国だと考えなければならないが、筑後が投馬国だとすることができる。
卑弥呼を邪馬台国の女王だとする考えを見受けるが、卑弥呼は共立されて邪馬台国に国都を置いただけで邪馬台国の王ではなく、邪馬台国には元来の支配者(王)が居る。『後漢書』倭伝に次のようにある。
倭在韓東南大海中。依山島爲居。凡百余国。自武帝滅朝鮮。使譯通於漢者。三十許国。国皆称王。世世伝統。其大倭王居邪馬台国
「依山島爲居。凡百余国」については九州のことを述べていると考えている。後世の西海道(九州)は11国103郡になるが、郡はそれぞれ国と称していたと考える。
対馬2郡 壱岐2郡 筑前15郡 筑後10郡 豊前9郡 豊後8郡 肥前11郡 肥後14郡 日向5郡 薩摩13郡 大隅10郡
30国には大倭王がおり邪馬台国に居るとあるが、では大倭王の居たのはどの時代だろうか。女王国で王の居るのは邪馬台国と伊都国だけで、その他の国には官と副が居るとあるから、「三十許国。国皆称王」は卑弥呼が即位する以前の前漢時代か後漢時代のことでなければならない。
紀元前108年に武帝が衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を設置すると30ばかりの国が漢と接触するようになるが、30国については対馬2郡と壱岐2郡、および筑前15郡と筑後の10郡と考えればよいと思っている。
筑前15郡と筑後の10郡がいわゆる「筑紫」になるが、筑紫と壱岐・対馬、及び肥前の松浦郡あたりの5郡の支配者が王と称して漢と関係を持つようになるのだろう。
倭人伝に見える30国は対馬2郡・壱岐2郡・筑前15郡・筑後10郡・豊前9郡・豊後8郡、及び肥前11郡のうちの佐賀県部分が30の国に統合されたものであり、『後漢書』倭伝の30国と倭人伝の30国とは違うようだ。
後漢時代は25年〜 220年の間だが卑弥呼が即位した年代は不明だ。しかし『後漢書』倭伝の大倭王が卑弥呼でないことは明らかで、25年〜 220年の間の邪馬台国には卑弥呼ではない別の大倭王が居たと考えなければいけない。
107年には面土国王の帥升が後漢から倭国王に任じられており、239年には卑弥呼が魏から親魏倭王に任じられたから、大倭王というものは存在しなくなる。しかし「世世伝統」とあるように大倭王の子孫は残っており、それが倭人伝の大倭だと考える。
一大率と「如刺史」は別個の官職であり、一大率が居るのは伊都国で、「如刺史」の居るのは面土国であることはすでに述べたが、それに対して大倭の居るのは邪馬台国なのだ。
倭人伝に「国国有市。交易有無。使大倭監之」とあるが、卑弥呼・台与の時代の大倭は経済を支配しているキングメーカー(影の実力者)で、卑弥呼の王都を邪馬台国に置かせたのも大倭であろうと思う。
朝倉市の平塚川添遺跡については卑弥呼の宮殿と結びつけることもできそうだが、私は大倭との関係を考えるのがよいと思っている。また「天の安の河原」についても大倭が関係していると思っている。
神話では天照大神が岩戸にこもったために天地が暗黒になり、そこで八百万の神々が「天の安の河原」に集まって善後策を協議したとされている。平素は市場だが有事の際には有力者が参集するための広場が国ごとにあったようだ。
市場に物資を供給する必要があることや人の集まりやすいことことなどから広場は川岸(河原)にあることが多かったようだが、「天の安の河原」もそうした広場であり市場だったと考える。
出雲の特殊神事の出雲神在祭では全国から神々が参集するとされているが、祭礼の最終日に斐川町神立の万九千神神社で宴会を催し、その後に各地に帰っていくので地名を神立というのだとされている。万九千神神社は斐伊川の河原にあるが対岸に大津という地名があって市が立ったという。(出雲神在祭 その1)
『日本書紀』第2の一書ではオオモノヌシ・コトシロヌシが神武天皇に服属する時に「天の高市」に八十万(やそよろず)の神が集められたとされているが、高市という市場があったことを思わせる。
奈良県纒向遺跡では出土した土器の15%が大和以外から持ち込まれたもので、西日本の各地から人が集まったことが考えられているが、纒向遺跡は大和川の川原と言ってよい地勢になっている。
纏向遺跡の場合も海岸と川に関係があることが見てみてとれる。大和川と遺跡をむすぶ纏向大溝と呼ばれている溝がそれだ。幅5m、深さ1.2m、推定総延長2kmのこの溝は、桧の矢板で護岸されている。
纒向遺跡は有力な邪馬台国の候補地になっているが、纒向遺跡は磯城郡であって高市郡ではない。しかし高市郡に纒向遺跡に比肩する遺跡が存在するようには思えない。
纒向遺跡の中にある箸墓古墳は第7代孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫命の、大市墓( おおいちのはか)とされているが、大市も「天の高市」も共に纒向遺跡のことを言っているのではなかろうか。
纏向遺跡は卑弥呼の王都だとされるが、卑弥呼の宮殿だとされる大型建物は、有力者が参集するための集会場だと考える。崇神天皇の磯城瑞垣宮、垂仁天皇の纒向珠城宮、景行天皇の纒向日代宮などを考えてもよいのかも知れない。
大型建物の傍に掘られた土坑から桃の種2700個が出土し、卑弥呼の鬼道と関係があるとされて話題になっているが、魚の骨・カモの胸骨・シカの足や角・イノシシの奥歯なども出土したという。
土坑は市場から出るゴミを捨てるゴミ捨て場であり、桃の種は市場の売れ残りだ。また大和以外から持ち込まれた15パーセントの土器は酒や油などの液体を運ぶための容器だ。
そのような意味で平塚川添遺跡と小石原川の間は700メートルほどだが、その地名が上浦・下浦であることが気になる。浦という地名は海岸で船の停泊に適した場所であることが多いが、上浦・下浦は有明海からはるかに離れており、そのような場所ではない。
安本氏が説いているように天の安河が小石原川であるのなら、小石原川の河原が「天の安の河原」だと考えることができるが、上浦・下浦と言う地名があるのは、ここが「天の安の河原」であることが考えられるようになる。
そこには市場があり大倭がこれを差配していたと考える。13歳の台与が即位して間もない249年に司馬懿(仲達)がクーデターを決行し魏の実権を掌握するが、こうしたこともあって台与は名目ばかりの王で、政治の実権は大倭が掌握していたと考える。
安本氏の『高天原の謎』では夜須川(小石原川)の周辺には高木神社が著しく多いことが述べられているが、その祭神の高木神(高御産巣日神・高皇産霊尊)は神話の冒頭で高天が原に居る「別天つ神」の1柱とされており、邪馬台国の元来の王(大倭王)は高木神のようだ。
『太宰管内志』によると弘仁10(822)年に英彦山神社の神領地七里四方に高木神を主祭神とする48の大行事社が設けられたが、明治の神仏分離で高木神社と改称された。現在では大行事社とは関係がないと思われるものもあるが、周辺で知られているものに29社がある。
朝倉郡東峰村3 朝倉市杷木3 朝倉市須川1 朝倉市黒川2 朝倉市佐田2 朝倉市江川1
田川郡添田町3 田川郡大任町2 京都郡2 筑上郡1
嘉麻市5 宮若市1 筑紫野市2 久留米市1。
高木神を祭る神社は夜須川(小石原川)最上流部の旧高木村を中心とする上座郡とその周辺(邪馬台国)、及び国境を跨いで隣接する遠賀川流域の嘉麻・穂波郡(奴国)・田河郡(伊都国)に分布している。